連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』11

1月 06日, 2016 藤田尚志

フランケンシュタインのような精神をもった自動機械が、「魂」を欠き、それを欲して――英語のwantには「欲しい」という意味とともに、「欠けている」という意味もある――、それ(を与えうる可能性をもつ者)の後を追いかけるように、この「私たち」もまた、記憶を欠き、それを欲している。たしかに、刺激と反応、知覚と行動の間に距離が生じるやいなや、この「私たち」はすでに主観的・主体的である。だが、この「私たち」はまだ十分に具現されておらず、完全に血肉化されていない。そして、まさに、幻影肢は、自らの不可能な局所化を執拗に求めながら、この致命的な点に触れているのである。不可能というのは、幻影肢が私たちの日常の行動に、私たちの実際生活への繋留に求めているものは、感情的=感覚的なもの――sensation affectiveという表現の中でベルクソンはsensationとaffectionを明確に区別していないように思われる――の空間化、伸張化しえないものの伸張(extension de l’inextensible)に他ならない。これは「アイステーシス(aïsthésis)のパラドックス」と呼ばれてもよいものだ。メルロ=ポンティがベルクソンを非難しているあらゆる要素がすでにここに出揃っている。過去の「受容器」ないし「保存」、その生理学的ないし心的な「痕跡」といった仮説の総体がそれである。

例えば、ベルクソンは記憶の「生理学的諸理論」を反駁したが、実はベルクソンのこの反駁自体、因果的説明の領土に立つものであった。それというのも、これは脳髄内の痕跡(traces cérébrales)やその他の身体的装置が記憶の現象の十全な原因ではないこと、例えば、進行性失語症において、追憶の消失する順序を説明するに足るものが身体の中に見出せないということを示すことに他ならなかったからである。このような論議はたしかに身体による過去の保存(conservation)という考え方の信用を失わせるには十分である。身体は、もはやエングラムの集積所(réceptacle)ではない。それは、意識の諸々の「志向」(intentions)の直観的実現を保証すべきパントマイムの器官である。しかしながら、これらの志向は「無意識のうちに」保存された諸記憶に結びついており、意識における過去の現存は、単なる事実上の現存でしかない。この際、過去の生理学的保存を退けるわれわれの最も有力な論拠がまた同様に、「心理学的保存」を退ける論拠ともなること、そしてこの論拠とは、まさに過去のどのような保存も、どのような生理学的もしくは心理学的「痕跡」も、過去の意識を理解させるものではないということが、洞察されていなかったのだ。(メルロ=ポンティ『知覚の現象学』)

ベルクソンは『物質と記憶』において、過去の生理学的保存所としての身体という考えを失墜させ無効化させるための範例的な例として失語症を選んだが、そこでは心理学的保存という考え自体は手つかずのままに残されている。それでは結局のところ、生理学的なものと心理学的なものとの区別自体は維持されている。幻影肢は逆に、『物質と記憶』第一章の理論的な核が依拠しているこの区別自体を揺るがすように思われる。要するに、もしもここで精神ないし「精髄」(génie)について語ってもよいとするなら――というのも、メルロ=ポンティ自身が「絶えず最も確定的な形態を目指して、視野の中で働いているこの知覚の精髄(génie perceptif)」(PP 304)について語っているからであるが――、問題はgeniusとlocusの間で提起されることになる。Genius lociとは通常、「(その土地の)精霊、守り神。土地の気風」といった意味であるが、この『物質と記憶』第一章の観点からすれば、撞着語法的でもあり、リダンダントでもある表現ということになるだろう。撞着語法(雄弁な沈黙といったような)的というのは、場所という空間的なものと、精神・精髄というベルクソンにおいては時間的な系に属するものとが並置されているからであり、リダンダントだというのは、精神は常にすでに場所的であり、場所は常にすでに精神的なものだからである。たしかに、『物質と記憶』は、記憶の審級としての精神と、物質の審級としての身体を離接させる二元論の裂開と縫合を同時に上演している。だが、第一章の終わりに至っても、傷はなお開き、出血は止まっていない。

§43. 二つの身体の理論(距離の現象学)

