連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』9

1月 06日, 2016 藤田尚志

『場所論』のごく短い序文において、ベルクソンはこの論考の目的を、「場所に関するアリストテレスの真の思考(/la vraie pensée)をしっかりと把握することこそが肝要」であると記している。アリストテレスを難解な場所論へと追い込んでしまった所論を一語一語言葉にあたって解明し、アリストテレスの「隠された思考(la pensée cachée)を露わにするのに役立つ、場所の定義」を引き出そうというわけである。だが、この序文の時点ですでに、ベルクソンは自らの理論的関心がどこにあるかを隠していない。単なる注釈者や哲学史家であることを超えて、ベルクソンは、アリストテレスが「予感していた」もの、すなわち場所と空間の理論的な差異に関心を寄せている。アリストテレスは、「今日われわれが理解しているような空間(spatium)」について詳細に検討したことは一度もなかったが、『自然学講義』第四巻において、「場所」(locus)の観念に関する「かなり不明瞭」(assez obscures)な幾つかの問いに直面していることは間違いない。ベルクソン的な観点から言えば、アリストテレスは、「空間」を「場所」に置き換え、おそらく空間ときわめて緊密な連関があると思われる論争を「解決した(élucidé)というよりもむしろ避けた(éludé)」ように思われる。このベルクソンの簡潔な指摘の中で注目に値するのは、アリストテレスが近代的な空間の問題を見て取らなかったと非難するのではなく―そんなことをすれば、単なるアナクロニスムであろう――、不十分であったにせよ問題の所在を予感していた点に大きな功績を認めているということである。最後を締めくくる第9章の結論的な段落を引用しよう。

われわれの自由で非連続的な空間から生ずる種々の困難、アリストテレスはしたがって、それらを予感していたし、それどころか、乗り越えがたいものだと判じていた。認識されるもの(res cognita/chose connu)に関するというよりもむしろ、認識することそのもの(cognito ipsa/acte de connaissance)に関するかぎり、形相と質料の区別は近代以降、ほとんど現代的と言っていいものであることに気づけば、アリストテレスを非難するなど不可能に近いことである。したがって、〔……〕空間をふたたび物質のうちに戻そうとして空間を場所と置き換え、運動の無限な舞台を、つまり有限なものを有限なもののうちに包み囲うこと(inclusio)に置き換えたのであった。この操作によって、アリストテレスは空間を物体のうちに埋めただけでなく、こう言ってよければ、問題そのものを埋めてしまったのである。(Quid Aristoteles de loco senserit (L’idée de lieu chez Aristote), §14, in Mélanges, 56/78-79)

ベルクソンは、アリストテレスが近代的な空間の問題に気付かなかったと非難し、単純なアナクロニスムに陥っているわけではない。だが、微妙な言い回しではあるものの、問題そのものを埋めてしまったのだとは言っている。これは一体どういうことだろうか。この点を理解するためには、「アリストテレスの場所論の起源・意義;それと、この哲学者の形而上学的・自然学的教義との諸関係。大多数の者が空間を扱ったのに、アリストテレスは場所を論じた諸理由」と題された、『場所論』の第9章を大急ぎで見ておかなければならない。このfinale prestoにおいて、ついに慎重な哲学史家の仮面をかなぐり捨てたベルクソンは、アリストテレスの場所論に対して、まずはカントの空間論を、次いでライプニッツの空間論を対置する。この順序、この構成はきわめて興味深い。実際、この第9章の全14段落を内容によって分類すると、次のようになるように思われる。

『場所論』第9章の構成
第1段落 全体の見通し:三部構成
第2-4段落 カントの空間論
第5-7段落 アリストテレスの場所論
第8-12段落 ライプニッツの空間論
第13-14段落 結論

時系列的に考えれば、アリストテレス→ライプニッツ→カントが自然であろうし、アリストテレス論であることを考えれば、ライプニッツ→カント→アリストテレスでも自然であるが、実際は、カント→アリストテレス→ライプニッツ(→結論でアリストテレスに戻る)なのである。出発点として最初に置かれるわけでも、到達点として最後に置かれるわけでもなく、いわば宙吊りにされている。あたかもベルクソンがアリストテレスとカントの間で、ライプニッツとともに所在なさげに佇んでいるかのように。第9章の第2段落にはこうある。

アリストテレスは現代の大部分の哲学者たちと同様に、空間とはある包むもの(aliquid continens/un contenant)であり、そのうちですべての物体が位置づけられ動かされると考えている。しかし、われわれはカントに従って認識を二要素、すなわち質料(materia)と形相(forma)に分かち、したがって物自体の性質そのものは空間を欠くと考えており、物体が空間のうちに存在するだけでなく、空間もまた、物体のうちに存在すると見ている。(ILA IX, §2, 51/72)

ひとたび抽象化が行われた後では、拡がりは物理的諸性質から切り離される。こうして空間は空虚と無限を孕むようになる。第一段階(第2-4段落)は、カント以後、近代的な空間観が根付いていった経緯を簡潔に辿る。このパースペクティヴの下では、ゼノンは原子論者たちとともに、一種の「先触れ」のケースとして理解されることになる。

さて、第二段階(第5-7段落)では、アリストテレスの反撃が始まる。

実際、空虚な空間は、たとえ存在するにしても、どのような働きもしないであろう。さて、アリストテレスはどのような働きもしないものは決して存在しないと考えている。〔……〕アリストテレスの用語では、存在する(esse/être)という語と、限定される(terminari/être défini)という語は同じ意味を持っている。(ILA IX, §6, 52/74)

