連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』26

1月 06日, 2016 藤田尚志
§75. 哲学者の手①鉄のやすり屑を貫く手

ベルクソンの著作における〈人間の手〉のモチーフを見た後で、今度は〈哲学者の手〉とでも呼ぶべきものに移ることにしよう。『試論』や『物質と記憶』といったこれまでの著作同様、〈手〉は、ここでもまた、方法論的な道具として、偽の問題を何とか解決しよう(résoudre)と無駄骨を折るよりはむしろ、それらを消失・解消(dissoudre)するためのorganonとして、ただしもはや何らかの科学の(例えば、精神物理学や大脳生理学の)例としてではなく、隠喩メタファーないし類比アナロジーとして機能している。日本語でも、「自分の手(の内)を明かさない」「相手の手を読む」などと、勝負事で手持ちの札や駒、またそれらをどのように用いるかという戦略について〈手〉という語を用いる。同様に、「手」を意味するフランス語のmainは、カードゲームの用語としては、「手札、持ち札」や「親、ディーラー」を意味し、成功するためのあらゆる決め手がそろっていることを「すべての切り札を手の内にもっている(avoir tous les atouts en main)」と言ったりする。日本語の美術用語にもなっている「マニエール(manière)」は、「方法、手法」を意味するが、元々は古典ラテン語のmanus(手)に由来する。ここでのベルクソンの「手」はそのような戦略的な「手」に近い。ここではそのようにベルクソンが鮮やかに切ってみせた「手」のうちの二つ、ベルクソン的な批判の二つの「手法」だけを見ておくことにしよう。まずは、鉄のやすり屑に突っ込んでいく手の例であり、これは合目的性概念の批判のために用いられたのであった。次に、抹消線を引く手の例であって、これは有名な無の概念の批判の際に用いられたものである。

第一の手から始めることにしよう。私たちは先に、primum vivereの論理、知性に対する生き延びの優位、theoriaに対するpraxisの優位――ひとは行動するためにしか思考しない――が意味するところを確認した。行動の型に鋳られた知性は、ある目的の遂行のために、後はそれを実行するだけでよいモデルやプランに基づいて、行動や運動を組み合わせ、あるいはそれらを導くことを目的とする。「我々はアルチザンとして生まれる」(I, 532/44)というベルクソンの言葉はこの意味に解すべきである。この事実を忘れて、大文字の〈生命〉の「目的」ないし「目標」について語ることは、機械的因果性や人間学的合目的性の用語で、生命進化の予見不可能な過程を考察することに陥りがちであり、それらは結局のところ、「人間の労働が繰り広げるスペクタクルに誘われて人間精神がゆきついた見かた」(I, 571/90)に他ならない。「知的な労働者」(I, 546/61)、「ある観念の実現ないしあるモデルの模倣を目指して部分を取り集めながら仕事を進める労働者」の仕事ぶりを元に、自然の成り行きを解釈しようとする点で、擬人的(anthropomorphique)と言える目的論者たちは、実際、生命は知性のように、Homo faberのように事を進めると想定しているのだ。したがって、製作(fabrication)と有機組織化(organisation)の境界線を、語のカント的な意味で「批判」、つまり境界画定せねばならない。合目的性のベルクソン的な批判は、生命に内在的な合目的性の観念の全般的な拒絶を意味するのではなく、その修正を意味する。ただ「内的合目的性」(古典的な目的論)を峻拒しているのであって、「外的合目的性」(修正された目的論)を確立することを目指しているのである(この点については、先に§60において確認しておいた)。違いは、「この機械の物質性はもはや用いられた手段の総体ではなく、避けられた障害の総体をを表象している。それは積極的な実在であるというよりむしろ否定作用である」(575/94)という事実に存している。ベルクソンが「手」を用いるとすれば、それはまさに創造神的な説明不可能の力を想定することによって、機械論も目的論も、つまるところ「無からの創造」(creatio ex nihilo)を信じているという事実を暴露するためなのである。では今、目に見えない手と腕が、鉄のやすり屑を通り抜けると仮定しよう、とベルクソンは言う。そう、このような文脈において、〈努力する手〉(la main s’efforçant)のモチーフが登場するのである。

私の手が(……)鉄のやすり屑を突き抜けなければならない場合を想像しよう。鉄屑は私の進みに応じて圧縮されて抵抗を増すであろう。ある瞬間に手は努力が尽き果て、そしてまさにその瞬間に、やすり屑の粒はある決まった形に、行き止まった手と腕の一部そのままの形に集まり並び合っていることであろう。(I, 575/95)