ベルクソン的な知覚理論はつまるところ、所(place)、位置(position)、situsの論理によって作動している。この論理をさらに子細に見てみよう。ベルクソンによれば、宇宙は「イマージュ」で構成されている。知覚が人間に、事物に対する可能な行動の素描を与え、それと同時に事物そのものの輪郭を与える以上、身体の「権利上の」質料性は、身体が触れる点でとどまるわけではない。身体は「権利上は」、その影響力が行使される至る所に現前している。事物の輪郭は単に、身体が達しうるものを、自らの「手」の届く範囲内にあれば変容させうるものを印づけているにすぎない。「知覚本来の根本的な行為、純粋知覚を構成するこの行為、それによってわれわれが一挙に諸事物の中に身を置く行為」(MM, I, 215/70)とあるとおり、知覚本来の根本的な行為とは、〈置くこと〉である。

与えられたもの、現実的リアルなもの、それは分割された延長(étendue divisée)と純粋な非延長(inétendu pur)とのあいだの中間的な何かであり、それをわれわれは伸張的なもの〔外的緊張的なもの〕(extensif)と名づけた。伸張は知覚の最も目につく性質である。(Résumé et conclusion, 276)

「ある事物を知覚する」ということは、ベルクソンによれば、「その事物に影響しうる行動の潜在的な可能性をもつ」ということと完全に相関的である。ハイデガー的な表現を借りれば、手元存在性(Vorhandenheit)と言ってもいいだろう。遠くの星に及ぼしうる影響力が小さくなるにつれて、視覚で捉えうる知覚も減少し、逆に、自らの身体という特殊な――命に係わるという意味で致命的な――事物の知覚は感情となる。だとすれば、人間身体という事物/イマージュの境界線もまた同様の仕方で測られることになるとしても驚くことはあるまい。ここから直接的に、ヴィエイヤール=バロンが次のように言明するある特異な身体論が帰結する。「おそらくベルクソンには最も精確な身体の現象学があるのであって、メーヌ・ド・ビランやメルロ=ポンティのそれと比較することもできよう」。ヴィエイヤール=バロンが「二つの身体の理論」(théorie des deux corps)と呼ぶこの「独創的で難解な身体論は、『物質と記憶』で表明され、『二源泉』で解明される」。私たちも第四部でふたたびこの理論の諸帰結に出会うことになるだろう。

当面のところ私たちの関心を引くのは、顕在的で有機的な「私たちの小さな身体」と、潜在的で(非)-有機的な「私たちの大きな身体」の間の懸隔であり、言い換えれば、ベルクソン的な「未規定性」(indétermination)ないし「努力」(effort)概念が提起する問題である。『試論』とは異なり、『物質と記憶』においてはじめて登場してくる「ある特異な努力」概念は、「イマージュの形で過去を喚起するために、現在の行動から気を逸らすことができ、役に立たないものに価値を与えることができ、夢見ようと欲する」努力であり、「人間だけがおそらくその種の努力をすることができる」ような努力である(II, 228-229/87-88)。『試論』において未だ具体性を与えられていなかった「深層の自我」の「表現」としての「自由行為」は、『物質と記憶』において、身体が脳に還元されないという形で具体性を獲得し始める。とりわけ神経系によって演じられる役割は中心的なものであり、そのうちに「生きた身体の二重の意味」が凝縮されている。ヴォルムスの指摘を引用しておこう。

実際、神経系は他の部分同様、物質の一部であり、それ自体としては観察可能な「運動」によって構成されている。だが、身体が未規定な行動と意識的な知覚をなしうるのは神経系のおかげであり、身体が他の諸物体から受け取る運動に対して行なう分析作業のおかげである(……)。神経系の「複雑性」が大きければ大きいほど、行動の未規定性も大きくなり、意識の領野も大きくなる。生きた身体の二重の意味は、したがって、まさに有機的で生理学的な特殊性のうちに翻訳されることになる。(Deux sens, p. 134)

