§52. 呼びかけII:無為(デジャヴについて)
一般に信じられているのとは逆に、ベルクソンは、純粋記憶の秘められた、深い本性を解明することにはそれほど関心を抱いていない。彼がそれに関心を抱くのは、記憶が私たちの日常生活に関わり、それを十二分に明るく照らし出すために働いている限りにおいてのことである。いや、むしろこう言うべきだろう。日常の何気ない生の襞の中にこそ最も謎めいた秘密が隠されているのであり、それこそベルクソンの関心を最も引くことなのだ、と。これは「エラン・ヴィタル」や「エラン・ダムール」についても言えることだ。彼は生命の神秘をどこか奥深いところに求めたりはしない。生命現象が立ち現れてくるまさにその場所において、すなわちエラン・ヴィタルと物質性がぶつかり合う地点において生命を捉えようとするのであって、エラン・ヴィタルのみを純粋に析出すること――それはむしろ、時間を空間化する(記憶を局所化する、生命進化を物質の視点からのみ解明する)のとは逆の意味で過度の抽象化であり、悪しき思弁化でさえあるだろう――にはさほど関心がないのだ。何度も繰り返そう。「体系化することはたやすい。ある観念の果てまで行くのはあまりにも容易だ。難しいのはむしろ演繹を止めねばならないところで止めること、個別科学の深化のおかげで、また現実との絶えず維持された接触のおかげで、その演繹を屈曲させねばならないところで屈曲させることである」(Mélanges, p. 1187)。この点を今一度肝に銘じたうえで、先に進むことにしよう。
純粋想起は精神的な現出(manifestation spirituelle)である。記憶をもって、われわれはまさに紛れもなく精神の領域にいるのだ。VIII-われわれはこの領域を探査する必要はなかった。精神と物質の合流点(confluent)に身を置き、一方が他方に流れ込むのを何よりも見ようと欲しながら、われわれが知性の自発性について銘記せねばならなかったのは、このような知性と身体的機構との接触点(point de contact)だけである。(MM, Résumé et conclusion, 370/270-271)
そういうわけで、記憶の深く精神的な、固執的(persistant)ないし生き延び(survivant)的な、あるいは先に(§45で)規定した意味でimmémorialな性格を理解させてくれるような手掛かりを多く残す必然性をベルクソンは感じていなかった。したがって私たちもまた、純粋想起を「意識の諸平面」の逆円錐の限界内でのみ扱うことにする。だが、とはいえ、その限界にもう少しこだわって、純粋想起の特徴を際立たせてみたい。
1)憑在論的な記憶 まず初めに強調しておくべきは、純粋記憶が存在している、実在しているということ、しかしながら知覚とは別の仕方でそうなのだということである。アンドレ・ブルトンは、「Qui suis-je?」という表現を別様に受け取る可能性を示唆することで、『ナジャ』を開始させていた。つまりsuisを、être動詞の三人称単数形としてのみでなく、「追いかける」を意味する動詞suivreの三人称単数形としても、したがってhanter(執り憑く)としても受け取るとすればどうなるかということだ。ブルトンと同じような仕方で、私たちも純粋記憶の性格を「準‐存在論的」(quasi-ontologique)、あるいはさらに正確に言えば「憑在論的」(hantologique)と呼ぶことも出来よう。例えばサルトルは、『想像力』でこう述べていた。
ベルクソンは、「像」という語の二重の意味の上で戯れつつ、想起イメージに対して、対象のもつ一切の充実性を与えている。というより、それは新しい存在の型に従って理解された対象そのものなのだ。(p. 48)
注目すべきは、この二つの実在の秩序の間の言ってみれば存在論的な差異が、サルトルによって二つの動詞のニュアンスの差異によって記述されているということである。
ベルクソンの像が何であるか、私たちはすでに見た。知覚とは、身体の可能的な動作に関係づけられているが、しかしなおも他の像の間に入り込んだままとどまっている像である。想起とは、孤立化し、一幅の絵のように他の像から分離された像である。そしてすべての実在は同時にこれら二つの性格を備えている。すなわち、それは身体を動作へと準備し(dispose)――、また無活動な想起として精神の内部に沈殿する(se dépose)。(p. 50)
つづきは、単行本『ベルクソン 反時代的哲学』でごらんください。
立ち止まっている人にだけ見える景色がある。概念とイメージの緊張関係を精緻に読み解き、ベルクソンを反時代的哲学として読み返す。
