連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』3

1月 06日, 2016 藤田尚志
§25. 「音楽の表現力、というよりむしろその暗示力」

心理状態の分類のうちの最後のセクション[E]において、ベルクソンは、表象的感覚として、音や重さ、光の感覚を取り上げているが、そこでもこれまでと同じ方向の結論――質的な差異の量的な差異への「翻訳」(35/36)にまつわる誤解、つまり一種の「誤訳」――を引き出している。音について言えば、「それを生み出すであろう筋肉の努力や、それを説明してくれる振動を、われわれがそこに導入するのでなかったなら、純粋な質にとどまったことだろう」(33/34)。重さについては、屑鉄が詰まっていると聞かされていたのに、現実には空のカゴを持ち上げるよう頼まれたときのことを考えてみればよい、とベルクソンは言う。あたかも、無関係なはずの筋肉が持ち上げるという行為にあらかじめ関心を寄せ、ある程度の重さを予期しそのために準備していたが、実際の行為に際して失望を覚えたかのように、そのカゴを掴むと平衡を失うような気がする。「とりわけ、有機体の様々な点で遂行されるこうした共感的努力の数と本性をもって、諸君はある一つの点での重さの感覚を測定することになろう。そして、このようにしてある大きさの観念をそこに導入するのでなかったなら、この感覚は一つの質にとどまったことだろう」(35/36)。光についてはどうか。「質の変化を量の変化として解釈するべく決心したからには、われわれは、まず手始めに、どの対象も一定不変の固有色を有するということを原理として立ててしまう。〔…〕したがって、われわれはまたしても、意識が受け取る質的印象を、われわれの悟性がそれに与える量的解釈によって置き換えるのである」(37/38)。

なぜ音が真っ先に取り上げられるのか。おそらくそれは、音の感覚においては、「強度とは別に、音を特徴づけるもう一つの特性、すなわち高さ〔音高 hauteur〕を判別している」からではないだろうか。この「強度/高さ」という区別は、もちろん先に見た「強度/深さ」のそれと完全に重なるわけではないが、前者は後者の始まりにあたるように思われる。「われわれとしては、より高い鋭さをもつ音が、空間内でのより高い位置というイメージを喚起することは認める。しかしだからといって、音階の様々な音は、それらが聴覚的感覚である限り、質によって以外の仕方で互いに異なる、との帰結がそこから導かれるのだろうか」(32/33)。強度にせよ高さにせよ、音の感覚すなわち聴覚的経験は、物理的=身体的な側面を排除したときはじめて、その純粋に質的な本性をあらわしうるのだ。というのも、音の感覚は物理的=身体的運動によって始まるほかないからである。

聞く(entendre)こと、それは自分自身に語る(se parler à soi-même)ことであると言われてきたではないか。ある種の神経症患者は、会話に立ち会うと自分の唇を動かさずにはいられないが、それはわれわれの誰にでも起こることを誇張したものにすぎない。われわれは、聴取された音を内的に反復して、その音の出所である心理学的状態、初めの状態へとふたたび身を置くのだということを認めないとしたら、音楽の表現(expressif)力、というよりむしろその暗示(suggestif)力は、はたして理解されるだろうか。もっとも、この初めの状態については、われわれはこれを表現する術を知らないとはいえ、われわれの身体の全体が採用する運動によってこれは暗示されているのだが。(32/33)

先に美的感情の分析において確認したように(§§19-21)、芸術の用いる催眠暗示(suggestion hypnotique)的な力は、反復的で誘惑的なリズム性を産み出すことに存していたことを想起しておこう。ここでベルクソンは、「聞く entendre」という経験に際して、ある種の神経症患者の例(会話に立ち会うと自分の唇を動かさずにはいられない)を引き合いに出し、それを「われわれの誰にでも起こることを誇張したものにすぎない」と述べている。音楽を聞くとは、聴き取られた音を内的に反復しつつ、その音の出所である演奏する他者ないし楽曲の提示する心理状態へと身を置こうとすること、「こうして表現された感情にわれわれを共感させること」(13/11)である。いわば演奏を通じて生じる音楽家と聴衆の響き合い、共振を生ぜしめることに他ならない。しかしながら、音の高さに、音の強度とは根底的に異なる何かを割り当てているわけでもないことは強調しておかねばならない。「音が高いと言われるのは、身体が、あたかも空間内の高い対象に届こうとするかのように努力するからである。こうして音階の各音に音程を割り振る習慣が身についてしまったからには、物理学者が音程を、一定時間にこれに対応している振動数によって定義しえた時には、もはやわれわれは何の躊躇いもなく、自分の耳は直接的にこの量的差異を知覚していると述べることができたのだ」(33/34)。この意味で、高さと強度は異なる本性をもつものではない。

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藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。