したがって問題は、ベルクソン的な特異な意味での「努力」ないし「意志」が人間存在の行動の未規定性のうちに十分に具現されるか否かを知ることではなく、、、、、いかなる未規定性が問題となっているのかを知ることである。なぜなら、『物質と記憶』第一章に現れる未規定性は記憶を欠き、精神生活の深さを欠いているからである。砂糖の欠片はすでに溶け始めているが、それを待ち望んでいる「われわれ」は未だフランケンシュタインであって、その持続は待ち遠しさを孕んだ遅れではないのである。この意味において、努力は未だ「手」の届かぬところにある。

身体の位置づけに関わる重要なこの点を今一度、ヴォルムスの言葉とともに確認しておこう。一方で、『物質と記憶』のベルクソンは、『試論』で提起されていた問題に対して、身体概念とともに自分なりの解決策を見出している。「身体は、行動によって規定されて、実際のところ一挙に記憶の構造を変える。つまり、身体は、不分明で時間的な多様性を区別される空間的な知覚にする。(……)こうして『物質と記憶』の問題に固有の解決策の原理を与えながら、『試論』によって提起されていた問題は解決される。(……)というのも、記憶と身体とともに、持続と空間の間、深層の自我と表層の自我の間で同時に連続性と断絶の原理となるものが見出されるからである(Deux sens, p. 113)。だが、他方で、この解決策は同時に、『物質と記憶』にも残る大きな困難を生じさせ、ベルクソンを次なる著作『創造的進化』へと向かわしめることになる。「空間を身体と生命によって支え、それらを認識と科学の基礎としつつ、かつてないほど現実的な存在論的射程を空間から取り去りながら、ベルクソンが空間に対して、かつてないほど大きな心理学的機能を認めるとはいったいどういうわけだろうか? ここでの問題は何よりまず空間の実在性、すなわち私たちの生の、しかしまた科学の実在性の問題である(……)。この激震は、1896年〔『物質と記憶』〕と1907年〔『創造的進化』〕の二つの本の間の深い変化を予想させる。実際、すべては生命の位置づけ如何にかかっているのだ」(Deux sens, p. 118)。

またそういうわけで、『物質と記憶』から『創造的進化』への移行において、一つはっきりさせておかねばならないことがある。それは、人間のますます大きくなる未規定性を最もよく表すのは「脳」なのか「手」なのか、ということである。『創造的進化』は、脳はホモ・ファベル(工作するものとしての人間)の本質を十分に浮き彫りにすることはできない、と答えるだろう。いかなる神経繊維も無限の思考を固定することなどできはしない。「物質的な器官は他の物質的な諸存在と同じ広がりをもって存在するのであって、可能的な諸存在や諸関係と外延を等しくするのではない」(Jankélévitch, ibid., p. 88)。ただ手だけが、身体的・物質的生が甘受すべきこの運命から人間を逃すことができる。だが、この点については、『創造的進化』を待たねばならない。

本節を終え、ふたたびメルロ=ポンティとの比較に戻るにあたって、一つ重要な点を指摘しておくことにしよう。たしかに、私たちは潜在的な行動としての知覚から顕在的な行動への移行を強調したが、だからといって、知覚と幻覚の間にはっきりとした区別がないと言いたいわけではない。それどころか、まったく逆に、ベルクソンはこう述べていた。

しかし間違わないでいただきたい。想起がより弱い知覚にすぎないなら、逆に、知覚はより強い想起のごとき何かである。ところで、イギリス観念論の胚子はここにある。この種の観念論は、知覚された対象の実在性と、考えられた対象の理念性とのあいだには本性の差異ではなく度合いの差異しかないのを見ることに存している。われわれは自分の内的状態によって物質を構築するのだし、知覚は正しい幻覚であるとの考えも同様にそこから由来する。物質を扱ったとき、われわれが闘いを挑み続けたのは、まさにこの考えに対してであった。(Résumé et conclusion, 368-369/268- 269)

 
 
 


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[第11回初出:2014年3月31日]
【編集部より】本連載の第29回までは、2013年4月15日から2015年12月28日にわたり、勁草書房サイトに掲載されていたものを移行いたしました。未読の方は、ぜひ第1回からお読みください。第30回からは編集部サイトでの掲載が初出になります。*注は省略してあります。

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藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。