――笛がね、聞こえたんだ。
呼び鈴がなって、ドアをあけると、頬のあたりがすこし日焼けしたサイェは、何も言わずにわたしをみつめていた。そして大きな目をゆっくりと閉じ、またゆっくりと開くと、挨拶がわりのように、言うのだった。
すこしまとまった休みがとれそう。
紗枝が連絡してきたのは、まだ冬物のコートが不可欠で、春の予兆がわりに難儀するアレルギーの症状もおもいださない頃、だった。
そう、とうつろに返事するのを聞いていたのかいないのか、サイェもつれていくから、と、久々の旅行よね、と妹は電話口でつけ加えた。
日々の雑事に追われ、気がついたらめいのサイェがうちに寄らない日が3日、4日、9日、10日とつづいていた。学校は春休みになっていた。
ちょっと寝そびれてしまって。
寝遅れた、っていうの、あるかな。
一度はベッドにはいったんだけど、かあさんはすぐ寝息をたてて。わたし、だから、また、ソファにもどって、た。大きなソファでひざ、かかえて。
寝息、こっちもあわせようとするんだけど、ちょっとずつずれてくる。耳についちゃうと、どっちにもあわせられなくて、目がさえてしまう。いつも、ね。
でも、あのときは、停電があった。そのせいかもしれない。
もう、寝ようか、ってころ。
部屋が、しん、とした。
部屋も、それから、窓は閉めてあったんだけど、ガラスをとおしても、あらためてあけてみても、外もまっくらで。
すこしすると、さわさわ、こしこし、しゅくしゅく、って小声が、ね。
ところどころ、むこう、あっち、それからこっち、って。
窓のところに立って、小声のうつりをね、みてた、ううん、聞いていた。
こんこん、ってかるくノックがあって、ホテルのひとがロウソクを持ってきたよ。いいにおいがするんだ。キンモクセイ、みたいな。ほら、おばあちゃんちの庭にはいると、秋、よくにおってた。
それにね、ロウの色が、ほのおでちょっとうかびあがってて。
ミツバチの巣や大豆でできてるんだってね、ロウソク。
そうだ、サイェは、ヨーロッパからほんの数日、チュニスにまわってきたのだ。
チュニスのある国、チュニジア。
美の、豊穣の女神タニト、トゥネス、そしてチュニスへ。
でも、こんなのはあとづけの知識。
北アフリカに行ったことはないから、ぼんやりと浮かぶのは、絵はがきのように額縁のある、ありきたりなイメージばかり。
真っ青な地中海。白っぽく、角張った建物。高いところに葉を茂らせているナツメヤシの木々。
ちょっと前、政変がおきていた。あのせいで、予定していた旅行をキャンセルしたっけ。およそ政変と似つかわしくない、と偏見のようにおもっていた……きれいな……ひびき。女性の名にもなっている……。
ロウソクがつけっぱなしになっていた。
椅子にもどって、揺らめいているのをみていたら、聞こえてきた。
はじめは、かすかに聞こえるだけ、だった。
大きくなるわけじゃない。
聞こえたり、聞こえなかったり、遠かったり、近かったり。
部分、だったり、一瞬、ひとつの音だけ、だったり、二つや三つ、だったり。
そんなとき、おもったよ。
音も、生きものだな、って。
おもったらね、はっきりと、してきた。
ちかい、の。
とっても、ちかい。
ただ、居心地がわるい。
ちょっと、だけ、ちょっとだけ。
とらえがたい、の。
知ってる音楽、じゃなくて、
音楽なんだってわかるけど、うまく、はいってこない。
空港に着いてから、ときどき耳にするような、調子、ではあったけど。
調子っぱずれみたいな、ね。
リズムなんか、ないし、
耳を、肌を、かすってる、って。
うねうねと音の線がつづいてゆく。
そんな、おなじようなのに、だんだん、だんだん、と、慣れてくる。
音の線、が、メロディ、に聞こえてくる。
音楽に、わたしには音楽に、なってくる、なってきた。いつのまにか、なってた。わたし、のなか、なって、た。
なんか、なんか、ね、
みているロウソクが、揺れているでしょう。
その揺れ、が、笛とあっているようなの。
炎が音を聞いている、音といっしょに、うごいている、みたいな。
でも、そうじゃない、そうじゃなくて、
息してたの、わたし……わたしの息、いつのまにか、笛にあっていた、あっていた、みたい。
もう、すぐ耳元、っておもってた。
