連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』16

1月 06日, 2016 藤田尚志
§50. 知覚と構想力=想像力の間にある記憶(ベルクソンとフッサール)

想像力=構想力に関するフッサールの理論は、意識のある種の志向的構造が問題となっているかぎりで、カントと同じ問題を共有しているように思われる。だが、この二つの理論は、フッサールが、「自由なイメージ image libre」(誤って「心的像 image mentale」と呼ばれてきたもの)と「物理的・身体的イメージ」という二種類のイメージの統合をかつてないほどに為し遂げている点で、より正確に言えば、狭義の、伝統的な意味での構想力=想像力(直観と概念の間を媒介し、それによって規定される心的能力)から、広義の、現象学的な意味での構想力=想像力(ある物質的・知覚的対象から発した像意識)への新たな予期せぬ拡張を成し遂げている点で、道を分かつ。構想力=想像力のうちで作動している三つのプロセス、すなわち直観、現前化、中立化がフッサールに、この統合ないしこの拡張を可能にしているのである。

1)概念や記号と対立するものである限りで、直観は知覚と領野を分有する。

2)現前化(présentification)は、知覚と想像力=構想力との間の本性の差異を明らかにする。知覚対象は、現働的な物理的現前と(根源的贈与というフッサール的な意味での)「血肉をもった」(leibhaftig)現前(présentation)を備えているのに対して、志向的経験としての想像=構想するという行為は、構成的活動であり、準‐現前、あるいはより正確に言えば、「現前化 présentification」(根源的現前の反復)を備えている。フッサールは一方で、想起表象のモデルに基づいて(ということは、措定的行為でもあるという側面を排除しつつ)現前化の概念を理解しようと努めている。だが他方で、記憶(過去把持rétention du passé)からも、期待(未来予持protension du futur)からも区別された、現前化は「中立変様」と形容される。「想像作用とは一般に、『定立的な』準現前化の中立変様なのであり、したがって、考えられうる限り最も広い意味での想起の中立変様なのである」(『イデーン』第111節)。

3)中立化は、自由な想像力=構想力のもう一つの特徴、すなわちサルトルが『想像力の問題』で強調したような、非現実性(irréalité)への移行を表現している。像意識はその存在措定において、中立的に変様されているのである。

以上にごく簡潔に挙げたこれら三つの構成要素は、いずれも知覚の優位へと通じている。とりわけ、もし記憶がすぐれて存在措定、つまり対象へと向かう志向的行為に伴われた「信の様態」であるならば、そしてフッサールが想起のこの措定行為を排除するならば、それは必ずや記憶の本性を損なわずにはいないであろう。

現象学は常に知覚の現象学であるということはただ真実の半分を告げているにすぎない、と私たちは上で言っておいた(§41)。批判哲学との差異がどれほど根底的で根本的なものだとしても、知覚の現象学はカント的図式論の虜であるほかはない。距離の現象学の中では、状況の論理が作動しているが(ベルクソンのsitusの論理との共通点と差異についても上で見たとおりである)、そこにはまだlocusの論理が欠けているのだ。

おそらくここで(本格的に展開することはできないとしても)フッサールのphantasiaに関する仕事に言及しておいた方がいいだろう。問題となるのは、フッサール全集第二三巻『想像、像意識、想起一八九八-一九二五』である。様々あるが、私たちの議論に直接関係してくる三つのパッセージを引用するにとどめたい。

1)phantasiaphantasma「ところで、phantasiaと知覚の間にためらいが生じることも稀ではない。つまり弱い感覚において。〔……〕私が鐘の音を聴いたのか、それとも想像したのか確信が持てない時、私はそれが「実際に現実的な」音なのか、想像した音なのかに確信が持てないのである。ここで私たちは統覚の内容を、感覚の領野においてと同様、幻覚において持つ。私たちはphantasmaを、諸感覚の連鎖から切り離された何かを持っているのではない〔……〕。「私はまたしてもphantasiaの像を持っていると想像しているだけなのではないだろうか?」 だが、この、、想像することは、もちろん「空想する」ことではない。このことに十分注意しなければならない」(一九〇五年ごろのノート)。

