連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』3

1月 06日, 2016 藤田尚志
§22. ベルクソンの手I :「例えば、拳を徐々に強く握りしめてみてほしい」

身体的要素がほとんど介入してこない深層の感情、とりわけ美的感情の例を取り上げながら、ベルクソンは、内包的=強度的なものから外延的=拡がりをもつものへの転換の機制を解剖し始めていた。そこで問題となっていたのは、ある感情の複雑な諸状態には、量ないし数以外の何物かが存在するということ、この文脈においてすらも、ある種の身体性が、リズムを通して密かに介入してきているということであった。ここでベルクソンは次に、身体的要素がほとんど不可避的に介入してくる「表層的」と言われる努力、すなわち「筋肉努力」を取り上げることで、いわば賭け金を上げる。というのも、「意識に量あるいは少なくとも大きさという形で直接に現れるように見える現象があるとすれば、それは異論の余地なく筋肉努力である」(17/15)からである。そこで彼は、努力する手や足の例を取り上げる。

麻痺患者が足を持ち上げようと努力するとき、彼はもちろん実際にその運動を行なっているのではないが、好むと好まざるとにかかわらず、別の運動を実際に行なう。何らかの運動がどこかで実施されているのだ。さもなければ、努力の感覚が生じるはずがない。すでにヴュルピアンは、半身不随の患者に萎えた手を握るようにと言うと、無意識のうちに病気でないほうの手でこの動作を行なうことに注意を促していた。(16/18)

これらの例について、「筋肉の力は〔…〕空間の中で展開され、測定可能な現象によって表される」(15/16)と考えることが誤りだというのではない。この手や足の例は、因果性の物理-数学法則に基づきつつ、あたかも内的な諸状態が測定可能な外部へと、内包的=強度的なものが外延的=拡がりをもつものへと発展しうるかのように考える、よくある錯覚を与える。麻痺患者や半身不随の患者の手や足の例に、否定的な形で、つまり現象の不在という形で観察されるのは、まさにこの錯覚的な進展なのである。次の例では、積極的な形で、つまり現象の現前という形で、それが現れる。「例えば、拳を「だんだん強く」握りしめてみてほしい。努力の感覚は、まったく手の中に局在化されたまま、だんだんと増加してゆく大きさを次々に通り過ぎていくように思われるであろう」(20/18)。だが、この過程の中で増大しているのは、実際には、努力の感覚ではない。努力の感覚は、生成変化の途上でその性質を変えているのであって、量的に増大しているわけではないのである。そこで増大しているものがあるとすれば、それは共時的に収縮している筋肉の数である。ここから次のような結論が生じてくる。「特定の努力が増大するという印象を与えれば与えるほど、交感的に(sympathiquement)収縮する筋肉の数がそれだけ増加するということ、身体組織の特定の部位で努力の強さが明らかによりいっそう大きくなるという意識は、本当は、努力作用に関与する身体の表面がよりいっそう大きくなるという知覚に帰着するということ、私たちが主張するのはこれである」(19-20/18)。要するに、筋肉努力の例において混同されているのは、努力の質的な感覚と、それに対応する筋肉運動の量なのである。手の例はここで、混合的なもの、つまり、「意識の事実である純粋な質と、必然的に空間たらざるをえない純粋な量とのあいだの妥協」(169/147)としての、不純な概念としての強度を告発するのに役立つ方法論的な道具立てとして登場している。

例えば、拳を「だんだん強く」握りしめてみてほしい。努力の感覚は、まったく手の中に局在化されたまま、だんだんと増加してゆく大きさを次々に通り過ぎていくように思われるであろう。実際には、手が感じているのは常に同じものである。ただ、最初は手のなかに局在化されていた感覚が腕に侵入し、肩までのぼったのだ。最後には、もう一方の腕が硬直し、両足がそれを真似るかのように固くなり、呼吸が停止する。身体全体が関与しているのである。しかし、これらが随伴運動だということは、それと告げられないかぎり、はっきりとは分からない。これまでは、ただ一つの意識状態に関与していて、それが大きさを変えていると思っていたのだ。(20/18)