笛が、すぐ、耳元。
みえないけれど、かたちもわからないのに、笛にそえている指、
指が、孔をおさえて、はなれて、って
息、吹きこんで、
みえないけれど、ひとの顔、
顔の、下のほう、みえるようで。
くちびるがほそくあいて、息が、ほそく、でもつよく、もれて、
タテに、管に、タテに、はいって、
なか、なかを、管、を、管のなか、とおってゆく、ながれてゆく。
つたってゆく。
芯が、ぐっと近くにみえてきたの。
炎のなか、一カ所、ときにしばらく二カ所、ぽ、っと、べつにあかるくなっているところがある。炎のなかに、べつの炎がある。ちいさく輝いてる。
そして、灯しているメッシュの、こよりになっている一本一本までみえるような。
笛はね、吹けないし、持ってないけど、
いつのまにか、ひとりで、やってみた、やっていた、
ちょっと遅れるけど、
メロディが、ほんの一瞬切れる、
その途切れを、追ってみる。
息をつく。
その一瞬の切れ、を、あいだ、を感じてる。
つぎは、どこ、
どこ、に
なににゆくかが、
終わるのか、終わるか、終わらないか、が、わかる、わかってる。
わかってるのは、ね、
たぬきばやし、
あれ、聞こえてるだけじゃ、ないな。
こっちがあわせてる、息あわせて、はいっていくから、って。
さそわれる、さらわれる、まよう、とまどう、まどう、まど……
ロウソクが聞いていた?
ううん、わたしが聞いていた。
わたしの息が、ロウソクを揺らしてる。
たぬきばやしに、なっちゃうかな、
どっか、いっちゃうかな、
いけちゃうのかな。
気づいたら、ロウソクが終わるとこだった。
あっけないんだよね、芯の黒さがめだって、さ、
光が一カ所だけのこって、のこってる、
とおもうと、煙がゆるゆるとのぼって、もう、なくなって。
笛も、遠くなっていたっけ。
おじさん、まえに、言ってたよね、
ロウソクと砂時計。
時をはかるにしても、おなじようにはかるにしても、違うんだよ、って。
行き来する砂時計、失くなるロウソクは、って。
受け売りだけど、って笑ってた。
そんなこともあったろうか。きっと、二年ほど前、おなじ頃だった。北のほうで、ロウソクをつかって過ごしている人たちがたくさんいたとき、か。大して前じゃないのに、もう、忘れかけている。
サイェが、あ、忘れてた、と紙袋をさしだしてくる。
ジャスミンの、お茶。
おかあさんが、ね。
そうか、そうだった、サイェが、紗枝が行ってきたところを代表するのは、この花、だった。やっと、やっと、おもいだしていた。ジャスミン……ジャスマン……ヤス=ミーン……。
チュニス、チュニジアの、はな、名。
[編集部より]
東日本大震災をきっかけに編まれた詩と短編のアンソロジー『ろうそくの炎がささやく言葉』。言葉はそれ自体としては無力ですが、慰めにも、勇気の根源にもなります。物語と詩は、その意味で人間が生きることにとって、もっとも実用的なものだと思います。不安な夜に小さな炎をかこみ、互いに身を寄せあって声低く語られる物語に心をゆだねるとき、やがて必ずやってくるはずの朝への新たな頼と希望もすでに始まっているはず、こうした想いに共感した作家、詩人、翻訳者の方々が短編を寄せてくださいました。その一人である小沼純一さんが書いてくださったのが、「めいのレッスン」です。サイェちゃんの豊かな音の世界を感じられる小さなお話、本の刊行を記念した朗読会に小沼さんが参加されるたびに続編が生まれていきました。ここではその続編にくわえ、書き下ろしもご紹介していきます。
【バックナンバー】
〉めいのレッスン ~あかりみつめて
〉めいのレッスン ~気にかかるゴーシュ
〉めいのレッスン ~クリスマス・ツリー
〉めいのレッスン ~秋の庭
〉めいのレッスン ~手紙
これまでの連載一覧はこちら 》》》
「東日本大震災」復興支援チャリティ書籍。ろうそくの炎で朗読して楽しめる詩と短編のアンソロジー。東北にささげる言葉の花束。
[執筆者]谷川俊太郎、堀江敏幸、古川日出男、明川哲也、柴田元幸、山崎佳代子、林巧、文月悠光、関口涼子、旦敬介、エイミー・ベンダー、J-P.トゥーサンほか全31名
書誌情報 → http://www.keisoshobo.co.jp/book/b92615.html