連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』5

1月 06日, 2016 藤田尚志

第3章 自由の度合い(『試論』第3章の読解)

『試論』第一章は、強度的な大きさの仮説を批判しつつ、精神物理学が排除することから始めた質的要素こそまさしく、精神物理学が手に入れ計測してみせると主張していたものを実際に捉えるための鍵になるものであることを示した。そのために、心理学的探究のいわば水平的と垂直的の二つの軸が導入された。強度ないし継起が水平軸であり、深度ないし上昇が垂直軸である。『試論』第二章「意識的諸状態の多様性について――持続の観念」が前者の軸を、第三章「意識的諸状態の有機的組織化について――自由」が後者の軸を扱う。「多様性」(相互浸透、セリー化)と「有機組織化」(深化、凝縮)は、意識の二つの構成様態である。

第二章は、意識的諸状態の量的並置の仮説を批判しつつ、ミュラーやロッツェ、ヴントなどドイツ系の心理学や「英国学派」(67/74)が実在的な意識から排除することから始めた時間的な要素こそまさしく、それらの実験心理学が説明してみせると主張していたものを実際に捉えるための鍵となるものであることを示した。そのために、多様性の二つのタイプが区別された。「並置の多様性と相互貫通の多様性」(51/56, n.1)、前者は弁別的で量的な多様性であり、後者は判明に区別される諸部分を持たず、有機的全体性を持つ多様性である。この区別のなかで持続と空間の区別が与えられるが、持続の内的で緊張的な異質性のみならず、この持続と空間の区別そのものの内包浸透状態もまた、メロディーによってよりも、リズムによって分析されうるものであった。

では、第三章はどうか。第一章では「質的なものの計測」(測りえぬものを測る)に、第二章では「持続のリズム」(異質性と連続性の連関)に注目したとすれば、第三章では「自由の度合い」(度合いを持たぬものの度合い)に注目することになる。

§32. 決定論批判

「時間を空間のうちで展開させ、継起を同時性のただ中に位置づけさせたその根本的仮説の不条理さ」(92/104)を糾弾する第二章に続いて、『試論』第三章は、自由と自我の概念を発展させる。第二章末尾で、ベルクソンは第三章の内容を、こう予告している。

われわれはこれから、因果性の、自由の、一言で言えば、人格の諸問題に内属する数々の矛盾もこれ以外の起源をもたないということ、そして、これらの困難を斥けるためには、自我の象徴的表象に換えて、実在的自我、具体的自我をたてれば十分であることを見ていく所存である。(92/104)

「因果性」を批判すること(そしてそれによって、物理的であれ心理的であれ決定論全体を批判すること)、この批判を通して、「自由」の真の意味を取り戻すこと(意思決定の問題を解決すること)、そして、そのための鍵を「人格」のうちに探りあてること(そうして、記憶の問いにたどり着くこと)――これが第三章の構造である。この章の導入部分がこの構造を次のようなプランとして提示してくれている。

われわれはこれより、[1]これら二つの決定論の形態のうち後者は前者に帰着するということ、そして、あらゆる決定論は、物理的なそれでさえ、ある心理的な仮説を含むということを示してみたい。次いでわれわれとしては、[2]心理的決定論そのものと、それに与えられる数々の反駁とが、意識状態の多様性や、とりわけ持続についての不正確な概念に依拠しているということを確証する所存である。かくしてわれわれは、前章において展開された諸原理の光に照らされて、自我が、他のいかなる力(force)の活動とも比較できないような活動をなすものとして姿を現すのを目撃することになるだろう。(94-95/107)

したがってこの『試論』第三章は、ヴォルムスも言うように、「活字の組みかたそのものからして」――というのもベルクソンはしばしば論の流れを行を空けることで示したからであるが――、二つの主要な部分に分けることができる。前半部では、二つの決定論を批判し、そこから自由の定義(自我全体の表現としての自由行為)が引き出されている。後半部では、とりわけ機械論的因果性(causalité mécanique)の批判を通して、自発性ないし他のいかなる力にも還元できない、ある「力」の効果としての動的因果性(causalité dynamique)が打ち出される。したがって、他の場所でもしばしば見られることであるが、この章でもまた、批判的=防御的な動きと創造的=攻撃的な動き、解体的な論証(démonstration démolitive)から構築的な主張(affirmation constructive)へという二面からなる波状運動が繰り返されているわけだ。第一波は、自由と自我の関係を打ち立て、第二波は、偶然性・予見・因果性に対する三つの批判を通じて、ベルクソン的な観点から見た特異な「自由」の諸特徴を明らかにする。私たちは第一波に焦点を絞り(本節前半と次節で扱う)、第二波に関してはごく簡単に扱うことにする(本節後半)。というのも、私たちの目的は、次の二点を明らかにすることにあるからである。