これこそ、アリストテレスがそこから出発して、「われわれの言う空間なるものの否定にまで到達した」形而上学的な原理である、とベルクソンは言う。この形而上学的(métaphysique)な原理は、次のような自然学的(physique)な一連の行論に伴われている。

物体の内的本性の開花としての運動は物体と一体である、とアリストテレスは考えている。〔……〕空虚で無限定な空間の代わりに、ただ大きさによって限定されるだけではなく、さらに性質によっても規定された場所を持つことになるのである。〔……〕このことからわれわれは、アリストテレスの場所は物体以前に存在するものではなく、物体からあるいはむしろ物体の秩序と配置から生ずると結論することができるのである。(ILA IX, §7, 53-54/75-76)

身体がその運動を通じて固有の形態を完成させる様を描き出すこのアリストテレスの運動学には、いずれ戻ってくることにして、ここでは先に進もう。

最後に、第三段階(第8-12段落)で、ベルクソンは「例えばライプニッツは」――あたかもほんの偶然目をとめたかのように――と、ライプニッツの空間論を持ち出す。例えばライプニッツは、アリストテレス同様、「空間は元素の秩序と配置から生ずる」と主張しながら、言ってみれば「場所」から身を引き剥がしえなかったアリストテレスとは逆に、「空間」の研究に辿り着いた。なぜそのようなことになったのか。答えは、ライプニッツが「物体」と「物体の諸部分」の間、より厳密に言えば、「物体相互の関係」と「物体の諸部分相互の関係」の間に差異を見ていないからである。ライプニッツは、この結論に少しもたじろがず、「おのおのの元素はそれぞれ別個の動物であり、いかなる交通(communicatio)もなく、ただ一種の予定調和(concentus praestitutus)によって他の元素に応答する」のだと考える。なぜライプニッツが最後に対決する者として置かれているのか。アルノー・フランソワの詳細にして緻密な『場所論』注釈が説明していないのはこの点である。ベルクソンは明らかにここでハードルを一段上げるためにライプニッツを用いている。

そして最後に、ベルクソンはアリストテレスの概念的創造を強調する。

したがってアリストテレスは、物体の表面に満足してとどまり、物体全体には場所を現実的に与えたが、部分には可能的に与えたにすぎなかった。この区別によってアリストテレスは物体の部分相互間の連続性を無傷のまま保持することができたのであり、どのようなものも拡がりとは関係がないと思われる、という論法をもって彼は空間について論じることができたのである。したがって場所を拡がりから切り離す限りにおいて、現勢態と潜勢態の区別のうちに、アリストテレスの学説の要諦が見出されるのである。(§12, 55-56/78)

要するに、近代の哲学者たちが緊密に結びつけていた「場所」と「拡がり」を、アリストテレスは分けて考えている。『場所論』は、場所や空間に関して古典的と言える諸理論に関する批判的な調査というよりもむしろ、アリストテレスのうちにカントとは異なる道を探すという点に力点があった。ただし、可能性を孕んだ道というわけではなく、むしろ行き止まりになる道をきちんと最後まで辿ってくれた恩人として、である。ベルクソンはここで問いを提起するだけで満足している。その問いに対して、『物質と記憶』が決定的な答えを与えようと努めるだろう。

ここまでをまとめよう。『場所論』がアリストテレスに対して、場所の質的理論を重要視するあまり、幾何学の純粋空間を見て取ることが出来なかったと、いささか逆説的な仕方で、非難していると見ることはまったく間違っているわけではない(逆説的といったのは、『場所論』はこうして、『試論』における純粋空間の批判を準備していることになるからであり、そこでは今度は、質の理論は場所のうちにではなく時間のうちに、持続のうちに探し求められることになる)。だが同時に、例えば、「拡がりの知覚と空間の概念」(DI, II, 64/71)の間の関係をどう考えたらいいだろうか? この両者の関係が少なくとも『物質と記憶』まで引き継がれていくだけになおさらこの問いに答える必要が強まる。「具体的な延長、すなわち感性的諸性質の多様性が空間のうちにあるのではない。われわれが多様性の中に空間を置くのである」(MM, IV, 351/244)。あるいは、次のようにも言われている。

したがって、延長から抜け出ることなしに、空間からある程度は解放されることができるだろうし、そこには直接的なものへの回帰があるだろう。というのも、われわれは空間を図式のごときものとして思い描くだけなのに対して、延長についてはそれを本当に知覚しているのだから。(MM, IV, 323)

仮にベルクソン的持続がアリストテレス的場所に置き換えられたのだという言い方をすることが許されるとして、大切なのは「われわれがそこで行動しているところの持続」(MM, IV, 322/207)という場合の「そこで」とはどこなのかを知ることである。この問いに対する決定的な答えを与えてくれることになるのが、〈知覚の位置〉と〈記憶の場所〉に関する質的で強度的な理論である。
 
 


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[第9回初出:2014年1月28日]
【編集部より】本連載の第29回までは、2013年4月15日から2015年12月28日にわたり、勁草書房サイトに掲載されていたものを移行いたしました。未読の方は、ぜひ第1回からお読みください。第30回からは編集部サイトでの掲載が初出になります。*注は省略してあります。

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藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。