§74. 人間の手――人間性と動物性、自然的なものと人工的なもの
まずは人間の手から始めることにしよう。〈手〉はもはや『試論』におけるように、痛覚の量的計測に対して質的変化を対置するためのリズム計測的な場でもなければ、『物質と記憶』におけるように、イマージュ論における身体の肉性の希薄さを象徴する場所学的な幻影肢としてでもなく、今回は生命学的(bio-logique)な器官=機関(organe)として現れてくる。ベルクソンにとっての生命は、物理化学法則に還元不可能な現象であるというだけでなく、この生物学的な還元不可能性こそがベルクソン的生気論を構成するというだけでもない。説明を要するのは、ここで言う「生物学的」(biologique)が、単に科学の一分野に関わるというだけでなく、生命の論理と技術、有機組織化と規範性に関わる限りで「生命学的」(bio-logique)であるということだ。脊椎動物では活動はもっぱら四肢に集中されており、この器官の果たす様々な機能は、節足動物に比べて、その形に依存する度合いもはるかに薄い。そしてこの把捉機械の発達が、人間の手というほとんど無限の可能性/危険性を秘めたもののうちに頂点を極める。
人間においては独立は完全なものになり、人間の手はどんな業でもやってのけられるものとなっている。(II, 134/608)
手によるこの解放は、ベルクソンによれば、「はじめて武器が製作され、はじめて道具が製作された」(138/611)日まで遡る(「武器」が「道具」に先行している。この点には『二源泉』に関する第四部で戻ってくることにしよう)。ホモ・サピエンスではなく、ホモ・ファベル(140/613)。ここで提起されている人間の定義は、私たちを当惑させる。というのも、それは通常ベルクソンに帰せられる生気論ないし唯心論から彼を一見して遠ざけるように思われるからだ。だが、無論、明らかに、人間の手は、知性なしには何物でもない。手と知性をめぐるこの文脈においてまさに、「手仕事(travail manuel)について、それが学校で演じうる役割について」ベルクソンが意義深い区別を行なっている一節を位置づけねばならない。「ひとは、知性が本質的に物質を操作する(manipuler)能力であるということを忘れている〔……〕。だとすれば、どうして知性が手(main)の教育から益を俾さないわけがあろうか。〔……〕子どもの手は、自然と構築するよう自らを努力へと促す(s’essaie)。〔……〕それゆえ子供には手仕事をさせよう。この教育を単なる労働(manœuvre)に任せっきりで放置しないようにしよう。触覚(le toucher)があるtactになるまでに完成させてくれるよう(pour qu’il perfectionne le toucher au point d’en faire un tact)、真の師に頼みこもう。そうすれば、知性は手から頭にのぼってくるだろう」(PM 92-93/1325)。このtactは実に訳しにくい。フランス語の辞書を繙けば、まずは生理学的な意味での「触覚」とある。つまり、toucherと同義である。次に、「起点、臨機応変、如才なさ」とあり、その後に、古義として「感触、手触り」や「直感、勘」といった意味が続く。つまりtact自身非常に手触りというかニュアンスに富んだ言葉なのである。河野与一は「触覚が手加減になるまで」(岩波文庫127頁)、矢内原伊作は「触覚を完成させて敏感さにまで至らせる」(白水社版旧全集101頁)と訳し、原章二は「触覚が微妙な感触を得るまで」(平凡社ライブラリー117頁)と訳している。英語版訳者のAndisonは「the touchをa sense of touchとするまでに」、イタリア語版訳者のPerrottiは、「il toccareをun tattoとするまでに」と訳している。訳者たちの苦労が垣間見える瞬間である。私たちとしてはこれらの翻訳を踏まえて、さしあたり「触覚が或る種の手触りとなるまでに」と訳しておくことにしよう。触覚が単なる感覚器官であるにとどまらず、「敏感さ」や「微妙な感触」を備えたものとなりうること、そこには精神・生命と物質の相互関係がある。『創造的進化』は、この種の相互作用的な関係について、さまざまなレベルで展開している。例えば、芸術家とその作品の関係である。
画家は自分の制作する作品の感化そのものでその才能が形成されたり崩れたり、ともかくも変容するが、それと同じことで、私たちの各々の状態は私たちから離れて出るや否や、私たちが今自分にあてがいはじめた新しい形となって私たちの人格を変容していく。(EC 7/500)
つづきは、単行本『ベルクソン 反時代的哲学』でごらんください。
