連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』8

1月 06日, 2016 藤田尚志

2部 記憶の場所学(khorologie)、
あるいは、いかにして場所なきものに場所を与えるか
『物質と記憶』(1896年)を読む

 

神話とはつまりある種の論理を作動させるものであり、それは、哲学者たちの無矛盾的論理との対比で言えば、曖昧なもの、両義的なもの、極性の論理とでも呼びうるものである。ある項をその正反対へとひっくり返しつつ、と同時に、距離を取った別の観点から見ればそれらを維持しているような、そういった顛倒の操作をどう表現し、どう定式化すべきか。言語学者や論理学者、数学者のほうへ向かい、自分に欠けている道具を提供してもらうことで、この欠落の確認(constat de carence)を最後にするという仕事が、神話学者に残されている。イエスかノーかといった二極性の論理ではない論理、ロゴスの論理とは異なる論理の構造的モデルを探求するという仕事が。
――ジャン=ピエール・ヴェルナン

 

そのような神話の論理はおそらく存在するのだろう。だが、問いは残る。場所(khôra)の思考は、言うまでもなく「哲学者たちの無矛盾的論理」に属さないが、かといってそれは神話的思考の空間に属するものなのだろうか。それに基づいて規定される「私生児的」ロゴスは、それでもなおミュートスなのだろうか。
――ジャック・デリダ

§37. Genius loci(第二部の構成)

ベルクソン第二の主著『物質と記憶』と言えば、すぐ思い起こされるのは、おそらく《記憶の脳局在仮説の徹底批判》ということではないだろうか。記憶は脳のどこかに局在する仕方、空間の中にあるという仕方では存在しない、という例の主張である。ベルクソンも第三の主著『創造的進化』の冒頭で、前作を振り返りつつ、次のように述べている。

記憶とは、私がかつて証明を試みたように、思い出を引き出しに整理したり、帳簿に記入したりする能力ではない。帳簿や抽斗ひきだしなどはなく、本来の意味での能力というものすら、ここにはない。能力なら間をおいて、そうしたいときとかそう出来るときに働くのに、過去に過去を積み重ねる仕事には中休みがない(498)。

記憶の帳簿や抽斗はない――このベルクソンの印象的な言葉だけが独り歩きし、後半の「だが能力という意味ではない記憶の積み重ね(amoncellement)はある」という積極的な主張の内実を検討することがしばしば忘れられているように思われる。ガストン・バシュラールは、『空間の詩学』という著作の中で、「ベルクソンが抽斗について語るときのなんという軽蔑ぶり」と不満を漏らし、「ベルクソン派においては、抽斗の比喩がなんと見事な成功を収めたことか」と皮肉を述べているが、むしろアンチ・ベルクソン派においてこそ、この抽斗の比喩は成功を収めたのではないだろうか。実際、空間や場所といった概念を擁護する文脈でベルクソンの名を批判的に挙げる例は枚挙に暇がない。もう一つだけ例を挙げれば、最近翻訳されたエドワード・ケーシーの大著『場所の運命』がある。西洋哲学の歴史において「場所」概念がなぜ、いかに抑圧されてきたかを辿り、場所の復権への道を探る実に壮大な著作だが、ここでもまたベルクソンは、ケーシーがウィリアム・ジェイムズやフッサールなどとともに「時間中心主義(temporocentrism)の使徒」と呼ぶ哲学の支配的潮流に属するものとして(一定の留保付きではあるが)批判されている。

私たちの『物質と記憶』読解の論点はここにある。それは、空間と区別された意味での「場所」と記憶は対立しないということ、そしてベルクソンが『物質と記憶』という著作で、脳局在仮説を含めた「位置づけること」への徹底的な批判を通して練り上げようとしているのは、いかに逆説的に響こうとも、位置づけえぬものを位置づけ、場所なきものに場所を与えようとする、ある種の場所の思考だということである。言い換えれば、通常『物質と記憶』は、記憶の脳内局在仮説に対する強烈な(そのうえ今日的視点から見ればおそらくは古ぼけた)攻撃と、その裏返しとしての、どこにも位置づけえない、どこにも生起しない――「生じる、生起する」を意味するフランス語の表現avoir lieuは、直訳すると「場所を持つ」を意味する――精神的な記憶への讃美と見なされているが、私たちはそれとは正反対に、『物質と記憶』を場所論(topique)として、それも複数の場所論(topiques)として読む。物質(知覚・身体・客観的なもの)の位置(place)と記憶(精神・主観的なもの)の場所(lieu)に関する思考として読む。

