ベルクソン 反時代的哲学 連載・読み物

『ベルクソン 反時代的哲学』21

1月 06日, 2016 藤田尚志
§58. ベルクソン的目的論の四つの根本特徴(承前)

目的論の原理が「心理学的」なものであるとはどういうことか。その「柔軟さ」「拡張可能性」「広がり」を理解するには、『創造的進化』第三章の「類の問題と法則の問題」(あるいは、原著の頁上のタイトルでは簡略化して「類と法則」)と題された一節を参照しつつ、上述した「質的多様性」の内実にさらに踏み込まねばならない。

この一節で、ベルクソンは二種類の秩序を区別している。量的多様性が属するのが〈法則〉によって機械的・幾何学的に構成される「物理的秩序」だとすれば、質的多様性が属すのは〈類〉によって有機的・芸術的に構成される「生命の秩序」である。常識・人間知性・科学は、生物界のいたるところに、特権的な瞬間・特異点を捉える有機的な「類」ではなく、任意の瞬間に適用される機械的な「法則」を見出す。「心理学的」(むろん以上に見てきたベルクソン的な意味での)合目的性ではなく、物理学的な因果性(causalité)を見出す。目的論の論理は、言葉の本来の意味で類的(générique)でなければならない。これが、「目的論の原理は心理学的な本質を持つ」という言葉がさしあたり意味するところであるように思われる。

ここで簡潔に二つの注記を行なっておこう。

1)ベルクソンはこの一節で、アリストテレスに言及しながら、「類の一般性(généralité des genres)、すなわち、要するに、生命秩序の表現的な一般性(généralité expressive de l’ordre vital)」について語っている(III, 688/229)。「類」と「一般性」と「生命秩序」のこの関係は日本語では見えにくい。類概念というものはおよそ分類に必要なものであるが、「類」(genre)という語はギリシア語の「ゲノス」(γένος)に由来する。古代ギリシアにおいて共通の家系・家柄に属する社会集団を意味してもいたこのゲノスという語自体は、「成る」「生ずる」を意味する「ギグネスタイ」(γίγνεσθαι)という動詞に由来し、「発生」(genèse)という語に通じる。同じ生まれ・由来・発生源をもつものが、その同朋性・共方向性によって、ひとつの同じ類概念に包括される対象の領域を形作るということである。事物の由来が事物の実体的本質を構成することの謎を、アリストテレスが「ト・ティ・エーン・エイナイ」(τὸ τί ἦν εἶναι)という不思議な概念によって解こうとしたが、事物の由来は事物の本質に対して単に偶然的な事柄ではなく、むしろそれに対して構成的な意味をもっているというのが、ゲノスという語に含まれている「哲学」だ、と三木清は言う。発生的方法は現代では心理主義もしくは歴史主義の名のもとに非難されているが、私たちはなお心理主義や歴史主義に陥ることなく、しかもひとつの新しい発生的方法を考えることはできないだろうか、と。ベルクソン的な目的論の論理は、類(ゲノス)という語の語源的な意味で、そしてアリストテレス的・三木的な意味で、ジェネリック(générique)な、つまり類的で一般的であるとともに発生的なものである。言い換えれば、生命秩序は、合目的性を決定的に離れることなく超出するという形で、その周辺を揺れ動いている。

第一類の秩序について言うと、それが目的性を中心に揺れ動いている(oscille)ことは確かである。しかし目的性でもって定義できないわけは、それの上にいないときは必ず下にいるからである。この秩序で最高の形のものは目的性以上のものである。例えば、自由活動あるいは芸術作品について見るなら、いずれも完全な秩序を示していることは言えても、それを理想の用語で表現するとなると、後から、それも近似的にするほかはない。生命をひとまとめに創造的進化として眺めたものもどこかそれに類している。目的性というものを、あらかじめ思念された、あるいは思念されうる理想の実現と解するなら、生命は目的性を超える。(III, 685)

私たちは単純に目的性に安住することもできず、そうかといって安易に目的性と手を切ることもできない。この揺れ動き(oscillation)が創造的進化やエラン・ヴィタルという概念を考えるときに決して手放してはいけないアリアドネの糸である。後で芸術的創造の目的論を論じる際に再びここに戻ってくることにして、次の注記に移ろう。

2)一個の生物の発生に際して、無限小の要素(ベルクソンは「小労働者」になぞらえる)がたった一つでも欠けるか逸れるかすれば、すべては崩壊する。なるほどそれはそうだが、にもかかわらず、生命的な合目的性は、何らかの統制的な原理(ベルクソンは「現場監督」になぞらえる)に助けを求めないこともできる。先に述べた意味で類的(ジェネリック)な目的性は、こう言ってよければ、現場監督を失業させる。

精神のそもそもの動きはじめは、そうした小労働者たちの群れに「生命原理」なるよく気の付く現場監督をつけてやって、過ちが起きたらいつでも繕わせ、逸れの結果は修正させて、ものをあるべき位置に戻させることなのである。このようにひとは物理秩序と生命秩序の違いを翻訳してみて、前者は同じ原因の組み合わせから同じ総体的結果を生じさせるもの、後者は原因の浮動するときにも結果を定常に保つものだとする。けれどもそれは翻訳にすぎない。反省してみれば、現場監督などそこにいるはずもないので、それは労働者がいないという至極簡単な理由から分かる。(III, 686-687/226-227)

