連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』11

1月 06日, 2016 藤田尚志
§42. ベルクソンの手II――『物質と記憶』第一章における幻影肢

序論で述べたように、ベルクソンの著作には科学的・批判的モーメントと形而上学的・肯定的主張を打ち出すモーメントがある。『物質と記憶』第一章は、批判的モーメントであり、その目的は、「観念論と実在論はいずれも過剰な二つの主張である」と示すことである(MM1)――『試論』が決定論と「自由の擁護者たち」を同時に斥けていたように。

そのために、私たちがすでに序論(§5)で指摘しておいたように、ベルクソンが取る戦略は、「常識」から出発することである。私たちが「物質」とか「物」と日常的に呼んでいるものを、ベルクソンは「イマージュ」と呼ぶ。「イマージュ」とは、「『事物』と『表象』の中間に位置づけられた実在」(existence située à mi-chemin entre la « chose » et la « représentation »)である。あなたが今見ている物は、あなたの精神のなかにしか存在しないのだ、表象にすぎないのだという観念論者の立場も、あなたが今見ている物は実は色や「手がそこに見出す抵抗」を持たないのだという実在論者の立場も、実は行き過ぎである。私たちは通常、物はそれ自身として現実存在しているが、他方で、私たちが受け取っている通りの生き生きとした様相を呈してもいる。このような物質観は「常識の観点」と呼ばれる。

したがって常識にとって、対象はそれ自身として存在しており、他方で、対象は、それ自身として、我々が覚知する通りにありありと目に浮かぶものである。それはイメージであるが、それ自体で現実存在するイマージュなのである。(MM2)

「我々が覚知する通りにありありと目に浮かぶ」(pittoresque comme nous l’apercevons)――これが「イマージュ」概念が「イマージュ」と名付けられることになった理由である。対象がそれ自体で存在することを言うのに、「イマージュ」と名付ける必要はない。対象がそれ自体で存在しながらも、それのみならず、私たちの知覚に現れる通りの姿を実際にしていることを言うために、イマージュは「イマージュ」と呼ばれねばならなかったのである。

したがって、ベルクソンの言う「イマージュ」と物体、表象の間には程度の差しかなく、またその「イマージュ」は私たちのうちにあるのではなく、それらが存在すると知覚されているところにある。宇宙はそのようなイマージュの総体である。

では、私たちは、そのようなイマージュをすべて知覚しているのだろうか。私たちが知覚しているのは、さまざまな理由から私たちと利害関係にあるものしか知覚していない。ハイデガー的に「空間が空間する」というよりもむしろ、諸々のイマージュは私たちの利害関係によって整序されており(s’ordonner)、空間は私の身体から出発して調整される(se coordonner)。ボーヴォワールは「ひとは女に生まれるのではない。女になるのだ」と言ったが、ベルクソン的に言えば、ひとは功利主義者やプラグマティストになるのではない。ひとは生まれてから死ぬまで、常に功利主義者でありプラグマティストなのである。つまり私たちは通常、「クリシェ」しか知覚しない。こういった感覚=運動的なイマージュ、言ってみれば“クリシェ・イマージュ”は、ある限定された時間・空間の概念を含意している。それは、空間のうちに選び取られ調整されたイマージュの間接的な表象としての時間、すなわち諸イマージュの「モンタージュ」としての時間であり、いわばそれらの「フレーミング」としての空間である。刺激⇔脳⇔反応の猶予を与える(moratoire)回路が惹き起こす遅れ、差異によって延期され、間隔化され、空間化されるという意味で、時間は、「表象のための諸イマージュの選択」(第一章の章題)を介して運動イメージに依存し、そこに由来する。時間的なモンタージュがそのように計測し=拍を打ち、リズムを刻み、調を合わせ、ハーモニー化するのと同じように、空間的なフレーミングは、生命的=致命的(vital)な必要のための運動イメージの選択・調整によって加減(モジュール割り)し、中心的整序(センタリング)を行ない、規範化する。時間・空間はここでは永遠に「今ここ」であるように思われる。これこそ「一挙に」(d’emblée)という表現が意味しているものではないだろうか。

実際には私はただちに物質界一般のうちに身を置き、私の身体と呼ばれる行動の中心を徐々に制限し、そうすることで、私の身体を他のすべての諸イマージュから区別するにもかかわらず、なぜ、あらゆる外観に反して、私の意識的な自我から私の身体へ、次に私の身体から他の諸物体へと私が進むこと、それが求められるのだろうか。〔……〕これらの錯覚の背後に、不可分な延長(étendue indivisée)と等質的空間(espace homogène)との形而上学的混同、「純粋知覚」と記憶との心理学的混同があることを、われわれがよりはっきりと示すようになるに応じて、その解明が少しずつなされることをわれわれは期待する。(I, 196-197/46-47)

ここでは、世界は常にすでに措定されており、私の身体は常にすでにそこに置かれている。常にすでに存在するものの作用と反作用以外に何も起こらない=場所をもたない。そういうわけで、たとえベルクソンが身体のことを何度か「通過場所」(lieu de passage)とか「会合場所」(lieu de rendez-vous)と呼んでいるとしても、彼の知覚理論において問題となっているのは、厳密に言えば、「場所」(lieu)であるよりもむしろ「位置」(place)ないし「位置措定」(position)、さらに言えば「所」(site)である。私たちはここで、二つの「場所」概念の区別を提案しようとしている。「真の出来事が起こる=場所を持ち、真正の出来事が到来するためには、精神的なもの、すなわち記憶の介入を待たねばならない」という言明が意味を持つとすれば、それはこの場所論的識別が遂行される限りにおいてである。

