連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』19

1月 06日, 2016 藤田尚志

第三部 生の飛躍の諸方向=意味(sens)、
あるいは、いかにして方向づけえぬものを方向づけるか
『創造的進化』(一九〇七年)を読む

「弓(βιός)には生命(βίος)という名が与えられている。その働きとは死である」

――ヘラクレイトス

 

「生命の流れの描く線はさまざまに分かたれていて、道や山の境界に似ている。この世で私たちがそうある存在は、かしこである神が調和と永遠の報いと平和によって補ってくれるものであるかもしれない」

――ヘルダーリン

 

「それゆえ、思考が一つの応答(であること)から始めうるということをいかに理解すべきだろうか?
 応答:このことが可能であるばかりでなく、必然でもあるのは、ただ一つにして独特の思考、つまり「生命の意味=方向」の思考しか存在しないからであり、そのような「意味=方向」によって生命そのもの以外の何ものか(その核になりそうな或る要素、その空間内に方向づけを見出しうるような最後の審判)を理解すべきではなく、剥き出しの状態の〈生きること〉がもつア・プリオリな形式的構成というものを理解すべきだからである。というのも、この実存的形式性は、あえて言うならば、応答の形式で構築されているからだ。この見地からすれば、人間とは、何をするにせよしないにせよ、何を感じるにせよ感じないにせよ、言うにせよ黙す る に せ よ、世 界 に 応 答 し(répond au monde)、世 界 に 責 任 を 持 つ(répond du monde)」

――ジェラール・グラネル

§54. 目的論と生気論、危険な関係?(第三部の構成)

目的論(finalismeないしtéléologie)や合目的性(finalité)概念は、現代の生命科学においては、まるで精神分析で言うところの「抑圧されたものの回帰」のように執拗に回帰してくる考えであり概念である。分子生物学から構造生物学、生命科学あるいは複雑システム科学へと進むうちに、〈目的論〉の亡霊がいよいよ執拗に現れてきている。では、ベルクソン哲学においては、どの程度重要なものなのか?目的論に関する議論は、『創造的進化』第1章のたかだか数十頁を占めるにすぎず、それも論旨の展開上仕方なく持ち出されたにすぎない一挿話なのではないか?目的論の哲学史を扱った教科書的記述において触れられることがない以上、ベルクソンの目的論が不当に忘却されているとか、目立たないが決定的な革命が遂行されているなどと考えるのは過大評価も甚だしいのではないか?ここで、もう一つの鍵概念である〈生気論〉を召喚し、目的論と生気論の関係を見ておかねばならない。

生の哲学(la philosophie de la vie)ないし生気論(vitalisme)と合目的性ないし目的論の間にはいかなる関係があるのか?この問いが重要であるのは、蒙昧な生気論から目的論を隔離して純化すれば、合目的性概念はまだ使用に堪えると考える人々が、科学者にも哲学者にもいるからである。分子生物学者ジャック・モノーは、生命現象に見出される合目的性を表現するには、従来の神学的・形而上学的な合目的性(テレオロジー)と区別された、科学的で中立的な「テレオノミー」という新しい概念を推奨するだけでよいと考えていたし、高名な中世哲学史家であるエチエンヌ・ジルソンは、進化論を論じた異色作で次のように述べていた。

目的論の中に、生気論のより繊細で、きわめてしなやかな形態を見て取る人がいるとすれば、その人の議論は誤った道を進んでいることになる。生気論と目的論という観念は、必ずしも結びついているわけではないのである。[…]生気論は脇に置いておこう。ベルクソンは先に触れた[目的論の]ポジションと切り離せないと主張しているが、現代の生物学がかつてないほど望んでいるのは、それとはまったく逆の事態なのである。

この著作の第四章「ベルクソン哲学と合目的性」で、ジルソンは、ベルクソンが不調和を孕みうる調和の方向に合目的性概念を導き、「目的論復興への道を開いた」点を評価しつつも、彼が「知性」批判を急ぐあまり、ジルソンにとって生命進化の謎を解く鍵であるところの実体形相(forme substantielle)概念を捉え損なったとして、最終的にアリストテレスに軍配を挙げている。トミスト=アリストテレス主義者であるジルソンにとって、生気論は必ずや目的論へと導かれるが、逆は真ではないのである。だが、目的論は、本当に生気論と手を切って純化されることが可能なのだろうか。むしろ生命科学に執り憑き続ける目的論の亡霊は、新たな生気論と手を携えてはじめて生き残り、ようやく現代哲学の地平に姿を現しうるのではないか。ベルクソンの生命哲学全体がこの問いへの答えたろうとしている。

生気論と目的論に関するこの問いに答えるために、本第三部は以下のように構成される。ベルクソン第三の主著『創造的進化』は、方向づけえぬものを方向づけようとする、、、、、、、、、、、、、、、、、、試みである。そこで提示されるメジャーな概念である「生命のはずみ(エラン・ヴィタル)」は、進化論哲学(生命の目的化(finalisation))の批判的分析において、「意味=方向」という伝統的な観念の根底的な取り上げ直しによって錬成される。これが第一章で確認される点である。

「生命のはずみ」に、メジャーな概念の力を真に与えているのは、「延長」(prolongement)の(非)有機的な論理である。この論理は、技術の問いを通じて、身体の隅々に至るまで展開されている。第二章では、「努力する手(la main s’efforçant)」の例とともに、意味・目的論的なもの(téléologique)・テクノロジー的なもの(technologique)のマイナーな論理の存在を跡付けていく。

最後に、第三章においては、ベルクソンの目的論とカントのそれとを比較しつつ、前二章で得られた諸成果をさらに深めようと試みている。これらの読解は、私たちを『二源泉』読解へと導いていくことになる。