立ち止まっている人にだけ見える景色がある。概念とイメージの緊張関係を精緻に読み解き、ベルクソンを反時代的哲学として読み返す。
藤田尚志 著 『ベルクソン 反時代的哲学』
A5判・624頁・6,600円(税込み) 2022年6月刊行
ISBN:978-4-326-10300-3→[書誌情報]
【内容紹介】概念の解像度を上げるだけが哲学の仕事ではない。ベルクソンは、イメージとの往還と緊張関係を強調してやまない。本書は、最新の研究成果を踏まえつつ、『時間と自由』や『物質と記憶』など主要著作の鍵概念である「持続」や「純粋記憶」を深く理解するには、「リズム」や「場所」のイメージの精確な読解が欠かせないと説く。勁草書房編集部ウェブサイトでの連載時より大幅改稿。
〈たちよみ〉はこちらから→〈「あとがき」(pdfファイルへのリンク)〉
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【目次】
序 論 言葉の暴力
§1 功利性と効力
§2 生命(vie)・生き長らえ(survie)・超-生(sur-vie)
§3 哲学と科学、良識(ボン・サンス)と常識(サンス・コモン)
§4 メジャーな概念とマイナーな論理
§5 言葉のふるう暴力
§6 言語にふるわれる暴力
§7 「見かけに騙されないようにしよう」──言語のアナモルフォーズ
§8 言語の速度学──遅れとしての隠喩
§9 否定的転義学
§10 螺旋としてのベルクソン哲学
§11 言語の手前、言語の彼方
§12 transports amoureux、あるいはピルエットとしての直観
§13 マイナーな論理は何をなしうるか(本書の構成)
第Ⅰ部 測りえぬものを測る──『意識に直接与えられたものについての試論』における持続のリズム計測(rythmesure)
§14 計測から遠く離れて(第Ⅰ部の構成)
第1章 計測のリズムを刻む──『試論』第一章の読解
§15 「心理的諸状態」の類型論(『試論』第一章の構造)
§16 呼びかけⅠ──リズムと共感(美的感情の分析1)
§17 催眠的リズム(美的感情の分析2)
§18 強度と深度(美的感情の分析3)
§19 ベルクソンの手Ⅰ──「例えば、拳を徐々に強く握りしめてみてほしい」
§20 中間状態の分析における「注意attention」と「緊張tension」
§21 自由の始まりとしての感覚
§22 「音楽の表現力、というよりむしろその暗示力」
§23 多様性と有機組織化のあいだにある強度
第2章 リズム数論(arythmologie)──『試論』第二章の読解
§24 数の問い──カント、フッサール、ベルクソン
§25 場所学Ⅰ──コンパス化された存在(拡がりと空間)
§26 メロディーからリズムへ
§27 数(arithmos)とリズム(rhuthmos)──アリストテレスとベルクソン
§28 リズム計測Ⅰ──構造的リズム
§29 内在的感性論のほうへ
第3章 自由の度合い──『試論』第三章の読解
§30 決定論批判
§31 自由はいかにそのリズムを刻むのか(ベルクソンとハイデガー)
§32 催眠、自我の測深
§33 記憶の問題系へ
§34 数に関する思考の未来
第Ⅱ部 場所なきものに場所を与える──『物質と記憶』における記憶の場所学(khorologie)
§35 存在論的、憑在論的(第Ⅱ部の構成)
§36 ベルクソンとカント──超図式機能のほうへ
§37 ベルクソンによるコペルニクス的転回──場所論としてのイマージュ論
第1章 『アリストテレスの場所論』に場所を与える
§38 場所と空間──ライプニッツの位置
§39 『アリストテレスの場所論』から『物質と記憶』へ
第2章 知覚の位置──『物質と記憶』第一章・第四章の読解
§40 ファイネスタイの論理としての現象学
§41 ベルクソンの手Ⅱ──『物質と記憶』第一章における幻影肢
§42 二つの身体の理論──距離の現象学
§43 実在的(リアル)なもののしるし(サイン)、あるいは『知覚の現象学』における幻影肢
§44 situsの論理──記念碑的なもの(le monumental)から記憶を絶したもの(l’immémorial)へ(『物質と記憶』第四章)
§45 リズム計測Ⅱ──差動的リズムとしての持続のリズム
第3章 唯心論(スピリチュアリスム)と心霊論(スピリティスム)──ベルクソン哲学における催眠・テレパシー・心霊研究
§46 亡霊を尊重すること、あるいは経験の転回点
§47 催眠とベルクソンの記憶理論
§48 テレパシーと共感(シンパシー)──ベルクソンの知覚理論
§49 収束する(converger)──「歴史家と予審判事の間」にある心霊研究の方法論
