連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』17

1月 06日, 2016 藤田尚志

第一部で、私たちは、『試論』における芸術的な手法に関して、催眠的な力を見た。ここで私たちは、その力を無意識の底で、記憶に関してふたたび見出している。『精神のエネルギー』からもう一節引いておこう。純粋記憶の無為なる側面を強調するためである。活動のそこでベルクソンは、プロティノスの神話(『エネアデス』VI 7, 5-7)に依拠しつつ、記憶と知覚の活動を描き出している。感覚と想起は、「互いに惹きつけあう」。

さて私は、無意識の底で待機している諸々の想起、、、、、、、、、、、、、、、、、(les souvenirs qui attendent au fond de l’inconscient)を、そのようにイデアの世界で漂っている魂に比べたいと思います。そしてまた、私たちが眠っている間に持つ感覚を、そのように下書きされただけの体に比べたいと思います。そうした感覚には熱も、色も、振動もあり、ほとんど生きていると言えるのですが、しかし定かならないものです。それに対して記憶ははっきり定まっていますが、内部がなくて生命を欠いています。感覚は自らの曖昧な輪郭を定めるために形相を欲し、記憶は中身を満たされて現実化するために質料がほしいのです。こうして両者は互いに惹きつけあい(ils s’attirent l’un l’autre)、幻のような記憶(le souvenir-fantôme)が血肉をもたらす感覚によって物質化し、一つの固有な生を営む存在になるのです。すなわち夢になるのです。(ES, V, 887-888/97)

この惹きつける力、すなわち魅力≒引力(attraction)はただ単に曖昧で神話的な意味合いで理解されるべきではなく、厳密でほとんど物理学的な意味で理解されねばならない。諸々の想起は、感覚や知覚とは異なる仕方で、つまり期待≒待機(attente)が一つの力になる仕方で、影響を及ぼすのである。

個々の記憶が記憶の世界の奥底で力なく無関心でじっとしているなどと思ってはいけません。それらの記憶は今か今かと待機中なのであり、ほとんど注意深いとすら言えるのです(Ils sont dans l’attente, ils sont presque attentifs)。(ES, V, 887-888/97)

ここで、ドゥルーズが唱えた、心理学的なもの(能動的なもの、ないし活動的なもの)と存在論的なもの(不活性的なもの、ないし非活動的なもの)のあまりに截然とした区別が機能しないことは明らかだ。ベルクソンの記憶はその両者の間にある。要するに、緊張(tension)や注意(attention)、伸張(extension)などといった語たちの意味論的星座に「待機=期待」(attente)や「待つこと」(attendre)を付け加えねばならない。さらに言えば、待機=期待は、記憶理論の中核にあるものなのだ。

しかし、より低い諸平面上では、これらの想起は、それらがもたれかかることのできる支配的なイマージュをいわば待望していた。ある突然の衝撃、ある激しい情動は、これらの想起が繋がれている決定的な出来事であるだろう。そしてこの出来事が、突然のものであるというその特徴のために、われわれの歴史のその他のものから切り離されているとすれば、これらの想起はその出来事の後を追って忘却されるだろう。それゆえ、身体的であれ精神的であれ、ある衝撃の結果として生じた忘却は直前の数々の出来事を含むということが理解される。――これは、記憶についての他のどんな考え方をもってしても非常に説明し難い現象である。ついでに指摘しておくと、(quelque attente de ce genre)のを拒むならば、記憶の通常の働きは理解できなくなるだろう。(MM III, 310/191)

ここから、ベルクソンが「生への注意」と呼んでいるもののもう一つ別の側面が明らかになる。本章の最後の課題は、このもう一つの側面をそれ自身として素描しており、『物質と記憶』の中で機能しているマイナーな論理をさらに解明するためにも素描しようとする。つまり、もし「夢の平面」ということで、何らかの純粋に非効力的で不活性的なものを意味しているとすれば、記憶の力や精神の諸力、と同時に、知的努力を、それをこの待機ないし注意のプロセスと結ぶものの中で理解することはできないだろう。

この緊張を弛緩させてみなさい。あるいはまた、この均衡を崩してみなさい。そうすれば、すべてはあたかも注意が生から逸らされたかのように進行するだろう。夢と精神異常はほとんどこれ以外のものであるようには思われない。(MM III, 312/194)

ベルクソンは、「この緊張」が行動するべく規定されており、感覚運動的な「この均衡」が現在の状況に適応していると正確に記述しているが、それになお、「すべてはあたかも注意がこの生から切り離されたかのように進行するだろう」と付け加えるのを忘れていなかった。この生とは、有用なものへと方向づけられた生であり、あるいはベルクソン自身が『物質と記憶』冒頭で正確に記しているように、「外的な生命へのわれわれの注意」(MM Avant-propos, 166/7)である。このことが意味しているのは、もう一つ別の注意、今度は内的な生命への注意がありうるということである。この“余白”こそが、幻想と知性の間で、人間的非決定たる人間的自由のあらゆる価値を私たちに与えてくれる。

知的な作業、形成すべき考え方、多数の想起から引き出される多少とも一般的な観念についてはどうだろうか。一方では気まぐれな空想に、他方では論理的な判別に、大きな余白が残されている。(MM III, 311/193)

ここにはもう一つ別の出発点がある。そこから出発して私たちは、知性と想像力のもう一つの関係のほうへと向かうことができるだろう。その関係はとりわけ、「知的努力」における「動的図式」の準概念とともに発展させられるだろう。かくして、私たちは二重の到着地にたどり着いたことになる。一方で、私たちは『物質と記憶』第四章の頂点、すなわち記憶と自由へと至りついている。だが他方で、存在論的なものと方法論的なものが未だかつてないほど絡み合って含み込みあう限りで、私たちは『物質と記憶』のマイナーな論理の最も完全な形態へとたどり着いている。「生への注意」に関して、ベルクソンは『物質と記憶』「第七版への序文」では、次のような「人格の膨張」という概念とともに、次のように語っている。