藤田尚志 著 『ベルクソン 反時代的哲学』
A5判・624頁・6,600円(税込み) 2022年6月刊行
ISBN:978-4-326-10300-3→[書誌情報]
【内容紹介】概念の解像度を上げるだけが哲学の仕事ではない。ベルクソンは、イメージとの往還と緊張関係を強調してやまない。本書は、最新の研究成果を踏まえつつ、『時間と自由』や『物質と記憶』など主要著作の鍵概念である「持続」や「純粋記憶」を深く理解するには、「リズム」や「場所」のイメージの精確な読解が欠かせないと説く。勁草書房編集部ウェブサイトでの連載時より大幅改稿。
〈たちよみ〉はこちらから→〈「あとがき」(pdfファイルへのリンク)〉
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【目次】
序 論 言葉の暴力
§1 功利性と効力
§2 生命(vie)・生き長らえ(survie)・超-生(sur-vie)
§3 哲学と科学、良識(ボン・サンス)と常識(サンス・コモン)
§4 メジャーな概念とマイナーな論理
§5 言葉のふるう暴力
§6 言語にふるわれる暴力
§7 「見かけに騙されないようにしよう」──言語のアナモルフォーズ
§8 言語の速度学──遅れとしての隠喩
§9 否定的転義学
§10 螺旋としてのベルクソン哲学
§11 言語の手前、言語の彼方
§12 transports amoureux、あるいはピルエットとしての直観
§13 マイナーな論理は何をなしうるか(本書の構成)
第Ⅰ部 測りえぬものを測る──『意識に直接与えられたものについての試論』における持続のリズム計測(rythmesure)
§14 計測から遠く離れて(第Ⅰ部の構成)
第1章 計測のリズムを刻む──『試論』第一章の読解
§15 「心理的諸状態」の類型論(『試論』第一章の構造)
§16 呼びかけⅠ──リズムと共感(美的感情の分析1)
§17 催眠的リズム(美的感情の分析2)
§18 強度と深度(美的感情の分析3)
§19 ベルクソンの手Ⅰ──「例えば、拳を徐々に強く握りしめてみてほしい」
§20 中間状態の分析における「注意attention」と「緊張tension」
§21 自由の始まりとしての感覚
§22 「音楽の表現力、というよりむしろその暗示力」
§23 多様性と有機組織化のあいだにある強度
第2章 リズム数論(arythmologie)──『試論』第二章の読解
§24 数の問い──カント、フッサール、ベルクソン
§25 場所学Ⅰ──コンパス化された存在(拡がりと空間)
§26 メロディーからリズムへ
§27 数(arithmos)とリズム(rhuthmos)──アリストテレスとベルクソン
§28 リズム計測Ⅰ──構造的リズム
§29 内在的感性論のほうへ
第3章 自由の度合い──『試論』第三章の読解
§30 決定論批判
§31 自由はいかにそのリズムを刻むのか(ベルクソンとハイデガー)
§32 催眠、自我の測深
§33 記憶の問題系へ
§34 数に関する思考の未来
第Ⅱ部 場所なきものに場所を与える──『物質と記憶』における記憶の場所学(khorologie)
§35 存在論的、憑在論的(第Ⅱ部の構成)
§36 ベルクソンとカント──超図式機能のほうへ
§37 ベルクソンによるコペルニクス的転回──場所論としてのイマージュ論
第1章 『アリストテレスの場所論』に場所を与える
§38 場所と空間──ライプニッツの位置
§39 『アリストテレスの場所論』から『物質と記憶』へ
第2章 知覚の位置──『物質と記憶』第一章・第四章の読解
§40 ファイネスタイの論理としての現象学
§41 ベルクソンの手Ⅱ──『物質と記憶』第一章における幻影肢
§42 二つの身体の理論──距離の現象学
§43 実在的(リアル)なもののしるし(サイン)、あるいは『知覚の現象学』における幻影肢
§44 situsの論理──記念碑的なもの(le monumental)から記憶を絶したもの(l’immémorial)へ(『物質と記憶』第四章)
§45 リズム計測Ⅱ──差動的リズムとしての持続のリズム
第3章 唯心論(スピリチュアリスム)と心霊論(スピリティスム)──ベルクソン哲学における催眠・テレパシー・心霊研究
§46 亡霊を尊重すること、あるいは経験の転回点
§47 催眠とベルクソンの記憶理論
§48 テレパシーと共感(シンパシー)──ベルクソンの知覚理論
§49 収束する(converger)──「歴史家と予審判事の間」にある心霊研究の方法論
§50 転換させる(convertir)──「おそらくは〈彼岸〉であるような〈外部〉」へ