§50 転換させる(convertir)──「おそらくは〈彼岸〉であるような〈外部〉」へ
第4章 記憶の場所──『物質と記憶』第二章・第三章の読解
§51 Spacing Imagination
§52 運動図式──ベルクソンとサルトル(『物質と記憶』第二章)
§53 図式機能の問い──カント、ハイデガー、ドゥルーズ
§54 崇高と走馬灯──構想-暴力と純粋記憶の無為の暴力
§55 場所学Ⅱ──locusの論理(『物質と記憶』第三章)
§56 呼びかけⅡ──無為・待機・憑在論的
§57 もう一つの「生の注意」としての膨張
§58 もう一つの「スペクトル分析」のほうへ
第Ⅲ部 方向づけえぬものを方向づける──『創造的進化』における生の弾み(エラン・ヴィタル)の諸方向=器官学(organologie)
§59 目的論と生気論、危険な関係?(第Ⅲ部の構成)
第1章 ベルクソンと目的論の問題──『創造的進化』第一章の読解
§60 目的論の亡霊
§61 場所学Ⅲ──傾向としての存在、意味=方向としての実存
§62 リズム計測Ⅲ──「持続のリズム」から「生命の衝迫」へ
§63 ベルクソン的目的論の四つの根本特徴
§64 急進的な目的論への「否」──創造的目的論
§65 内的合目的性への「否」──ベルクソンとカントの目的論
§66 伝統的な生気論への「否」──(非)有機的生気論へ
§67 二つの生気論──超越論的生気論と内在的生気論(ベルナールとベルクソン)
§68 来たるべき承認のための闘争──哲学と科学
第2章 「生物の丹精=産業(industrie)」について、あるいはベルクソン的器官学──『創造的進化』第二章の読解
§69 『創造的進化』の撒種──受容の(複数の)歴史
§70 ベルクソンの生気論は(非)有機的である
§71 ベルクソンの生気論は非個体的である
§72 ベルクソンの(非)有機的生気論は一つの器官学である
§73 ミダス王の手──延長の法則
§74 知性と産業
§75 人間の努力、人間という努力──生命の道具主義(ベルクソンとスティグレール)
§76 「可塑的な溝」──知性と物質性
§77 来たるべき生気論
第3章 ベルクソンの手Ⅲ:(非)有機的生気論──『創造的進化』第三章の読解
§78 いかなる生気論か? ベルクソンにおける手の範例性
§79 人間の手──人間性と動物性、自然的なものと人工的なもの
§80 哲学者の手① 鉄のやすり屑を貫く手
§81 哲学者の手② 抹消線を引く手
§82 呼びかけⅢ──神の手(無限に有限な努力)
§83 (非)有機的生気論の歴史に向けて
第Ⅳ部 呼びかけえぬものに呼びかける──『道徳と宗教の二源泉』における響存(écho-sistence)
§84 テクストの聴診(方法論的考察)──功利性と効力、生命の二つの運動
§85 行動の論理の探究としての『二源泉』
§86 『二源泉』に固有のアポリア
§87 声・火・道・息のイメージ──動的行動の論理を露わにするもの
第1章 声の射程──呼びかけと人格性
§88 呼びかけⅣ──動的行動における人格性の孕む逆説の諸相
§89 静的行動における人格性
§90 生命の移調
第2章 火の領分──情動と共同体
§91 二つの根本気分──ベルクソンとハイデガー
§92 人類の彼方へ向かう人類愛
§93 人格性・表象・伝播との関係における情動
§94 熱狂とは何か──ベルクソンとカント
§95 場所学Ⅳ──灰の共同体
第3章 道の途中──二重狂乱と政治
§96 『二源泉』における「道」のイメージ
§97 情動の政治学
§98 〈道〉の哲学小史──デカルト、スピノザ、ベルクソン
§99 デカルトの道、ベルクソンの道
§100 交会法と神秘家の旅
§101 疎通の論理と拡張された道
§102 リズム計測Ⅳ──計り知れなさには計り知れなさを
§103 「二重狂乱」と前進
§104 計算しえぬものを計算する
第4章 ベルクソンの身体概念──フランス唯心論のもう一つの歴史に向けて
§105 「結びの考察」の意味=方向(sens)
§106 「二つの身体」論・再論──固有身体(corps propre)の所有・固有性(propriété)の問題
§107 視覚に対する触覚優位の顚倒──知覚と直観の問題
§108 ベルクソンの手Ⅳ──身体という拡張、技術(テクネー)という補綴(プロテーズ)
§109 もう一つのフランス・スピリチュアリスムのほうへ
結 論 明日の前に
§110 辺獄(リンボ)のベルクソン
§111 反時代的哲学とは何か
§112 スピリチュアリスムは新たな生を開始する
あとがき
文献表
事項索引
人名索引
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