つまり、心的生には相異なる音程があって、われわれの心的生は相異なる高さで演じられうるものなのだ。われわれの生への注意、、、、、の度合い(degré de notre attention à la vie)に応じて、時に行動に近く、時に行動から遠く離れて。これが本書の指導的理念であり、われわれの仕事の出発点となったものに他ならない。心理状態の複雑さの増大(complication de l’état psychologique)と通常見なされているものは、われわれの視点からすると、われわれの人格全体の膨張(dilatation de notre personnalité tout entière)としてわれわれに現れる。われわれの人格は、普段は行動によって狭隘化されているが、われわれの人格を圧縮しうる万力が緩み、また、常に未分化なものとして、より大きな平面へと広がっていく。心理的生(la vie psychologique)それ自体の混乱、内的無秩序、人格の病と普通見なされているものは、われわれの視点からすると、この心理学的生をその運動的随伴に結びつける連帯の減弱ないし弛緩として、われわれの外的生への注意(notre attention à la vie extérieure)の変質ないし減弱としてわれわれに現れる。この主張は、ちなみに語についての想起の局所化を否定し(nier la localisation)、かかる局所化によってとはまったく別の仕方で(autrement que par cette localisation)数々の失語症を説明せんとする主張と同様に、本書の第一版の出版時(一八九六年)、逆説的なものと見なされた。この主張は今日ではそれほど逆説的なものとは見えないだろう。(Avant-propos, 166/7)

一つずつ確認していこう。「本書の指導的理念であり、われわれの仕事の出発点となったもの」、それは「生への注意」である。心理状態の「複雑さの増大」と言われているものは、人格の「膨張」である。人格は通常、行動に向けて「狭隘化」され「圧縮」されているが、その制約から解き放たれた時、「未分化」なものとして「広がる」。ここでは、この「複雑さの増大」「膨張」は、「心理的生の混乱、内的無秩序、人格の病」と結び付けられ、心理的生を運動へとつなぐメカニズムの弛緩として、「外的生への注意」の変質ないし減弱として捉えられている。だが、この第一の注意の変質ないし減弱と引き換えに、その辺境で、ひそかに第二の注意が介入してくるのではないか。行動から切り離される危険を冒しつつその代償に創造的たりうる、内的で反省的な注意が。その展開の過程で、例えば一般観念などが構想されてきたのではなかったか。

――かくしてわれわれは、われわれが最初閉じ込められているかに見えた循環からついに解放された。一般化するためには、類似を抽象〔抽出〕しなければならないが、有効に類似を引き出すためにはすでに一般化できるのでなければならない、とわれわれは言った。本当のところは、循環は存在していないということなのだ。なぜなら、精神が最初に抽象するときの出発点となる類似は、精神が意識的に一般化するときの到達点たる類似ではないからだ。精神がそこから出発するところの類似は、感じられ、生きられた、あるいはお望みなら自動的に演じられた類似である。精神がそこへと戻るところの類似は、知的に認知され思考された類似である。悟性と記憶の二重の努力によって、個体の知覚と類の概念が構成されるのは、まさにこの進展の途中においてなのである。――記憶は自然発生的に抽象された類似に区別を付け加え、悟性は数々の類似についての習慣から、、、、一般性についての明晰な観念を引き出す、、、、、、、。(III, 300-301/178-179)

行動からの切り離しは必ずしも夢見ること、狂乱することではない。それは観念を生み出し、思考を開き、創造性への道を開く。しかも単純に能動的で、単純に精神的で志向的、単純に意識的で反省的な営為がそうするのではない。一般観念が生み出されるのは、反復的で習慣的、精神的であると同時に身体的な営為においてである。私たちは序論において、ベルクソンの思考が未聞の螺旋を描くことで円を打ち破ることを示しておいた。ジャン=ルイ・クレチアンはそのことを、ベルクソンの「膨張する」(dilater)という表現に看取していた。

ベルクソンの偉大な特異性は、膨張が彼にとって、例えば喜びの記述において、様々な対象の中の一つではなく、彼の哲学的方法の名そのものをなすという点にある。これは、「膨張」が哲学することという中心的問いを指し示している唯一の例なのである。膨張はベルクソンにとって、直観(彼がこの語に与えた新たな意味での)の別の名に他ならない。〔……〕膨張は意志によって始まり、膨張とは行為であり努力である。そしてわれわれの意識と時間を拡大するこの努力は、われわれの知性の諸能力を変形する。(Jean-Louis Chrétien, La Joie spacieuse. Essai sur la dilatation, éd. Minuit, coll. « Paradoxe », 2007, pp. 26-27.  )

この一節は膨張が哲学的方法として重要であると指摘している点で興味深いが、私たちとしては、この膨張はたしかに「意志」によって始まるが、その意志も、そして行為も努力も決して単純に個人のものではなく、また習慣的なもの(これも単純に個人的なものではない)から発生してくるのだと強調しておきたい。
 
 


これまでの連載一覧はこちら 》》》
ベルクソン連載一覧
 
 
[第17回初出:2014年9月29日]
【編集部より】本連載の第29回までは、2013年4月15日から2015年12月28日にわたり、勁草書房サイトに掲載されていたものを移行いたしました。未読の方は、ぜひ第1回からお読みください。第30回からは編集部サイトでの掲載が初出になります。*注は省略してあります。

1 2
藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。