問題を解決しようとするのではなく、偽なる問題として、その存在そのものを解消しようとするところにベルクソン哲学の真髄があるとはよく言われることであるが、ここにもその姿勢がはっきりと表れている。ベルクソンはここで、手の例とともに、「まずい仕方で提出された諸問題」の一つに数え上げられる強度概念の批判に取り組んでいるのである。『試論』第二章では、「私の指が表面なり線なりに沿って移動する」例とともに、「多様な性質をもつ一連の感覚」についての分析がなされ、今度は、二つのタイプの多様性の混同に対する一般化された批判が繰り広げられることになるだろう。一方には、不連続的で、数的な多様性がある。この多様性を構成する、同時的に並置された同質的な諸要素は、量的な差異化すなわち度合の差異によって相互外在的である。他方には、連続的で、したがって数には還元不可能な多様性がある。この多様性を構成する、継起的に有機組織化された異質的な諸要素は、質的な差異化すなわち本性の差異によって相互浸透している。こうして、純粋持続のうちに空間化された時間しか見ないことで、因果性の深い森のうちに自由の観念を見失ってしまうことになる……。

だが、先走るのはこれくらいにしておこう。ここで問題となっているのは、偽の問題ないし擬似問題の第一のタイプであるところの「まずい形で提起された問題」の一つである――その第二のタイプである「実在しない問題」については、『創造的進化』で見ることになるだろう(そこでは、いかに無の峻拒が同質的な空間の不連続性の批判によって準備されていたかが確認されることになる)。こうしてまずい仕方で提起された問題は、その諸項がまずい仕方で分析された混合物を表象しているという事実によって規定される。まずい仕方で分析された混合物においては、本性において異なるものが恣意的な仕方でまとめあげられてしまっているのだ。もし諸項が「自然な分節」に対応していないのであれば、そこで提起されている問題は偽だということであり、「事物の本性そのもの」には関係していない。こうしてベルクソンは強度を、そのような混合物として告発しているのである。感覚の質と、それに対応する筋肉空間を混同しているにせよ、あるいは、その感覚を産み出す物理的=身体的原因である量を混同しているにせよ、そこで問題となっている強度概念は、本性を異にする諸要素の不純な混合を含意している。だからこそ、「ある感覚は、他の感覚と比べて、どれほど大きいのか?」といった問いは、絶えずまずい仕方で提起された問題ということになるのである。同様に、自由の問題においては、二つの多様性のタイプ、すなわち空間内に並置された諸項の多様性と、互いに排除し合うことなく、直接与えられたものとしての持続のうちで相互浸透し合っている諸状態の多様性とが混同されてしまっている。

このプロセスは、例えば右手でピンをもって、次第に強く左手を突き刺していけば、容易に理解されるだろう。まずくすぐられたような感じがし、次いで接触感の後にちくりとした痛みが続き、それから一点に局在化された苦痛、最後にその苦痛が周辺一帯に拡散されていくのが感じられるだろう。そして、そのことを反省してみればみるほど、それらが質的に別々の感覚であるのと同様に同じ種類のさまざまな変異であるということが分かるだろう。ところが諸君は、はじめのうちは、ただ一つの同じ感覚が次第に周辺へと拡大し、ちくりとする痛みがだんだん強くなると言っていたのだ。それは、突き刺された左手の中に、それを突き刺す右手の漸進的な努力をそれと気づかぬまま局在化してしまったからである。こうして結果の中に原因が導入され、無意識裡に質が量として、強さが大きさとして解釈されてしまったのである。あらゆる表象的感覚が同じ仕方で理解されているに違いないことは、容易に見てとれる。(31/31-32)

この種の二つの手の例は、メルロ=ポンティにも見出すことができるが、それは、ベルクソンにおけるよりもはるかにセンセーショナル=感覚的でなく、はるかに暴力的でない仕方においてである。ベルクソンにとって問題となるのは、触れる手と触れられる手の神秘的な心地よい絡み合いではなく、「ますます深く自らを突き刺す」時に生じる、突き刺す手と突き刺される手の緊張関係なのだ。この例は、量化可能な表象と、形容しがたい感覚の間の絶望的に乗り越えがたい両義性をはっきりと示している。「ところで、この原因は外延的であり、したがって、計測可能である〔…〕。そのときわれわれは、結果のうちの或る質に対して原因のうちの或る量の観念を結合し、ついには後天的などんな知覚にも起こるように、観念を感覚の中に、原因の量を結果の質の中に置き入れるようになる。まさにこの瞬間に、感覚の或るニュアンスないし質にすぎなかった強度は、大きさになるのだ」(31/31)。リズムの例とともに、私たちは、強度と深さの境界線上で、情動的なものから身体的なものへと移行したわけだが、この「手」の例とともに、身体的なものから質の「ニュアンス」へ、すなわち同じ境界線上を今度は逆方向へと移行していくことになる。

1 2 3 4
藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。