連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』23

1月 06日, 2016 藤田尚志
§68. ミダス王の手。延長の法則

ベルクソンは、「有機組織の本質的性格」(EC, I, 507)として、「およそ私たちの知覚や科学が人工的に孤立させたり閉じたりする一切のものから区別される」という点、すなわち生物というミクロコスモスは、宇宙全体というマクロコスモスとのみ比較可能であって、いかなる物的対象とも比較できない「持続する」ものであると述べている。この点は、ドゥルーズ=ガタリが強調した点でもあった。

しかし、持続の有機的全体性はいくら強調してもしすぎることはないとはいえ、仮にもそれが、一有機体の部分と全体、環境と主体の間の循環的な閉じた目的論的関係と関係づけられるものであったとしたら、ベルクソンの生気論はとりたてて他の生気論者たちと異なるところはない。我々の考えでは、ベルクソン的生気論にとって重要なのは、その開かれた目的論の側面、すなわち全体化(totalisation)の側面よりも、全体が絶えず拡張し延長していく(prolongement)という側面である。ベルクソンの言うように、進歩のうちに根底的な偶然性があり、先行するものと後続するものの間に共約不可能性があり、つまりは宇宙のうちに持続があるとすれば、この持続、この「大いなる生の息吹」は、下から上まで、すなわち「アメーバのお手製のように見える一時的な突起すなわち偽足prolongements temporaires ou pseudopodes」(EC, I, 34)から、人間の一時的な突起ともいうべき技術的義肢=補綴(prothèses techniques)に至るまで、絶えず延長のうちにあるのである。

殊に、道具はそれの製作者の性質にこちらから逆に働きかけるという長所をもつ。けだし、道具は新しい機能を果たしてみるように製作者に誘いかけながら、製作者の持って生まれた有機体を延長した人工の器官となって、いわばいっそう豊かな有機組織を製作者に授けるのである(il lui confère, pour ainsi dire, une organisation plus riche, étant un organe artificiel qui prolonge l’organisme naturel.)。(EC, II, 142)

ドーキンスの言う「利己的な遺伝子Selfish Gene」はなるほどエラン・ヴィタルに近い側面を有しており、彼の言う「延長された表現型Extended Phenotype」も我々が「延長の法則」と呼ぶものとそう遠くはないように見えるかもしれない。だが、ベルクソンの非個体主義は、究極の最終単位が何らかの実体的個体性(例えば遺伝子)のうちに見出されるという希望には警戒感を隠さないだろうし、また、器官学の第四の特徴として我々がもう少し先で見るように、そうした延長を行なう種(の遺伝子)自体もまた、延長である。「そうした出生以前の成長を延長したものが、すなわち生命である(De cette évolution prénatale la vie est le prolongement.)」(EC, I, 18)。つまり、生命そのものが果てしなく続く延長そのものであって、延長の「起源」は存在しないのである。

ギリシア神話には、触れるものすべてが黄金に変わってしまうミダス王の悲劇が登場するが、ベルクソンによれば、生命、そして生命的存在(生物)とはすべからく、触れるものすべてを有機組織化=器官化=道具化する、ミダス王的な存在なのである。ミダス王に触れられたものすべてが黄金の輝きを刻印されたように、有機組織化される(有機体化されるのではない)ものは、すべて「時」の刻印を押されている。

だが、有機体はごく皮相な観察からもそう言えるように不断の成長と変形とがその区別の表徴であるとしよう(……)。少なくとも、私たちはこの比較によって有機組織の本質的性格に注意を促されたことになるのではないか。宇宙が全体としてそうであり、意識する存在を一つ一つ取ってもそうであるように、生きた有機体は持続する。その全過去はそっくり伸びて(se prolonge)現在のなかに入り込み、そこに現にあって働き続ける。(……)およそ何かが生きているところには、時間が自分の名前を書き込むための帳簿がひとつどこかをあけて置いてある。(EC, I, 14-15)

生物の形態の成長や老衰ばかりではない。あらゆる技術的形成、あらゆる歴史的形態化が持続の相のもとに現象する、すなわちミダス王に触れられたもののように、光のうちに現れるのである。

§69. 知性と産業

生きるとは常に生き残ること、生命とは生き残りである(la vie est une survie)。生命による、生命のための延長は、あらゆる手段を行使する「生き残りsurvie」である。本能も知性もその至上目的に仕える手段にすぎない。知性と本能はある共通の道具主義に貫かれている。

完成された本能は有機的な道具を利用し組み立てさえもする能力であり、完成された知性は無機の道具を製作し使用する能力である。(EC, II, 141)