この読解法は、第一部で『試論』を読み解いたときのそれと同じ、マイナーな論理に着目する手法である。『試論』が計測と数の批判であったように――言うまでもなく、ここで「批判」という語は「否定」とか「断罪」の意味で受け取られるべきではなく、ほとんどカント的な区別と概念的鋳直しの意味で受け取られるべきである――、『物質と記憶』は現れと場所の批判である。物質(ないし知覚)と記憶(ないし持続)の位置づけに対するこのような批判を通じて現れてくるのは、私たちが場所の論理(logique du lieu)ないし場所学(khorologie)と呼ぶものにほかならない。リズム計測(rythmesure)は、持続の歩み(pas)を分節し(articuler)、その特徴を際立たせる(scander)だけではない。直接与件を外側から綜合する(synthétiser)のではなく、直接与件を内側から有機組織化し(organiser)、自由行為において具現された意識たらしめることをも可能にしている。私たちは、これを内在的感性論(esthétique immanente)と名づけたのであった。それと同じように、場所学は、意識の諸平面をただ与え、収縮するだけではなく、記憶ないし存在の底を「無力」とは区別される「無為」として捉えることをも可能にしている。私たちがそこに見るのは、憑在論的な超図式論(hyper-schématisme hantologique)である。

実際、ドゥルーズは『ベルクソンの哲学』という著作の中で、ベルクソンが「一気に d’emblée」という表現を頻繁に用いていると指摘しているが、我々の考えでは、より重要なのは、この「一気に」という表現と常にセットで用いられている「身を置く se placer」というもう一つの(場所論的)表現のほうである。ベルクソンは知覚や記憶という現象は、その中に「一気に身を置く」ものなのだと繰り返し指摘する。重要なのは、知覚と記憶がいかに「そこに置かれるのか」、それぞれの場所づけの様態を知ることである。言い換えれば、大切なのは、記憶がどこかに存在するのか否かを知ることではなく、実在の二つの秩序について、〈知覚のうちに(あるいは一般的に物質界に)身を置くこと〉と〈記憶のうちに(過去のうちに、あるいは諸観念の間に)身を置くこと〉との差異について問いかけることである。そして、これこそベルクソンが『物質と記憶』において行なっていることだと私たちには思われる。つまるところ問題になっているのは、存在の問いであり、ある種の存在論なのである。ここから、この第二部の構成が決定される。まず第一章では、『試論』の副論文として執筆された『アリストテレスの場所論』のうちに、ベルクソンを『物質と記憶』へと導いたであろう諸要素を探し求める。次に、第二章では、メルロ=ポンティとの比較を通じて、「知覚の位置(place)」を規定する「位置(situs)の論理」を描き出す。最後に、第三章では、「記憶の場所(lieu)」を規定する「場所(locus)の論理」――それはまた、『物質と記憶』の最深部でもある――を探究する。

繰り返すが、『物質と記憶』の真の哲学的問いは、場所に関する問いであり――それはいずれmonumentalとimmémorialという二つの語に集約されるだろう――、いかに場所を持たぬものに場所を与えるかという問いである。

例えば、ある想起を過去の中に局所化する過程は、すでに述べたように、あたかも袋の中に入り込むかのように、自分自身の数多くの想起の中に入り込んで、そこから、次第に近接を深める想起を取り出し、それとの間に、局所化するべき想起が位置する。その場合、いかに幸運な機会によってわれわれは、その数を増し続ける仲介的想起をまさに見つけることができるというのか。局所化の作業は実際、ますます増大していく拡大の努力のうちに存していて、常に全面的にそれ自身に現前している記憶はこの努力によって、その想起をますます大きな面の上に広げ、かくしてついに、その位置を見出していなかった想起を、それまでは乱雑だった集積の中に見分けるに至る。(MM III, 310/191)

ベルクソンは記憶に場所を与えることを拒否しているわけではない。そうではなく、むしろ執拗にどのように場所が与えられるのかを探究しているのだ。

§38. ベルクソンとカント――内在的図式論のほうへ

だが、上記に記した構成に取り組む前にもう少しだけ、《『物質と記憶』を支えるマイナーな論理とは、場所に関する思考である》という私たちのテーゼをどのように証明していこうとするのか、その点を明確にしておいたほうがいいだろう。『物質と記憶』はこんな風に始まる。

本書は精神の実在と物質の実在を肯定し、両者の関係を一つの適切な例、すなわち記憶の例によって規定しようとする。それゆえ本書ははっきりと二元論的である。だが他方で、本書は、身体と精神を考察するのに、二元論がいつも惹起してきた数々の理論的困難を、取り除きはしないまでも、大いに軽減する望みのある方式をとる(161)。

この一文が、実はカントに対抗するために書かれたものであること、したがって『物質と記憶』全体がカントの超越論哲学との対抗関係にあると示すこと、これによって先のテーゼを裏づけていこうというのである。なぜベルクソンとカントの関係を正確に見定めることが、『物質と記憶』における〈記憶と場所〉という問題系の決定的意義を述べるための近道となりうるのか。まずはこの点から始めることにしよう。