2)現出を超えた剰余に関する諸問題:「知覚的体験(知覚的現出も含む)と想像的現出(単なるphantasiaの現出)、次いで想起の現出との間の関係の問題。予期の現出も。現出は、知覚的でないあらゆる現出にとって同一であると言われるかもしれない。違いは、別の次元に、現出を超え出る何かに見出される」(おそらくは一九〇九年のノート)。

3)phantasiaの主観的で理念的に可能ではない性格:「私が「空想する」ものと別の誰かが「空想する」もの、あるいは私が別の時に、十全に同一の仕方で、もちろん純粋なphantasiaとして「空想する」ものは二つの可能性ではなく、二つのphantasiaiである。純粋な「空想されたもの」は純粋に主観的なものであって、ただ単に主体に従属しているだけでなく、〔……〕志向的な(変容された)体験の内在的なノエマ以上の何物でもない体験にも従属している。これは理念的に同一のものではなく、絶えず再び新たなものであり、とはいえ同一物である」(おそらくは一九二〇/一九二一年のノート)。

§51. 場所学II:locusの論理(『物質と記憶』第三章)

τὸ γὰρ ἐνύπνιόν ἐστιν αἴσθημα τρόπον τινά·
(というのも夢は何らかの仕方において或る感覚されたものだからである。)
――アリストテレス

 
 『物質と記憶』第二章の冒頭で、ベルクソンはすでに第三章の目的を予告していた。

たしかに、どのようにしてこれらの表象が保存されるのか、そしてこれらの表象が諸運動機構とのあいだにどのような関係を保っているのかという最後の問題が生じる。この問いは本書の次の章で初めて深く究められるだろうが、そのときわれわれは無意識について論じ、過去と現在の区別は結局どこにあるのかを明らかにするだろう。(MM II, 224/82)

そして第二章の末尾では、このことをより具体的な仕方で語っている。

別言するなら、潜在的イマージュは潜在的感覚に向かって進展し、潜在的感覚は現実的運動に向かって進展する。この運動は、みずからを現実化しつつ、感覚――この運動はそれを自然に引き延ばしたものである――と、感覚と一体化せんとしたイマージュの双方を同時に現実化する。これよりわれわれは、これらの潜在的状態を掘り下げるとともに、心的諸活動ならびに精神物理学的な諸活動の内的機構のうちにさらに深く入り込むことで、いかなる連続的進展によって、過去がその失われた影響を取り戻して現実化されるのかを示すつもりである。(MM II, 275/146)

現働的なイマージュにせよ、現働化の途上にあるイマージュにせよ、想起イマージュは一種の素材、「現像液」ないし「触媒」であって、これによって純粋想起は現働化されうるのだ。純粋想起は過去そのものに含まれる純粋な潜在性である。そして注意的再認は、それが機能している場合には、この現働化の回路を潤滑にし、維持している。そういうわけで、想起回路や知覚=行動プロセスにおけるある種の混乱は、記憶の本性を明らかにしてくれる。私たちが何かを思い起こせずにいるとき、この感覚運動的な拡張は宙吊りのままにされる。今度は、記憶のほうの箍が外れ(out of joint)、脱臼させられ(dis-loqué)、ラカン的に言えば、「己の場所を欠いている」。そういうわけでまた、ベルクソンだけでなく、フロイトも、こういった病理的な諸現象、すなわち記憶喪失のような記憶障害、催眠、幻覚、錯乱、死に瀕した者の見る走馬灯的視覚などに関心を抱いていた。ベルクソンは、『精神のエネルギー』第三・四・五章において、超心理学パラサイコロジー的な諸現象、そして夢やデジャヴについて研究した。「現在の想起と誤った再認」と題された第五論文は、この論文集中、最も長いものである。この論文の一般的な結論の幾つかをここで想起しておくが、私たちの関心を惹くのは、病理学的ないし臨床的な側面それ自体よりもむしろ、それが時間・空間に関連して含意しているもののほうである。デジャヴ現象のうちに、ベルクソンは二つのことを見てとる。一方で、現在は常に過ぎ去ると同時に、過去(過ぎ去った現在)と未来へと分岐している。他方で、そのものとしての純粋過去の現出ないし発生がある。「生への注意」という、何よりもまず現在に関わるベルクソン的観念は、現働化プロセスであるが、現働的なものが関わっているのは現働的なイマージュを取り巻く「状況」(situation)であって、ある割り当てられた位置という意味での「位置取り」(positionnement)ないし「所在」(英語の意味でのlocation)ではない。