ちなみに、レイモン・リュイエは、「ベルクソンとジガバチ」という論文において、実に鋭い指摘をしている。それによれば、本能を有機的な道具を形成する能力、知性を無機的な道具を形成する能力として特徴づけるのは、間違いではないとしても、有機的道具から制作された道具への移行の様態を――少なくともベルクソンが提示しているような形で――理解させるのには役立たない。道具の利用と制作は脳によって導かれているのであって、脳の神経組織における変化を含意している。この観点からすれば、制作や技術的発明は、暫定的で消去可能な大脳皮質の形態形成に、つまり、織物としての有機的な神経組織に適用される代わりに、そういった外的な対象に適用される、自己構築という有機体の一次的特性に基づいている。だとすれば、人間と、感覚器官によって情報を得る大脳皮質をもつその他すべての動物、すなわち脊椎動物の大半――いや後生動物(原生動物を除くすべての動物)の大半さえも――とを分かつ真の差異はどこにあるのだろうか?なぜそれらの動物は、「物質的対象を把持することのできる器官、嘴、下顎、手などをわずかでももっているのであれば」、道具を制作しないのだろうか? リュイエの答えはこうだ。「なぜかと言えば、決定的な移行は、道具の使用というよりもむしろ、象徴体系の構成にあるからである。(……)象徴活動の構成は、現実の問題のために一つの道具を役立てるということよりも、はるかに決定的なことであった」。

私たちは、このリュイエの指摘を、私たち自身の「器官=機関学」的解釈を深めるために利用することができる。リュイエは明らかに、道具の使用を単純に、今目の前に見えている物質を手に取り、現在の環境改善に役立てるほとんど物理的な行為と捉え、象徴体系の構築を精神的・知的な行為と捉えている。だが、そのように捉えては、ベルクソンの生気論の特徴を捉え損なってしまう。彼の技術哲学の独創性が見えなくなってしまう。ベルクソンはむろん非合理主義者ではなく、知性が物質利用の次元から空間性と数学化の方向に「自分自身を延長する」ものであることをはっきりと肯定する。

物理学の成功は、次のように説明するほかないらしい。すなわち、物質性を構成する運動をそのまま終端まで延長すると等質空間になるので、それで私たちは互いに函数関係にたつ諸項を数えたり測ったり、その相対変異のままに追跡したりできるのだ。なお、実際そのように延長するには知性が自分自身を延長するだけでよい(Pour effectuer ce prolongement, notre intelligence n’a d’ailleurs qu’à se prolonger elle-même)。知性的と物質的は同じ本性を持ち、同じ生じ方をするもので、知性はおのずから空間と数学に向かって進むからである」。(EC, III, 220)

だが、知性は、空間化・数学化の方向に進むことが生存をより確かなものにするからこそ、一見純粋に見える思索に仕えるのだという事実を、ベルクソンは批判主義的認識論や超越論哲学に対して決して譲ろうとはしないだろう。『創造的進化』の冒頭にはこう書かれていた。生命の歴史は、人間においては、知性・行動・産業の歴史にほかならない、と。

生命進化の歴史はまだ完全ではないけれども、それでもすでに、知性というものが脊椎動物の系列をずっと人類までのぼりつめる線に沿って絶えず進歩しながら形成されてきたさまを垣間見させてくれている。(……)ここから次の帰結が生じはしないか。私たちの知性を狭義に解した場合、その役目は私たちの身体を環境に申し分なくはめこむ確かな手立てとなり、外界の事物相互の関係を表象すること、つまり物質を思考することにあるのではないか。実際これは本試論の結論の一つになるはずである。後で見るように、人間の知性は無生の事物のなかに放っておかれる間は我が家のくつろぎを感じている。殊に個体の間では私たちの行動のための支持点や産業のための作業具がそこに見つかるのでくつろぎもひとしおであろう。(EC, V)

ベルクソンにとって純粋な知性主義とは、己の本性を知らない夢想家にすぎない。真の知性主義は、産業主義に直結している。産業においては、何度でも倦むことなく同じ要素から同じ全体を組み立て、同じ結果を得るために同じ運動を反復する。ということは、ジャンケレヴィッチの言うように、「生命の跳躍は、生命に背く構造に到達する。(……)生命は自分自身を余すところなく実現するために知性に頼るのに、知性は生命の期待を裏切る」ということである。ベルクソン自身こう書いている。

私たちの悟性の使命を思うならば、これは驚くにはあたるまい。知性が到る所に探し出す因果性は私たちの産業のからくりを表現している。(……)産業の目的性こそは、私たちの知性にとってすぐれた意味での目的性なのである。発明について言うならば、それは産業そのものの出発点であるのに、本来の意味での発明が迸り出るところ、すなわちその不可分なところや発明の天才的なところ、すなわち創造者らしいところなどは知性にはついに捉えられない。(……)知性は生命の本質的な一面を、まるでそんな対象を考えるためにはできていないかのように取り逃がす。(EC, II, 165)

ベルクソンは一方で、知性は有機的なものを無機的なものに分解した形でしか見ることができないという。しかし他方で、その分解は決して無意味な破壊や無力な再構成に向かわない。その再構成は必ず、常により強力たろうとする別の形での有機組織化、道具=器官化(organologisation)を含意している。このことは、知性と物質性のある種の両義性、そしてそれを可能にしている可塑性を示してはいまいか。ここには二つの問題がある。知性(とそれを媒介した物質)という道具の真の使い手は誰なのか、あるいは何なのかという問いと、知性や物質性の可塑性とはいかなるものであるのか、という問いである。

1 2 3 4
藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。