第4章 記憶の場所──『物質と記憶』第二章・第三章の読解
§51 Spacing Imagination
§52 運動図式──ベルクソンとサルトル(『物質と記憶』第二章)
§53 図式機能の問い──カント、ハイデガー、ドゥルーズ
§54 崇高と走馬灯──構想-暴力と純粋記憶の無為の暴力
§55 場所学Ⅱ──locusの論理(『物質と記憶』第三章)
§56 呼びかけⅡ──無為・待機・憑在論的
§57 もう一つの「生の注意」としての膨張
§58 もう一つの「スペクトル分析」のほうへ
第Ⅲ部 方向づけえぬものを方向づける──『創造的進化』における生の弾み(エラン・ヴィタル)の諸方向=器官学(organologie)
§59 目的論と生気論、危険な関係?(第Ⅲ部の構成)
第1章 ベルクソンと目的論の問題──『創造的進化』第一章の読解
§60 目的論の亡霊
§61 場所学Ⅲ──傾向としての存在、意味=方向としての実存
§62 リズム計測Ⅲ──「持続のリズム」から「生命の衝迫」へ
§63 ベルクソン的目的論の四つの根本特徴
§64 急進的な目的論への「否」──創造的目的論
§65 内的合目的性への「否」──ベルクソンとカントの目的論
§66 伝統的な生気論への「否」──(非)有機的生気論へ
§67 二つの生気論──超越論的生気論と内在的生気論(ベルナールとベルクソン)
§68 来たるべき承認のための闘争──哲学と科学
第2章 「生物の丹精=産業(industrie)」について、あるいはベルクソン的器官学──『創造的進化』第二章の読解
§69 『創造的進化』の撒種──受容の(複数の)歴史
§70 ベルクソンの生気論は(非)有機的である
§71 ベルクソンの生気論は非個体的である
§72 ベルクソンの(非)有機的生気論は一つの器官学である
§73 ミダス王の手──延長の法則
§74 知性と産業
§75 人間の努力、人間という努力──生命の道具主義(ベルクソンとスティグレール)
§76 「可塑的な溝」──知性と物質性
§77 来たるべき生気論
第3章 ベルクソンの手Ⅲ:(非)有機的生気論──『創造的進化』第三章の読解
§78 いかなる生気論か? ベルクソンにおける手の範例性
§79 人間の手──人間性と動物性、自然的なものと人工的なもの
§80 哲学者の手① 鉄のやすり屑を貫く手
§81 哲学者の手② 抹消線を引く手
§82 呼びかけⅢ──神の手(無限に有限な努力)
§83 (非)有機的生気論の歴史に向けて
第Ⅳ部 呼びかけえぬものに呼びかける──『道徳と宗教の二源泉』における響存(écho-sistence)
§84 テクストの聴診(方法論的考察)──功利性と効力、生命の二つの運動
§85 行動の論理の探究としての『二源泉』
§86 『二源泉』に固有のアポリア
§87 声・火・道・息のイメージ──動的行動の論理を露わにするもの
第1章 声の射程──呼びかけと人格性
§88 呼びかけⅣ──動的行動における人格性の孕む逆説の諸相
§89 静的行動における人格性
§90 生命の移調
第2章 火の領分──情動と共同体
§91 二つの根本気分──ベルクソンとハイデガー
§92 人類の彼方へ向かう人類愛
§93 人格性・表象・伝播との関係における情動
§94 熱狂とは何か──ベルクソンとカント
§95 場所学Ⅳ──灰の共同体
第3章 道の途中──二重狂乱と政治
§96 『二源泉』における「道」のイメージ
§97 情動の政治学
§98 〈道〉の哲学小史──デカルト、スピノザ、ベルクソン
§99 デカルトの道、ベルクソンの道
§100 交会法と神秘家の旅
§101 疎通の論理と拡張された道
§102 リズム計測Ⅳ──計り知れなさには計り知れなさを
§103 「二重狂乱」と前進
§104 計算しえぬものを計算する
第4章 ベルクソンの身体概念──フランス唯心論のもう一つの歴史に向けて
§105 「結びの考察」の意味=方向(sens)
§106 「二つの身体」論・再論──固有身体(corps propre)の所有・固有性(propriété)の問題
§107 視覚に対する触覚優位の顚倒──知覚と直観の問題
§108 ベルクソンの手Ⅳ──身体という拡張、技術(テクネー)という補綴(プロテーズ)
§109 もう一つのフランス・スピリチュアリスムのほうへ
結 論 明日の前に
§110 辺獄(リンボ)のベルクソン
§111 反時代的哲学とは何か
§112 スピリチュアリスムは新たな生を開始する
あとがき
文献表
事項索引
人名索引
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