連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』5

1月 06日, 2016 藤田尚志
§30. リズム的計測(rythmesure) I:数(arithmos)とリズム(rhuthmos)

『試論』第二章において、リズムはまず、メロディーや旋律(air)によく似た何かとして、それらとともに登場する。ひとが純粋持続のなかで音を数えていると思っていても、その時実際には理念的な空間のなかで継起的な音を並置しているにすぎないのである。

たしかに、鐘の音は継起的に私に届くのだが、ただし、その場合二つに一つである。すなわち、ある場合には、私はこれらの継起的諸感覚の各々を保持し、それらを他の諸感覚と共に組織化して、私に既知の旋律(air)や律動を想起させるようなある群を作り上げるのだが、その場合、私は音を「数えて」いるのではなく、音の数が私にもたらすいわば質的な印象を取り集める(recueillir)にとどまる。他の場合には、私はそれらの感覚を数えることを明白に意図するが、その場合、私はこの音をまさに分断しなければならず、この分断は何らかの等質的な媒体において施されなければならない。そこにおいて音は、質を剥奪され、いわば空虚にされることで、それらの推移に伴う数々の同一の痕跡を残すにすぎない。(59/64-65)

ここで問題となっているのは、鐘の音として私たちに届く継起的な音的感覚を「取り集める」二つの仕方である。質的印象しかとどめない場合、私たちは音を数えることはなく、それらの音は、意識のうちにメロディーないしリズムとして有機組織化された或る一つの全体を形成する。それらの量に意識を集中するとき、音は意識のうちにある数の観念を喚起し、私たちは音を数えることになる。だが、ここで、「音の数が私にもたらす質的な印象」という表現に注目せねばならない。数的でない多様性と言われているもののただ中に数が表れているのはどういうことか? 次に引用する一節は、『試論』においてアリストテレスの名が現れる唯一の箇所であるだけにいっそう重要な個所である。

要するに、二種類の多様性を、「区別する」という語にありうべき二つの意味を、そしてまた、同と他とのあいだの差異についての、一方は質的で、他方は量的な二つの考え方を承認しなければならないだろう。ある場合には、この多様性、この区別、この異質性は、アリストテレス風に言えば、潜勢態においてのみ数を含む。それというのも、意識は、諸々の質を数えたり、さらにはそれらを複数のものにしようとするいかなる下心もなしに、質的差別化を施すからである。その場合にはまさに量なき多様性があることになる。また別の場合には、反対に、数えられたり、数えうるものとみなされた諸項の多様性がある。ただし、そこで考えられているのは、これらの項を互いに外在的なものにする可能性であって、かくして諸項は空間のうちで展開されることになる。(81/90)

したがって、ここでは単純に「数的な多様性」と「数的でない多様性」が対立させられているわけではない。数えられ、外在化され、空間化された諸項の多様性に対立させられているのは、まさにある数の概念なのであって、それは潜勢態の数、質的差別化、量なき多様性である。ちなみに、この「潜勢的数」の概念のおかげで、先の量的多様性が可能になるのであり、加算ということ自体が成立するために、「相互浸透」と「質的進展」が必要なのである。質的多様性ないし「量の質」(82/92)は、まさにそのかぎりで、量的多様性ないし「質なき量」に、――その基礎そのものの可能性を賦与することで――先行する。「われわれは、先に質的多様性と呼ばれたものを並行的に考察することなしには、判明な多様性の観念自体を形成することができない」(81/91)。そして、質的多様性のこの別様に数的な側面を規定するに際して、ベルクソンはもはやメロディーの例にはまったく依拠せず、リズムを持ち出す。

要するに、われわれが諸単位を数えて、その判明な多様性を形成する際の過程は二重の相を呈する。すなわち、一方ではわれわれはそれらの単位を同一的なものと想定するが、それが可能になるためには、諸単位を等質的媒体のうちで配列しなければならない。しかし他方では、たとえば三番目の単位は、残りの二つの単位に付加される際に、その総体が有する本性や様相や、そのリズムのごときもの(la nature, l’aspect, et comme le rythme de l’ensemble)を変容する。こうした相互浸透といわば質的な進展を欠いては、いかなる加算も可能ではないだろう。――したがって、われわれが質なき量という観念を形成するのも、量の有する質のおかげなのである。(82/92)