ある感覚の記憶はその感覚を暗示することのできるもの、つまりふたたびそれを蘇らせることのできるものである〔……〕。しかし、その記憶とそれが暗示する状態とは別である。それはまさに、幻覚の背後に催眠術師がいるように、暗示された感覚の背後にその記憶のあることを私たちが感じているからであり、私たちが自分の感じているものの原因を過去に置くからである。実際、感覚は本質的に現実のものであり、現在のものである。それに対して感覚を暗示する記憶は無意識の底からかろうじて浮上して暗示という独特な力をもってあらわれるが、しかしその力はもはや存在してはいないものの、未だ存在を欲しているであろうもののしるしである。想像力が暗示によって刺激されると、暗示されたものは発生状態で描かれる〔……〕。暗示と暗示されたものとは絶対に別であり、或る感覚または或る知覚の純粋記憶と、その感覚または知覚そのものとは別である。(ES V, 915/133)

この暗示、この磁気学的・催眠的な徴候は潜在的なものである。潜在的なものは存在する。ドゥルーズ的に言えば、厳密には、私たちが存在論を語りうるとすれば、それは過去についてのみである。なぜなら、現在とは存在するものではなく、過ぎ去るものだからである。にもかかわらず、潜在的なものの存在様態と、現働的なものの存在様態の違いを考慮に入れるならば、存在論(ontologie)よりもむしろ憑在論(hantologie)――フランス語ではほぼ同じ発音になる――について語らねばならないだろう。この意味では、境界線は「存在する」と「過ぎ去る」ないし「生成変化する」の間に引かれるのではなくて――というのも、存在とは過ぎ去りであり生成変化であるから――、実存的な現前(situation、文脈化)と「中尉=場所持ち lieu-tenant」ないし憑在論的位置(localisation)の間に引かれるべきである。サミュエル・バトラー風に言えば、今ココ(now-here)でも、どこにもない(no-where)でもなく、その逆さ綴りであるエレホン(erewhon)なのだ。潜在的なもの、純粋過去それ自体は、現働的なものが存在するように存在しているのではない。こう言ってよければ、現働的なものは存在し、過ぎ去り、生成変化するのに対して、潜在的なものは「場所をもつ=起こる」(avoir lieu)、「位置を占める」(prendre place)。ここでは、メルロ=ポンティとは逆に、locusとsitusの対立は、逆転と取消の二重の意味で「リヴァース」されているように思われる。つまり一方で、situsに対するlocusの憑在論的な優位はあるが、他方で、前主体的な匿名性の反実存的ないし反「状況主義(シチュアシオニスト)的」なヘゲモニーはない。

運動図式におけるsitusの論理についてはすでに検討しておいた。残されているのは、意識の諸平面における、生の注意におけるlocusの論理を検討することである。ここでもまたベルクソンは、位置確定(localisation)そのものを否定しているわけではなく、いわば位置確定という概念の位置ずらし(déplacement)を行なっているのだ。

例えば、ある想起を過去の中に局所化する過程は、すでに述べたように、あたかも袋の中に入り込むかのように、自分自身の数多くの想起の中に入り込んで、そこから、次第に近接を深める想起を取り出し、それとの間に、局所化するべき想起が位置することになるわけではまったくない。その場合、どのような幸運な機会によってわれわれは、その数を増し続ける仲介的想起をまさに見つけることができるというのか。局所化の作業は実際、ますます増大していく拡大の努力のうちに存していて、常に全面的にそれ自身に現前している記憶はこの努力によって、その想起をますます大きな面の上に広げ、かくして遂に、その位置を見出していなかった想起を、それまでは乱雑だった集積の中に見分けるに至る。(MM III, 310/191)

生への注意、という言葉をベルクソンに即してこれまで用いてきた。だが、実はそれには二種類あるのだ。次回はこの点を見ていくことにしよう。
 
 


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[第16回初出:2014年8月31日]
【編集部より】本連載の第29回までは、2013年4月15日から2015年12月28日にわたり、勁草書房サイトに掲載されていたものを移行いたしました。未読の方は、ぜひ第1回からお読みください。第30回からは編集部サイトでの掲載が初出になります。*注は省略してあります。

藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。