連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』4

1月 06日, 2016 藤田尚志

§29. メロディーからリズムへ

「持続」の例ないし隠喩メタファーとしてベルクソンが、メロディーを特権視していることはよく知られている。ジャンケレヴィッチは、持続の構造を特徴づけるものを「有機的全体性 totalité organique」と呼んだ(これは、彼のベルクソン論第1章のタイトルでもある)。メロディーの全体は各部の存在なしには成立せず、その逆もまた然りであるとすれば、メロディーが持続のイメージとして特権的な位置を享受するのはごく自然なことであるように思われる。

まったく純粋な持続とは、われわれの自我が黙々と生きるだけで、現在の状態と先行する諸状態とのあいだに分離を設けるのを差し控える場合に、われわれの意識的諸状態の継起がまとう形態である。そのためには、自我は、過ぎ去っていく感覚なり観念のうちに全面的に没入してしまう必要はない。なぜなら、その場合には逆に、自我は持続することをやめるだろうからだ。とはいえ、自我は先行する諸状態を忘れる必要もない。そうではなく、これらの状態を想起しつつも、点と点のようにそれらを現下の状態と並置するのではなく、あるメロディーに属する複数の音をいわばひとつに融合したものとして想起する場合のように、現下の状態とそれに先立つ諸状態を有機的に組織化すれば足りるのである。(67/74-75)

ベルクソンは、諸部分が区別されながらも相互浸透しつつ、緊密な連帯性を取り結んでいるような全体を、一つの生物に例えている。「その証拠に、われわれが拍子(mesure)を外して、メロディーの一つの音を過度に長引かせた場合、その過失をわれわれに知らせるのは、その音の過度の長さ――長さである限りでの長さ――ではなく、それによって楽節の総体にもたらされた質的変化なのである」(68/75)。諸要素の相互浸透、連帯、内密な有機的組織化としての区別なき継起、これこそメロディーが強調する持続の側面である。物質的ではあるが、意識を有し、運動する点Aを想像してみよう、とベルクソンは仮説的例を提示する。その点はいかなる感覚を持つであろうか。

むしろそれらの感覚は、互いに動的に付加され、われわれを揺すってあやす〔bercer〕メロディーの諸々の継起的な音がそうするように、互いに有機的に組織化されていくだろう。要するに、純然たる持続はまさに、融合し、相互に浸透し合い、明確な輪郭をもたず、互いに他を外在化しようとする傾向をもたず、数とは何の類縁性ももたない、そのような質的諸変化の継起でしかないはずなのだ。そのような持続とは、純粋な異質性であろう。(69-70/77)

これらの引用から持続の様々な特徴を引き出してくることが可能であろうが、もし誇張を承知でメロディーの例によって明らかにされた特徴をただ一つ選ばねばならないとすれば、それは、互いに融合し、浸透する諸性質の有機的全体性ということになるだろう。メロディーは、全体の中への融合(全体化)という意味でのダイナミックな進展、絶えざる変化、純粋な異質性を見事に表している。

にもかかわらず、ベルクソンはリズムのイメージを用いることがある。続く30‐32節では、ベルクソン的リズム概念の大きな三つの特徴を見ていくことにしよう。三つの特徴とは、反復性(§30)、数性(§31)、身体性(§32)である。まずは今引用したばかりの文のすぐ後の一節を読んでみよう。

振り子の規則的な揺れがわれわれを眠りに誘うとき、この効果を産出したのは、聴取された最後の音であり、知覚された最後の運動なのだろうか。〔…〕したがって、諸々の音は互いに合成され、量である限りでのそれらの量によってではなく、それらの量が呈する質によって、すなわちそれらの総体のリズミカルな有機組織化(organisation rythmique)によって作用する、ということを認めなければならない。(71/78-79)