ベルクソンは単に「加算」と「相互浸透」を、「質なき量」と「量なき質」を対置しているのではない。数(arithmos)ないし算術的数(nombre arithmétique)の多様性に対して、リズム(rhuthmos)ないしリズム的数(nombre rythmique)の多様性こそが先行するのであって、「数え終えられた数」と「数えられつつある数」が、「数えられたものとしての数」と「数えるという行為」が対立しているのだ。ここで「潜在的な数」とは、決して「数えるという行為」のもたらす現働化と切り離されたものとしてではなく、むしろ逆に「数えるという行為」がその本性を変容するものとして理解する以外に、どのように理解できるであろうか。「数的なもの」と「別様に数的なもの」(あるいは、より正確には「数的なものとは異なる仕方で」)との、この並行性を強調しておこう。「諸々の単位を空間内に配列して明白な仕方で数える場合でも、実際には、等質的な地の上で同一的な諸項が描かれていくこの加算とは別に、魂の深みでは、これらの単位相互の有機的組織化というまったく動的な過程が継続されているのではなかろうか」(81-82/91)。
「メロディー」という語が用いられているまさにその時でも、リズム現象のことが考えられている場合がある、と先に私たちは言っていた。「例えば、われわれが金槌を打つ一連の音を耳にするとき、それらの音は、純粋な感覚としては一つの不可分なメロディーを形成し、さらには、われわれが動的進展と呼んだものを惹起する」(83/93)。最低限言いうることは、持続のメロディー的な相互浸透、連続性、水平的構造化としての自己組織化の側面を描写することだけがここで目指されているわけではない、ということである。

これらの〔意識の〕イメージは、あるメロディーの音のように互いに浸透し合い、自分たちを有機的に組織することで、区別なき多様性ないし質的多様性とわれわれが呼ぶところの、数とは何ら類似を持たないものを形成するに至る。かくして私は純粋持続のイメージを獲得することになろう(……)。したがって、諸々の音は互いに合成され、量である限りでのそれらの量によってではなく、それらの量が呈する質によって、すなわちそれらの総体のリズム的で有機的な組織化(l’organisation rythmique de leur ensemble)によって作用する、ということを認めなければならない。(82/92)

なぜベルクソンはここで、「メロディー的」ではなく、「リズム的」という形容を用いたのか。メロディーが持続の有機的全体性の側面を的確に捉えることを可能にしてくれるものだとすれば、リズムの理論的な射程はいかなるものであるのか。ウジェーヌ・ミンコウスキーはすでに、メロディーから逃れ去るものに気づいていた。

純粋持続へとたどり着く道筋としての『試論』においては、第一に継起が置かれている。第二章のタイトルそのものが(……)それを証している。こうしてメロディーは、ベルクソンの偏愛する例証として役立つものとなる。一方では、空間内で孤立させられた音符たち、他方では、意識内でメロディーの形態の下での、それらの有機組織化。ただし、ただメロディーのモデルだけによっては、それがいかに真理を明かしてくれるものであろうと、そのうえにわれわれの生を打ち立てることはできないであろう。「生きられた持続」は、以上で語ってきた曖昧さに終止符を打つ。「生きられたもの」は、調子(tons)をより鳴り響くもの(vibrants)とし、意識的なものが達するよりも、はるかな深みにまで達する。

ミンコウスキーがここで、「生きられたもの」の「より鳴り響く」調子と表現する際に用いている語vibrantは、「震動する、鳴り響く、感情のこもった」などの意味を持つ語である。ここに表れているものこそ、水平的凝縮(contraction horizontale)としての分節(articulation)ではないだろうか。実際、リズムが理論的射程として孕んでいるものとは、tonus、緊張(tension)であるように思われる。それこそ、「異質的連続性」という持続の性格における二つの要素(異質性と連続性)を矛盾なくつなぐものである。そうであれば、なぜベルクソンが、時間的漸進の様相を形容するのに、「力動的、ダイナミック」という語を用いたのかが理解できる。持続の連続性は、等質的で平板な連続性ではなく、自分自身に対する異質性、すなわち自らを反復することで内的な差異を発生させる内的な緊張を孕んだ連続性である。有機的全体性の力動性を内側から支える持続は、緊張の差異化によって特徴づけられる。この側面を説明すべくベルクソンが用いているのがまさにリズムの例であるように思われるのである。

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藤田尚志

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ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。