 

第1章 ベルクソンと目的論の問題(『創造的進化』第1章の読解)

§55. 目的論の亡霊

ラランドの『語彙辞典』は、「技術 technique」「テクノロジー technologie」「目的論téléologie」「目的論的téléologique」の諸語を連続した形で提示している。むろん単なる偶然であることは言うまでもない。だが、おそらくベルクソン哲学にとっては、とりわけ『創造的進化』にとっては偶然ではないのかもしれない。第三の主著の分析は、この連続の賭け金を明らかにしてくれるだろう。本章ではまず「目的論」の問題に集中し、次章では「技術」の問いに取り掛かることにしよう。

1907年に出版された『創造的進化』は、2007年に刊行百周年を迎えた。すでに齢百年を過ぎたこの著作を改めて読み直さねならないとすれば、それは、しかし、アカデミックな文脈からのみなされる要請であってはなるまい。過去一世紀の間に生じた科学的・文化的・社会的なコンテクストの変化、そしてそれを受けたより切実な、切迫した哲学的要請のかすかではあるが絶えることない囁きに耳を傾けねばならない。繰り返すが、分子生物学から構造生物学、生命科学あるいは複雑システム科学へと進むうちに、〈目的論〉の亡霊がいよいよ執拗に現れてきている。機械論と目的論の対立で言えば、現在は、機械論を基盤とする生命科学のうちに散らばり潜伏した目的論がまるで癌細胞のように増殖し、内側から責め苛んでいる状況である。進化論を二分し続ける永遠のライバル、(ネオ・)ダーウィニズムと(ネオ・)ラマルキズムについてもほぼ同じことが言える。前者がいつの時代にも大抵、進化論の「勝ち組」であったとすれば、後者は、敗れて灰燼に帰してはそのたびに形を変えて甦ってくるフェニックスにほかならない。現代生物学において、「ケアンズ型突然変異」といった形で、方向性をもった突然変異がある種のラマルキズムによって再び主張され始めているという一事を見ても、そのことは分かる。目的論をめぐるこのような状況について、すでに19世紀後半、生理学者時代のフロイトの師エルンスト・フォン・ブリュッケ(Ernst Wilhelm von Brücke, 1819-1892)は、卓抜な言い回しを用いて的確に言い当てている。「長い間、生物学者は、目的論の前では、彼女なしでは済まされないが、といって一緒にいるのを公に見られたくない女性の傍にいるかのようであった」。かつて哲学は神学の端女はしためと言われたが、目的論は生物学のめかけである、というわけだ(これはあくまで先人たちが用いた比喩である・・・・・・)。現在の状況は、言ってみれば煮え切らない生命科学に対して、ありのままの姿で自分を認知するよう目的論が(再び)迫っている、といったところであろう。以上のような一般的な問題意識に立ち、可能なる(リュイエの表現を拝借するならば)「新目的論」(néo-finalisme)を探し求めて、『創造的進化』を読み直すことで何が見えてくるのか? 本章(第三部第一章)の力点は、したがって、「ベルクソン目的論」の全体像把握に努めると同時に、『創造的進化』の再読を緊急のものとするようなプロブレマティックとしての目的論とベルクソン哲学の関係を探ることにある。表題を「ベルクソン目的論の問題」とした所以である。

§56. 場所学III:傾向としての存在、意味=方向としての実存

まず論旨の必要上、基本的な確認から始めよう。抽象的な生一般ではなく、具体的な生の形について語るために、生の持続としての進化が取り上げられている以上、『創造的進化』の真の哲学的主題は一科学部門としての進化論ないし進化学の当否ではなく、生概念の練り直しである。生概念の練り直しとは、その「心理学化」にほかならない。というのも、ベルクソンはすでに処女作で看取していた生成変化、動的で不安定な質的多様体という「意識の直接与件」の根本性格を、今また生命の本質に見て取ろうとしているからである。重要なことなので一言しておくが、「心理学的」という言葉がベルクソンのターミノロジーの中で意味しているのは、持続的・相互浸透的・質的多様体のような特性をもつということである。宇宙論の称揚と心理学の峻拒という組み合わせは、ドゥルーズ的な解釈を踏襲したベルクソン読解によく見られる主張だが、ベルクソンにとって、心理学的であること、意識のような質的多様体であることと、宇宙論的であることは矛盾しない。実際、次のように主張しているのは、ベルクソン自身である。「今度の仕事〔『創造的進化』〕では、これらの〔『試論』の〕同じ考え方が生命一般に適用されるが、そもそも、その生命そのものからして心理学的な観点から見られている」(EC 494)。具体的な生の持続に迫るため、ベルクソンは生概念を心理学化、すなわち相互浸透化・多様体化したが、これによって個体概念(individualité)がたわめられ、傾向(tendance)ないし個体化(individuation)概念への移行が準備される。存在するのは個体ではなく、個体化である。存在とは傾向である(EC 505)。だとすれば、生の哲学が生命現象の中心として分析すべき対象は、諸々の生物個体ではなく、個体を貫く進化の流れであり、関わりあうべき学問分野は生理学であるよりむしろ進化論である、ということになる(EC 511, 513)。そこで、進化論学説と、その二つの見方としての機械論と目的論が登場するわけで、言ってみれば持続の哲学によるこの個体概念の批判(否定ではない)こそがベルクソンの進化論哲学、さらには生命哲学の端緒を開くのである。

 
 


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[第19回初出:2014年11月30日]
【編集部より】本連載の第29回までは、2013年4月15日から2015年12月28日にわたり、勁草書房サイトに掲載されていたものを移行いたしました。未読の方は、ぜひ第1回からお読みください。第30回からは編集部サイトでの掲載が初出になります。*注は省略してあります。

藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。