1)どのように催眠暗示は、否定的な仕方で、自由の度合いと自我の深度を規定するのに役立っているのか。

2)「自由の度合い」(degrés de la liberté)とはいかなるものか。それはいかなる仕方で、自我の深度と呼応しているのか。

私たちは、「心理的決定論」の一節から始めることにする。ベルクソンは、物理的決定論から始めて心理的決定論へと着実に論証を進めているが、「要するに、いわゆる物理的決定論はつまるところ心理的決定論に帰着する」(103/117)以上、上記の目的からすれば、私たちにとっては、心理的決定論を検討しておけば、それで十分だからである。ところで、第一章の標的が、心理的諸状態の強度的大きさを計測しようとする精神物理学であったが、第三章の標的は「心理的決定論の、最も精密で最も新しい形態」(103/117)たる連合主義である。連合主義的思考に基づけば、意識の現在の状態は、先行する状態によって規定されている。ただし、幾何学的な必然性として、ア・プリオリに演繹的な仕方で規定されているのではなく、経験的な仕方で、つまり現在の状態への移行の「原因」を与えるような何らかの理由ないし動機に基づいて規定されている、と連合主義心理学は言うのである。

第一の解体的攻撃は、敵対的立場にあえて身を置き、敵の想定を引き受けてみせたうえで、何ら不都合が生じないか見てみようとする。ベルクソンはこうして、「仮に連合主義の立場に身を置いたとしても、行為はその動機によって絶対的に決定されており、また、われわれの意識状態も互いに絶対的に決定されていると主張するのは困難である」(105/119)ことを示す。ここでベルクソンが「ラディカルな非-自由の諸事例を喚起する危険を冒し」つつも、「連合主義に抗する反例」(ヴォルムス)として戦略的に選ばれた例こそ、催眠暗示にほかならない。

ある被験者が、催眠状態のなかで受け取った暗示を指定の時刻に遂行するとき、彼が行う行為は、当人によれば、彼のうちでそれに先行する一連の意識状態によって導かれている。しかしながら、これらの状態は実は結果であって原因ではない。行為は遂行されねばならなかったし、被験者はこの行為を説明しなければならなかった。だから、未来の行為のほうが一種の引力=魅力(attraction)によって心理的状態の連蔵的系列を決定したのだが、そのうえで、未来の行為はこの系列から自然に出来するものとみなされる。(104/118)

催眠術師は、被験者に対して、ある時刻に来るように暗示をかける。催眠状態に置かれた被験者は、あれやこれやの理由で来たと語る。だが実際には、彼の与える理由は、純粋な作り話ではないとしても、事後的に生み出されたものにすぎない。ある考えの出現を正当化するために、その原因と思われる時間的に先行する諸状態が生み出されるが、実はそれは効果・結果にすぎないという場合があるのである。これに対して、決定論者たちは、この催眠の例を、「われわれが時に他人の意志の影響を抗しがたく蒙る」ケースと見なし、催眠術師の命令によって被験者の行動が決定されるという時系列順の関係こそが正しい秩序だと説明し、ここでもまた連合の諸法則が「証明」されたとするのである。だが、ベルクソンはさらに議論を先鋭化させる。

しかし、この議論はまた、いかにしてわれわれ自身の意志は意志するために意志することができ、次いで、遂行された行為のほうが先行的行為の原因であるにもかかわらず、前者を後者によって説明づけることができるかをも同じく理解させてくれるのではなかろうか。(104/118-119)

これはどういう意味であろうか。ジェイムズ流のfiatのような、意識の予見不可能で創造的な、脱文脈化させる運動のような何かを意味しているのであろうか。ベルクソンがここで言わんとしているのはむしろ、意志は無為に空転することもあるということ、決定論者たちが何を望むにせよ、堅固な連合法則を脱臼させる論理的な深淵があるということであるように思われる。晩年の著作『二源泉』における合理的道徳の批判を思い出そう。ここでの議論と同型の議論をしているように思われる。

われわれの意志を現実に動かし、また実効をあげる力がまず登場したうえでなら、さまざまな作用を調整するために理性が介入する余地はあり、また事実、介入せねばなるまい。だが理性は、そうした諸力に張り合うことはできまい。なぜなら、われわれはその理性を相手にいつでも理屈が言えるし、出された理由に他の理由を対抗させ、あるいはあっさり議論は断わって、「ワレハカク欲シ、カク命ズ」と答えることさえできるのだから。責務の基礎を純粋に合理的な考慮のうちに捉えたつもりの道徳説は、実は、(……)いつの場合でも、自分ではそうと知らずに別の次元の諸力をふたたび引き入れているのである。(DS 1050/90-91)

私の意志が他の誰かの意志によって影響を受け、ある決定をさせられると言えるためには、まず私の意志が自ら自己決定し、自らに決定的な命令をくだすことができるのでなければならない。だが、「誰某は自分自身の意志のみによって自己決定した」と誰が判断しうるのであろうか。「われわれは自由に行為していると思うかもしれないが、後で反省することで、ようやく自分の誤りを認めるであろう」(112/127)以上、通常は――後でこの「通常は」に戻ってくるが――自分自身についてすらそのようなことは言いえないであろう。いかにして、事後的にではなく、その場でただちに自らの「内なる声」(voix intérieure)を聴くというのだろうか。

