ベルクソン 反時代的哲学 連載・読み物

『ベルクソン 反時代的哲学』7

1月 06日, 2016 藤田尚志
§36. 暫定的結論

質的差異の忘却を批判し、算術的差異との混同を戒めるベルクソンは、一見すると「計測」を信じていないように見える。だが、この「計測恐怖症」(métrophobie)の神話を信じるには、ベルクソンはあまりに科学的であり実証主義的である。

そこでわれわれとしては、意識に対して、外的世界からひとり引きこもり、抽象化の力強い努力によって(par un vigoureux effort d’abstraction)ふたたび自分自身になるよう要求することにしたい。(61/67)

いまだ変質を蒙らざる意識が覚知するであろう形で、この根底的自我を取り戻すためには、まず初めに屈折させられ、次いで等質的空間のうちで固化されたイメージから、内的で生きた心理学的諸事象を切り離すための、分析の力強い努力(un effort vigoureux d’analyse)が必要である。(85/96)

しかし本当のところは、反省の力強い努力によって(par un vigoureux effort de réflexion)、つきまとう影から目を逸らして自分自身のうちに立ち戻るたびに、われわれはこの自我を覚知しているのである。(conc, 152/175)

『試論』を貫いて繰り返し登場するこれらの表現は、ベルクソンが科学の敵や非合理主義者などではないことをはっきりと示している。そうではなく、「抽象化の力強い努力」「分析の力強い努力」「反省の力強い努力」という表現によって繰り返し示されているもの――後年「知的努力」や「哲学的直観」と呼ばれることになる精神的身振り――の内実を知ること、つまりは、ベルクソンの合理主義がいかなるものであるのかを知ることが大切なのだ。

計測に対して繰り返しなされる批判は、計測そのものの否定ではなく、概念の問い直しである。心的なものを、その本性を損なうことなく、いかに計測するか。計測はたしかに持続の空間化に、拡がりに関わる。だが、計測は単に計測されるものにだけ関わるのではない。数は同時に、数えられるものと、数える行為に、つまり空間と持続に関わる。空間とは、そこで数が数化行為から抽象される契機である以上、数が空間的なのではない。空間が数的なのである。

こうして、空間における数的計測に、持続のリズム的把捉が、そして人格と記憶による自由の度合いの表現が対置される。算術的差異に、持続のリズム的差異が、そして自由の記憶的差異が対置される。現働的で、相互外在的で、並置的な数の論理に対して、潜在的で(厳密に言えば、潜在性の現働化において)、相互浸透的で、継起的な数の論理が対置される。リズムとは、持続の潜在的に数的な緊張である。要するに、『試論』において注目すべきであるのは、「計測に反逆的」(réfractaire à la mesure)な、計測不可能性の側面ではなく、計測そのもののラディカルな再把捉なのだ。この論理の探究によって、一方では、持続のリズム、すなわち、水平的で継起的な相互浸透とリズム的有機組織化が、他方で、自由の度合い、すなわち、垂直的で凝縮的な相互浸透と記憶的な有機組織化が、一言で言えば〈時間と自由〉が、よりよく理解される。

『試論』の主要概念である〈時間と自由〉は、根源的身体性を備えたリズム性を通して、明らかにされた。異質的連続性としての持続はこうして、その反復的差異の側面をよりよく示すことになる。もし質的差異の把捉という側面を指摘するだけで満足していたとすれば、従来の研究から先に進んだことにはならなかっただろう。リズムと催眠というモチーフが目立たない形であれ『試論』の各章に登場することに注目し、またその登場の仕方を一章から三章まで一貫したパースペクティヴをもって読み解く私たちの『試論』読解によって、持続の継起的有機組織化と自我の凝縮的有機組織化、意識の諸状態の多様性の水平的相互浸透と自我の諸塊の垂直的相互浸透をさらに一歩進めて分析することが可能になる。これら二つの有機組織化はどのようにベルクソンの次の著作『物質と記憶』において取り上げ直されるのか。『試論』の「リズミカルな有機組織化」と『物質と記憶』の「持続のリズム」はどのような関係にあるのか。次章で見ていくことにしよう。

まとめよう。自我の自由に関するベルクソンの分析とスピリチュアリズム的伝統との微妙な関係(『試論』第三章)は、質の量化に関するラディカルな批判(第一章)と、流動的なものの固定化に対する批判(第二章)との合流点に位置する。全体として問題となっていたのは、単なる並置(juxtaposition)というよりはむしろ、ほとんど地質学=大地の学(géo-logique)的な堆積作用(sédimentation)の論理探究であり、単なる断片化(fragmentation)というよりはむしろ、ほとんど生物学=生命の学(bio-logique)的な卵割(segmentation)の論理探究であった。一言で言えば、進展の分節(articulation du progrès)が問題となっていたのである。こうして、リズムのモチーフが、その両義的なステイタスにもかかわらず、いやむしろそのおかげで、『試論』の理論的な舞台を整えるのに寄与していたのかが理解される。『試論』第一章において、リズムは芸術の催眠的装置として、すなわち美的感情に関する「身体的=物理的共感」から「精神的=道徳的共感」へ、「強さの度合い」から「深さないし高揚の度合い」へと至る感性的媒介として現れていた。第二章においてベルクソンは、「リズミカルな有機組織化」(II, 71/79)としての持続の本質を引き出すために、連続的な音の例(「振り子の規則的な揺れが我々を眠りへと誘うとき…」(id.))を繰り返し用いていた。最後の第三章は、自由行為とは、それによって自我がその心理学的基底とほとんど存在論的な基礎を表現することになる行為だと結論づける。「要するに、」(III, 130/149)。doit vibrer持続の根源的リズム性はこうして、決断するという行為と自由行為の拍動のうちに現れることになる。