機械論者たちは、各粒子の位置を、その付近にある粒子たちがそれに及ぼす作用によって説明しようとする。目的論者たちは、ある全体的なプランがそういった個々の作用の細かい点まで司っていたと考える。だが、こういった目的論/機械論のアポリアを乗り越え、別の第三の道を見つけるためには、「ある独特な説明の仕方」(577/97)を見つけねばならない。それは、鉄のやすり屑そのものに内在する神秘的な力によって説明しようとする古典的な生気論=目的論でもなければ、各粒子の外在的な力の相互作用によって説明しようとするハードな機械論=因果論でもなく、それらの粒子と見えない〈手〉との摩擦、あるいはむしろ、〈手〉とやすり屑の唯一にして不可分の運動によって説明しようとする修正された目的論の立場である。まったく同様の例が、『二源泉』にも見出される。

それはちょうど、鉄のやすり屑の中へ突っ込まれた、目に見えぬ手に似ている。その手の動作は単純なのに、外から見えるものだけに注目していれば、それは平衡を建て直そうとしてやすり屑が相互に及ぼし合っている作用・反作用の尽きることのない系列と見えてこよう。生の実際の働きと、それを分析する感官や知性に対して示される相貌の間にある対照が以上のようなものだとすれば、物質の抵抗を認めぬ魂が、是非はともかく、自分は生の原理そのものと一つだと感じたとしても、驚くべきことがあろうか。(DS, I, 1020/52)

この合目的性批判と、ベルクソンにおける「抵抗」の論理と呼びうるもの――例えば、『二源泉』に見られる「抵抗への抵抗」(DS 991-994/14-18)など――との関係を考慮に入れるよう、いずれ努めねばならないだろうが、ここでは最低限のこと、つまり物質の機械論的な相互作用でも、神秘的な生気論的=目的論的原理でもなく、物質と生命の間の摩擦ないし抵抗に着目すべきであるという点を確認するにとどめておこう。実際、実効的な創造性は、それら二項(生命/物質)のいずれかに見出されるのではなく、それらの関係性そのもののうちに、純粋に否定的でほとんど弁証法的な形で見出されるのである。というのも、「〔生命の〕はずみは有限であり、しかも一度で全部与えられたきりであった。それはあらゆる障害を乗り越えることはできない。生命のはずみの刻み付ける運動はあるときは逸れ、あるときは分裂し、常に反抗を受けている。そして有機的世界の進化とは、この戦いの展開に他ならない」(EC III, 710/254-255)。生命と物質はこのように、根底的に否定的な形で互いの上に力を行使する。だが、よく理解しよう。緊張(tension)としての生命は、拡張(extension)ないし弛緩(détente)としての物質は、もはや伝統的な仕方で対立しているのではない。仮に否定性ないし弁証性があるとしても、問題となるのは或る新たなタイプの否定性ないし弁証性なのであって、それは、完全な肯定によって消滅するのではないとしても、とにかく全面的に変形させられた後にしか見出されず、理解されえないものである。必然性そのものである物質とともに、自由の道具をいかに創造するのか? 機械論に勝利する機械的なものをいかに創り出すのか? こういった問いは、「人間において、ただ人間においてのみ」(III, 719/264)現れるものであって、人間の意識は、所産的な自然の鎖を引きちぎることで、自らを解放する。さらにいっそう正確に言えば、これらの問いは、自然の光としての理性が知性に限定されるのとは異なる“光”を投げかける直観によってしか理解されえない。

それにもかかわらず直観は、ぼんやりとして、ことに非連続ながら、立派にある。それは消えなんとする燈火であり、間遠に、それもほんの数瞬間、明るさを取り戻すにすぎない。しかし要するに、命がけの関心(intérêt vital)のはたらいているところでは、直観は勢いを盛り返す。私たちの人格、私たちの自由、私たちが全自然界で占める位置、私たちの起源、そしてまたおそらく私たちの運命など、それらものの上に直観はかすかなゆらめく光を投げかける。そんな光にでも、知性によって置き去りにされた私たちの夜の闇を貫き通す力はある。そのように消え去りがちな、ほんの間遠に対象を照らし出す直観を、哲学はその都度奪い取らなければならない。それらの直観をまず確保し、それから膨張させて、直観同士で触れ合うようにしなければならない。(III, 722/268)

生命/物質の関係はこうして、まったく新たなパースペクティヴの下に捉えられることになる。まさにそれゆえに、私たちは、ベルクソン的生気論を「(非)生気論的」と呼ぶように提案したのである。そしてまさにこの方向に、ジャンケレヴィッチの誠に正当な指摘を理解しなければならない。「無秩序と無の観念の批判は、ベルクソン哲学の鍵である」。続いて、この二番目の手の第二例に移ることにしよう。
 
 

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[第26回初出:2015年7月7日]
【編集部より】本連載の第29回までは、2013年4月15日から2015年12月28日にわたり、勁草書房サイトに掲載されていたものを移行いたしました。未読の方は、ぜひ第1回からお読みください。第30回からは編集部サイトでの掲載が初出になります。*注は省略してあります。

藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。