綿密に自問してみれば分かるだろうが、決心はすでについているのに、われわれは動機をあれこれ吟味したり考えあぐねたりすることがある。かろうじて知覚されるほど微かな内なる声が囁く、「何を考えあぐねているのか。結末は分かっているし、これから自分が何をするかもよく知っているではないか」、と。(……)意志の唐突な介入とは、われわれの知性が予感していたクーデタのごときものであって、知性は正規の熟慮を通じてそれをあらかじめ合法化するのである。(104-105/119)

この議論は、連合法則から特権を剥奪する役割を担っている。ベルクソンが用いている「クーデタ」と「合法化」という政治的な比喩を延長して言えば、背後の力に操られる傀儡政権のようなもので、熟慮は、その見かけにもかかわらず、究極的なところで自己決定性に関して無力であることが明らかになる。「意志決定」に関する議論を危機に陥れることで、催眠暗示の例は、決定論者たちとその敵対者たちを同時に批判する機能を果たしている。ベルクソンがここで斥けようとしているのは、「自己決定」という紋切り型の考えの全体である(この「自己決定」概念についても後で立ち戻ることにする)。

以上がベルクソンによる決定論への攻撃の第一波、より詳しく言えば、自由の既成概念を攻撃し解体する前半部である。この後、ベルクソン的な自由概念の提示が続くのだが、それについては次節で詳しく見ることにして、その前に第二波の攻撃をごく簡単にまとめておこう。

自由の問題は、因果性や偶然性、予見可能性の問題には還元されない――ごく乱暴にまとめれば、これが『試論』第三章の批判的部分の眼目である。特に強調しておくべきは、ベルクソンが糾弾するのは、偶然性を否定し予見可能性と機械論的な因果性を主張する決定論者たちばかりではないということ、彼らとは逆に、偶然性を主張し、予見可能性と機械論的因果性を否定する「自由の擁護者たち」(115/131)をもまたベルクソンは批判しているということ、これである。偶然性(AでなくBを選びえた)について語るということは、自由の擁護者たちですらも、ある時点で分岐点があり、そこでAかBかを選んだと考えているということである。だが、分岐点について語りうるためには、まず分岐した後の二本の線が描かれていなければならないであろう。ということは、決定論者たちのみならず、自由の擁護者たちもまた、結局のところ時間を空間と同一視し、流れゆく時間を軌跡の描かれた直線として捉えている。まったく違うように見えて同じ過ちを犯していると、両者ともに斥けるベルクソン的アンチノミーがここにも現れている。実際には、熟慮のプロセスそのものが、決断に関する連合主義的図式をすべて解体してしまっている。

本当のところはどうかというと、自我は、それが第一の感情を抱くというそのことだけで、第二の感情が到来する際にはすでにいかほどか変化してしまっているのだ。熟慮の全瞬間において、自我は変容し、それゆえにまた、自我を動かす二つの感情をも変容させる。互いに浸透し合い、互いに強化し合い、自然な発展によってやがて自由な行為に到達するような諸状態からなる一つの動的系列がこうして形成される。(113/129)

なぜ機械論的因果性は、「実に根深い錯誤、実に執拗な先入見」(132/152)として批判されねばならないのだろうか。なぜ「これらの錯誤や先入見の原理そのもの、すなわち因果律を攻撃する」必要があるのか。なぜ「私はこれこれの理由で決断を下した」と言いえないのであろうか。これら三つの問いに答えねばならない。

1)まず、ある一つの理由に焦点を当てる、あるいは諸々の感情や観念の間で摩擦を生じさせるためには、それらを判明な諸部分に切り分け、空間化するのでなければならない。自我と無意識といった心的場所論は、心理的諸要素の空間化を必要とするのである。

2)次いで、自らの決断を明確に意識するには、それを言語・非言語を問わず記号化せねばならないが、記号は、「魂を揺さぶる愛や憎しみや幾多の感情の、客観的で非人格的な相」(108-109/123)しか定着させることができない。

3)最後に、意志決定の深淵を避けるには、決断一般という問題設定そのものを廃棄し、「すでに決断されてしまった事態」と「なされつつある決断」を区別せねばならない。

要するに、自由に関しては、その解明を求めるどんな要請も、それと気づかぬうちに、「時間は空間によって十全に表されうるか」という問いに帰着してしまうのだ。これに対してわれわれはこう答える、流れ去った時間については諾だが、流れつつある時間については否である、と。しかるに、自由な行為が生じるのは流れつつある時間においてであって、流れ去った時間においてではない。したがって、自由はひとつの事実であり、確認される数々の事実のうちでも最も明白な事実である。(145/166)

こうして『試論』第三章は締めくくられることになる。自由は意志決定一般というような大雑把な計測からは逃れ去る。「ひとは自由であるか否か」といった二者択一は実は意味を持たないということだ。では、ベルクソンは自由をどのように規定しているのか。自由の刻むリズムを次に見ていくことにしよう。
 
 


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[第5回初出:2013年9月2日]
【編集部より】本連載の第29回までは、2013年4月15日から2015年12月28日にわたり、勁草書房サイトに掲載されていたものを移行いたしました。未読の方は、ぜひ第1回からお読みください。第30回からは編集部サイトでの掲載が初出になります。*注は省略してあります。

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藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。