ベルクソンは単純にカントを否定したのではない。『純粋理性批判』において「純粋悟性概念の演繹」を行なう第二部門「超越論的論理学」の前に第一部門「超越論的感性論」を置いたことにすでに現われているカントの経験尊重の姿勢、すなわちカントが悟性に関係づけの機能を認める一方で、関係づけられる諸項は悟性外に起源をもつとした点を称賛しつつ、ベルクソンは次のように述べている。これは、ベルクソンがカント哲学の可能性の中心、と同時にその限界をどこに見たかがはっきり分かる一節である。

こうしてカントは新しい哲学に道を開いたわけである。この哲学は直観の高次の努力によって、認識における悟性外の素材の中に腰を据えようとする。意識がそのような素材と合致し、それと同じリズム、同じ運動をとりいれて、かわるがわる自分を高めたり低めたりしながら反対方向の二つの努力を重ねてゆくなら、物体と精神という実在の二つの形態(deux formes de la réalité, corps et esprit)は、もはや外側から覚知(apercevoir)されないで、内側から掴まれる(saisir)のではないか。[…]カント哲学が示しえたのはこのような方向性であった。ただし、カント自らはその方向をとらなかった(797)。

「実在の二つの形態」「経験の相異なる二つの方向」、これこそカントとベルクソンを大きく分かつ点である。超越論的感性論は、感性的なものを対象としつつも、それに先立ってそれを可能にするような、感性の超越論的根拠を問うものであり、カントがそこで対象とした直観のアプリオリな形式(純粋直観)としての時間と空間は、ベルクソンの目には感性的なものの本質を取り逃すものと映った。ここで問題になるのは、もし人間的悟性が行なうアプリオリな綜合判断における綜合性が直観から由来するのだとすれば、単に受動的であるにすぎない感性的直観には、感覚的所与を綜合するような、積極的な能動性を認めることはできないであろう、という点である。これに対して、意識的諸状態に典型的に見られるような質的多様体、異質的連続性は、むしろ超越論的な理論構成を退けつつ、内側から自らを捉えうるのではないか、とベルクソンは考えた。ひとまず「内在的感性論」と呼べるであろう構想、これこそまさに、ベルクソンの処女作『意識に直接与えられたものに関する試論』におけるカント批判を支える論理に他ならない。

ベルクソン第二の主著『物質と記憶』では、問題はもはや二つの相異なる秩序の実在を区別するだけでなく、両者がいかなる関係を結びうるのかを理解することにある。先に見た冒頭の一文「本書は精神の実在と物質の実在を肯定し、両者の関係を一つの適切な例、すなわち記憶の例によって規定しようとする」はその宣言だが、ベルクソンの有名な「経験の曲がり角」に関する一節は、この宣言を実行するための方法論であり、超越論的な要素の発生を経験の内在的な折りたたみ、襞に見ようとするものだ。こうして、ベルクソンのカントとの戦いは、感性的多様がいかに超越論的統覚なしに自己組織を行なうかという『試論』の〈内在的感性論〉から、感性と悟性を媒介する構想力や、直観と概念を媒介する「人間の心の奥深い処に潜む隠微な技術」(B181)としての図式が、いかにアプリオリなものと経験的なものの超越論的綜合によってではなく、経験の自己転回(経験一般から人間的経験へ)によって規定されているかという、『物質と記憶』の〈内在的論理学〉へと戦場を移すことになる。私たちの観点からすれば、『物質と記憶』は、二つの異なる実在の領域をつなぐ構想力と図式論の問題を、内在の哲学の立場から捉え返そうとした著作だということになる。

一切の観念論の暗礁がここにあるということが分かるだろう。暗礁は、知覚の中で我々に現れる秩序から、科学において我々を成功させる秩序への移行のうちに、あるいは特にカント的観念論について言えば、暗礁は感性から悟性への移行のうちに存している。[…]では、むしろカント的実在論のことを考えてみようか。物自体、すなわち現実的なものと、我々がそれによって認識を構築する感性的多様性との間には、いかなる関係も思い描けず、いかなる共通の尺度もない(358-361)。

統覚が悟性の側から図式を適用して感性的直観を覚知するというカント的構図の最大の問題は、意識に与えられるのは意識が(それも常に媒介を通して)与えたものだけで、私たちは〈意識に直接与えられたもの〉としての「私」も「外界」も知ることはない、という点にある。『物質と記憶』は、言ってみれば感性的多様が自己組織化して知性に己を差し出すという事態の分析を通じて、知覚の実在性と科学の実在性をともに肯定しようとする。これこそ「イマージュ」概念に賭けられたものだ。『物質と記憶』の目次を見ると、この概念が著作全体を貫いているのが分かるが、イマージュ論とはベルクソンによる超越論的図式論の乗り越え、あるいは「内在的図式論」の試みに他ならない。

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藤田尚志

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ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。