だが、強度に関するこの一見すると明らかな批判の裏にはある曖昧さが隠されている。「この批判は強度の量という観念そのものに向けられたものなのだろうか、それともただ、心的諸状態の強度という観念に向けられたにすぎないものなのだろうか」。この曖昧さは、私たちをもう一つ別の曖昧さへと導いていく。それは、努力という観念そのものの持つ曖昧さである。「ほとんど感知されないほど微妙な中間項が、観念と行動のあいだに置かれたのであって、その総体はわれわれにとって、努力感(sentiment de l’effort)と呼ばれる独特の形を帯びている。ただ、観念から努力へ、努力から行為への進展はきわめて連続的であったから、われわれはどこで観念や努力が終わり、どこで行為が始まるのかを述べることはできない」(III, 158-159/138)。一方で同時代の哲学者たち、なかでもウィリアム・ジェイムズを参照させつつ、他方でフランス唯心論の伝統、とりわけ「努力」概念を彫琢した哲学者メーヌ・ド・ビランをも射程に入れたこの鍵概念は、ベルクソン哲学全体にとってもきわめて重要なものであるが、これは、最初の二章だけでなく、最後の第三章においても同様である。ところで、「努力」概念がその第三章において、もはや「手」の比喩に付き添われていないとすれば、それは今や「その内的状態の外的顕現がまさしく自由行為と呼ばれる」「深層の自我」(III, 124/109)が問題となっているということと無関係ではない。「要するに、深層の心理的諸事象の領域では、予見すること、見ること、そして行為することのあいだに、感知できるほどの差異はないのである」(III, 149/130)。ここでは、行動は顕現にまで縮減されている。『試論』の自由は、自己深化しうる一時的な妥協に他ならない。そういうわけで、『物質と記憶』からもう一つの自由が現れ、脳がその器官となる。この新たな自由は、自己深化であるよりもむしろ、(『物質と記憶に』にあってはなお萌芽状態であるとしても)物質の支配となる。内側で純粋に自己であり続けることであるよりも、外へと広がっていくことが問題となる。おそらくはこういった問題のゆえに、『物質と記憶』は、「手」に関する多くの意義深い言及を含んでおらず、切断された部分という徴候的事例として現れるのがせいぜいである。このような事態は、メルロ₌ポンティの『知覚の現象学』と興味深い対比をなしており、いずれ私たちはこの点に戻ってくることになるだろう。いずれにしても、努力感を表すこの「手」は、「意識の諸状態の有機組織化について:自由」と題された『試論』第三章にはもう現れない。ここでは、後に『物質と記憶』において脳が挿入することになる可能的な諸行動の非決定性はただ暗黙の裡に、完全に内面化された形で表現されているにすぎない。『試論』が私たちに教えるのは、最も豊かな意識とは、過去全体によって肥え太り、いわば自分自身で満たされており、自らの精神的富をわずかなりとも断念するところのない存在だということである。その意味で、『試論』の自由は、自らの全過去をある一瞬のうちに見出すのに十分なほど自らを深めることのできる在り方のことだ、ということになろう。『試論』があれほど雄弁に私たちの生の硬化として斥けようとする象徴記号はそれ自身、あらゆる生きた意識がもっている持続し、自己の過去を現在を通して永続化しようとするという特性から由来している。知性の駆使するさまざまな戦略はそれ自体、それらが抹殺しようとする持続から来ている。これこそ『試論』が未だ語っていなかったことであり、今や『物質と記憶』が私たちに理解させてくれることなのである。記号は、自我が自らとのあいだに乗り越えがたい障壁を置くことになる原因だが、それは自我と同じ精神的な起源をもつ。生命は、それによって自己を主張する行為において自分自身を失うことになる仕方で働かざるを得ない。生は自身のうちに死の萌芽を含んでおり、自らの生命性を主張するまさにその場所で息絶える可能性を孕むことになる。生命にとって最大の危険と最大の可能性が表裏一体となっているというその事情はまだ『試論』において現れてきていない。

あらゆる本性の差異を抱擁し、異質的連続性、相互浸透、自己自身に対する緊張的差異化をもたらすのは、リズムである。あらゆる程度の差異を包含し、等質的分割可能性、並置、自己の反復的拡張をもたらすのは、計測=拍子である。だが、リズムとは、以前とは異なる仕方でそれを計測するものを吸い込むものであり、計測とは、以前とは異なる仕方でそのリズムを刻むものを待望するものである。リズムとは、計測の最も内包的=強度的な度合いであり、計測とは、リズムの最も外延的=延長的な度合いである。数・リズム・計測に関する著作である『試論』を離れるにあたって、最後にもう一度、アラン・バディウの言葉を引いておこう。

すべてはあたかも、存在が惜しみなく与えるものに関して、総決算の日であるというのに、我々の思考が純粋な諸多様性に可能な数的接近を与える代わりに、小さな初めの切片しかもたらさなかったかのように進行している。数に関する思考の未来は無制限である。

 
 


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[第7回初出:2013年11月29日]
【編集部より】本連載の第29回までは、2013年4月15日から2015年12月28日にわたり、勁草書房サイトに掲載されていたものを移行いたしました。未読の方は、ぜひ第1回からお読みください。第30回からは編集部サイトでの掲載が初出になります。*注は省略してあります。

藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。