現場監督も労働者もいない。この比喩が意味するのは、生命秩序を物理秩序の語彙に翻訳することで、前者を後者へと併合し、「自然の一般的な秩序」を打ち立ててしまう趨勢と、その背後に潜む〈存在=被制作性〉モデルに抗して、「思弁の関心しか引かないまったく内的な多様性」(diversité tout interne, qui n’intéresse que la spéculation)を見出そうとする(もちろんここで言う「思弁」とは、すでに第二部末尾(§53)でも言及した「経験の転回点」への眼差しであり、ベルクソンの心霊科学への思弁的関心にも通じるものである)。私たちの日常生活はどうしても同じ事物や同じ状況の期待になりがちである以上、実践において私たちの関心を引く「行動」の観点から、生命現象も物質的側面からのみ理解して事足れりとしようとするが、それでは決して生命現象の本質には到達しえない。だからと言って、逆に、物理現象までも生命現象に還元しようとするのでもない。ここにも目的性との微妙な関係が見られる。後で、ベルクソンをカントやクロード・ベルナールと比較しつつ、この点に立ち戻ってくることにしよう。

以上の二つの注記によって、「目的論の原理は心理学的な本質を持つ」という言葉の意味がどのように解釈されるべきか、その方向性が示された。私たちが注目すべきは、「類」(ゲノス)性、生命的・発生的側面である。来るべき生気論的目的論の課題がこうして規定される。

古典的な合目的性の概念は、生命を知性から説明したために、生命の意味を過度に切りつめている[…]。このより包括的な現実こそ、真の目的論が再構成せねばならないものであるのに[…]。目的論の方向の一つを目的論を超えて進むとしたらどんなものになるのか、と問われよう。[…]機械論では進化を説明するのに十分でないとして、この不十分さを証明する手段は、[1]古典的な目的概念に執着することではなく、いわんや[2]切りつめたり弱めたりすることでもなく、かえって[3]それを超えて進むことである。これを確立する時が来た(538-539)。

「目的論の方向の一つを目的論を超えて進むこと」、言ってみれば超目的論である。ベルクソンにあっては「新生気論néo-vitalisme」(530/42)と分かちがたく結びついたこの「新目的論Néofinalisme」(リュイエ)の根本特徴は、『創造的進化』第1章において、旧来の目的論・生気論への三つの「否」を通じて浮かび上がってくる。急進的目的論への「否」、その延命策として登場してきた内的合目的性概念への「否」、そして旧来の生気論への「否」である。

§59. 急進的な目的論への「否」:創造的目的論

ベルクソンは、目的論の純粋な理念型とでも言うべきものを「急進的な目的論 finalisme radical」と呼び、ライプニッツにその代表例を看ている。この急進的な目的論の見方に立てば、世界はあらかじめ設計された計画・モデルに基づいて実現された、何のサプライズもない制作物ということになる。この第一の批判から窺われるベルクソンの目的論の第一の特徴は、 ①来先取的でなく回顧的である、、、、、、、、、、、、、、ということだ。生命の目的論が心理学的であることは先に見たが、ベルクソンはこう但し書きを付け加えている。

進化はどの瞬間においても心理学的な解釈を許すはずである。ただし、この解釈は、私たちの見地からは最善の説明であるにしても、回顧的(rétroactif)な方向・意味にとらない限り、価値がなく意味すらもない。私がこれから提唱したい目的論的な解釈も、決して未来を先取りするもの(anticipation sur l’avenir)の意味にとってほしくない(538)。

持続の流れに耳を澄ます目的論。持続の流れに耳を澄ますとは、予見不可能性や創造性に対して常に開かれてあろうとすることだ。宇宙に思いがけないことが何もなく、予見不可能なものの創造がないのであれば、時間は無用になる。この予備的注意によって、次の三つの特徴が捉えられることになる。

[2]進化は一本道を描かない、[3]進化はそれぞれの方向をとりはするが目的を目指しはしない、そして最後に、[4]進化は適応の中までも創意を持ち込んでやまない。(582)

それぞれ②分岐的に収束する目的論(710-711)、③目的なき目的論(584)、④創発的な目的論と名づけることが出来よう。②と③は、檜垣立哉氏によって、『ベルクソンの哲学 生成する実在の肯定』(勁草書房、2000年)の中で、生命進化が絶えず拡散・分散・分岐する「拡散的な目的論」、持続同様、常に予見不可能な形で新たなものを創造し、あらかじめ設定された目的などもたない「開かれた目的論」として強調されているので、ここではごく簡単に触れるにとどめ、④を強調しておくことにしたい。

②分岐的収束(convergence divergente)。「創造的進化」は耳障りよく響く、誤解を与えかねない表現だが、予見不可能な創造は必ずしも心地よいものとは限らない。世界は「不協和音」に満ちており、その深い原因は「埋めようのない[持続の]リズムの差異」(603)に潜んでいる。進化とは進歩であるどころか、生命の敗走に次ぐ敗走の歴史であって、進化の基本的な原理は、「分離と分裂」(571)である。

ところが、はずみ(エラン)は有限である(……)。それはあらゆる障害を乗り越えることはできない。生命のはずみの刷り込む運動は、あるときは逸れ、あるときは分裂し、常に反抗を受けている。そして有機的世界の進化とは、この戦いの展開にほかならない。(……)そこにはあらゆる種類の後戻りや停止や事故のあったことも考慮されなければならない。とりわけ心に留めておかねばならないのは、種はどれも、生命の一般的な運動が自分を通り抜けないで、あたかもそこに停止しているかのように振る舞うという点である。(……)そこから数知れない戦いが自然を舞台として演じられることになる。そこから目を覆いたくなるようなどぎつい不調和も生まれる。だが、そうした不調和を生命原理そのもののせいにしてはなるまい。(710-711)

抽象的な生命原理に基づく単純な目的論でないことはこの一節からも明らかである。不調和を孕んでいるのは、生命と物質の衝突の現場なのであり、ベルクソンの目的論が焦点を合わせているのもまさにこの点なのだ。

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藤田尚志

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ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。