音楽を構成する三つの根本要素として、しばしばメロディーとハーモニー、そしてリズムが挙げられる。メロディーが音の継起的な連続性(水平的構造化)を表し、ハーモニーが音の同時的な高さの関係性(垂直的構造化)を表すとすれば、リズムは、その両者を繋いで音楽的時間現象を枠づけるものである。図式化を承知で言えば、メロディーが連続性の相、ある全体の統一性の相をよく説明してくれるとすれば、リズムは同と他の特異な絡み合いについて語ることを可能にしてくれる。上の例で意識において問題となっているのは、差異を生み出す反復である(「振り子の規則的な揺れがわれわれを眠りに誘う」)が、そもそも冷静に考えてみれば、ベルクソンが『試論』第2章で用いている、持続の例やメタファーの大部分は、反復的律動の例なのである。最も有名な例だけを思い返してみても、「継起的に打たれる遠方の鐘の音…」(58/64)、「例えばわれわれが金槌を打つ一連の音を耳にするとき…」(83/93)、「私がこの何行かを書き記している瞬間に、隣室の掛け時計が時を打つ…」(84/94)などである。これは、ベルクソンの持続概念と言えば、私たちがすぐさまメロディーの例を思い出すだけになおいっそう奇妙な事態ではあるまいか。さらに言えば、メロディーという語で説明がなされていても、ある種のリズム性が問題となっているかのような場合すら存在する。そこでは、『試論』第一章の読解で、リズムと催眠暗示の例とともに、その萌芽を垣間見たリズム数論の論理がさらに発展した形で用いられているように思われる。

例えばわれわれが金槌を打つ一連の音を耳にするとき、それらの音は、純粋な感覚としてはひとつの不可分なメロディーを形成し、さらにはわれわれが動的進展と呼んだものを惹起する。(83/93)

動的進展における質的要素を完全に無視し、ある外的で物理的な原因から出発して推論することで、「質なき量」への道が開かれる。この論理の萌芽が見られたのは、『試論』第1章の強度に関する議論において(より正確に言えば、強度的大きさの批判において)であり、そういうわけで私たちはこの議論を「範例的パラディグマティック」と呼んでおいたのだった。だが、第1章においてこの論理は「萌芽」だったのであり、未だ大きく発展させられていたわけではなかった。ここでその要点を述べておこう。「質」という言葉は確かに重要であり、意識や精神の領野に属する語として用いられているが、よく見てみると、ベルクソンが強調しているのは、「質」そのものというよりは、「量の有する質」(82/92)なのであり、「量である限りでのそれらの量によってではなく、それらの量が呈する質によって」(71/78-79)なのである。上に引いた例(鐘、金槌、掛け時計)は確かに持続概念を導入するのに役立っているが、持続と空間、精神と身体、生命と物質の深い結びつきを示してくれてもいる。意識に直接与えられたものは、いかにその純粋な精神性が強調されようとも、それ自体混合体である。ここから『試論』の内在的感性論の密やかなプロジェクトが生じてくる。持続の絶えず移り変わっていくという特徴、融合的異質性や質の流動性を強調するのは間違っていないが、この流動性や変化のうちに何かしら根底的に新しいものないし各瞬間ごとに異なっているものを探すべきではない。日常生活の中の現実的な持続はそのようにはなっていない。反復の中に探すべきはそのような大がかりな変化や流動性ではなく、反復のうちに産み出されるごくわずかな変化であり、ごくささやかなニュアンスである。「ぜひとも言っておくべきだろうが、どんな感覚も反復されることで変容する」(87/98)。あるいは、第3章からの引用だが、「心理的要素は不断に生成するもので、たとえ同じ感情であっても、それが反復されるだけで、新たな感情と化すのである」(131/149)。この本質的な物質性と差異化的反復性こそが、私たちのリズムへの注意を正当化してくれる。では、持続のリズム性が私たちに明らかにしてくれるものを、次に見ていくことにしよう。
 
 


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[第4回初出:2013年7月18日]
【編集部より】本連載の第29回までは、2013年4月15日から2015年12月28日にわたり、勁草書房サイトに掲載されていたものを移行いたしました。未読の方は、ぜひ第1回からお読みください。第30回からは編集部サイトでの掲載が初出になります。*注は省略してあります。

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藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。