ところで、私たちの感覚=運動図式が鎖を解き放たれて猛り狂うまさにその瞬間に、もう一つ別のタイプのイマージュが現れる。これはもはや通常の=軌道内の(ordinaire)イメージ、クリシェ・イメージではなく、並外れた=軌道外の(extra-ordinaire)より根源的なイマージュ、つまりバックグラウンドとしての、地としての、総体のイマージュである。このような感覚運動的イマージュの網目全体というイマージュの発見によって、時間と空間の真なる本性を把握することが可能になる。時間の直接的な呈示(présentation directe)と、運動としての空間の直接的な出現(surgissement immédiat)の同時的ではあるが離接的な出現という事態がそれである。諸イマージュのモンタージュ/フレーミングによる加減(モジュール割り)、中心的整序(センタリング)、規範化から解放され、こうして、ハムレットの科白を借りれば、「時間は関節が外れている」(The time is out of joint)。時間は空間に対して離接的である。時間は脱臼させられ=場所を失い(dis-loqué)、あるいはむしろ時間とは脱臼=場所喪失(dis-location)であり、脱空間化(dé-spatialisation)である。運動イメージは規則的ないし規範的であることをやめ、そのaberrations(光行差)を遵守し、固有の公転法則(loi de révolution)を見出す。この意味で、運動イメージはaberrant(常軌を逸した、わきに逸れた)でrévolutionnaire(公転的)なものとなる。

こうしてベルクソンの知覚理論をドゥルーズ(クリシェ・イメージとしての感覚=運動イマージュとより深くその基底をなすイマージュの区別)も参照しつつ描写した後で、今や私たちはベルクソンの「人間(=手)主義」(humainisme)――humanisme(人間主義)という考えの中にその特権的範例として「手」(main)が潜んでいるとしたデリダの造語である――の中に、「幻影肢」という現象がなぜ容易にはおさまらないのか、その理由を理解することが出来るように思われる。

『試論』以来、「努力」の心理学的モチーフとともに現れていた「手」の例は――それについては私たちは第一部(§22)で確認した――、『物質と記憶』においても、病理的な例として、あるいは運動の例として、重要な役割を果たしているが、『試論』と比べるとごく目立たない形であるように思われるかもしれない。実際、『物質と記憶』に見いだされる手の痕跡のうちで最も徴候的なものの一つはおそらく、引き裂かれ、解体された手、欠如ないし不在の手である。それは、「イマージュ、感情的感覚から切り離されたものとしての」(L’image, isolée de la sensation affective)というイマージュの「孤絶」(isolation)が問題となっているセクションの中で、括弧のうちに守られ、(幽閉ないし排除されているのではないとしても)秘匿されている。

依然として、間違った局所化、切断手術を受けた人たちの錯覚〔いわゆる幻影肢〕(ただし、このことは新たに検証されねばならない)が引き合いに出されている。しかし、教育はひとたび受けたら存続するということ、また、実生活においては、より有用な記憶の所与が直接的な意識の所与に取って代わるということ以外、そこから何を結論するというのか。われわれにとって、われわれの感情の経験を、視覚、触覚、そして筋肉の感覚機能の可能的な諸所与へと翻訳することは、行動するためには必要不可欠である。この翻訳がひとたび確立されたならば、原文は色あせるけれども、原文が最初に措定されることがなければ、そして感情的感覚が最初から自らの力だけで、自分なりのやり方で局所化されることがなければ、この翻訳は決してなされえなかっただろう。(MM, I, 207-208/61)

だが、「幻影肢」ないし「ファントム・ペイン」として有名なこの問題の再検討は――ここでは少なくともその後の展開を注視すべきであると言われているように思われる――、後のベルクソン哲学の理論的進展において取り上げられることはなかった。「夢」や「デジャヴ」、「テレパシー」などが、心理学的主題として取り上げられ、後に『精神のエネルギー』という論文集にまとめられたことを考えると、この問題が取り上げられなかったことには何らかの意味があるのではないかと考えたくなる。その意味を探るのは、「ベルクソンはこれを探索すべきであった」といったような無い物ねだりによる否定的・消極的判断ではない。そうではなく、この生じなかった出来事から出発して、ベルクソンの心理学的・メタ心理学的・パラ心理学的研究にいくらかでも光をもたらすことができないかという肯定的・積極的問題提起である。すでに見たように、私たちはイマージュを私たちのうちにではなく、それらが存在するところに知覚する。ところで、そこでいう「私たち」とは誰だろうか。「私たち」はまだそこにはいない。「私たち」は来たるべき存在である。なぜなら、諸イマージュに対してとる距離によって生じる感情をもっているにせよ、そのときの「私たち」には未だ個人的な、個体化=個人化された記憶に満ちたリアルな感情は欠けているからである。たしかに、ベルクソンは、潜在的な反射としての知覚と現実的な吸収としての感情の間にあるのは度合いの差異ではなく、本性の差異であると強調している。だが、もしそうだとすれば、実際に、潜在的作用としての知覚と私の身体そのものに対する現実的な作用としての感情が明確な区別をもつのであれば、両者の間を媒介する「苦痛」(douleur)に固有なものは一体どのように説明されることになるだろうか。

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藤田尚志

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ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。