ジャーナリズムの道徳的ジレンマ
 〈CASE 01〉 最高の写真? 最低の撮影者?

About the Author: 畑仲哲雄

はたなか・てつお  龍谷大学教授。博士(社会情報学)。専門はジャーナリズム。大阪市生まれ。関西大学法学部を卒業後、毎日新聞社会部、日経トレンディ、共同通信経済部などの記者を経て、東京大学大学院学際情報学府で博士号取得。修士論文を改稿した『新聞再生:コミュニティからの挑戦』(平凡社、2008)では、主流ジャーナリズムから異端とされた神奈川・滋賀・鹿児島の実践例を考察。博士論文を書籍化した『地域ジャーナリズム:コミュニティとメディアを結びなおす』(勁草書房、2014)でも、長らく無視されてきた地域紙とNPOの協働を政治哲学を援用し、地域に求められるジャーナリズムの営みであると評価した。同書は第5回内川芳美記念マス・コミュニケーション学会賞受賞。小林正弥・菊池理夫編著『コミュニタリアニズムのフロンティア』(勁草書房、2012)などにも執筆参加している。このほか、著作権フリー小説『スレイヴ――パソコン音痴のカメイ課長が電脳作家になる物語』(ポット出版、1998)がある。
Published On: 2016/4/12By

 
さまざまな情報にふれ、わたしたちは日々ものごとを考え、自分の行動を決めています。多くの人が無意識のうちに接する情報を送り出すメディア。なかでも「報道」の現場が発する情報は、喫緊の難題を受け手につきつけます。同時に、その報道を担う人びとも結論を一刀両断には出せない場面で、瞬間的な判断を迫られています。いわば「引き裂かれる」現場の難問を、『地域ジャーナリズム』の著者・畑仲哲雄さんが、実際にあった事例をもとに考察します。月1~2回更新予定です。記者からジャーナリズム研究の道へと進んだ畑仲さんの問いかけを、みなさんぜひ一緒に考えてみてください。[編集部]
 
 
 新聞やテレビ、雑誌で報道の仕事をする人たちは、「ジャーナリスト」と呼ばれています。ひとくちにジャーナリストといっても、仕事はさまざまです。事件や事故の現場でマイクを手にレポートする人、企業経営者にインタビューする人、戦場で写真を撮る人……。やっていることは違いますが、社会のできごとを広く知らせる仕事をしている人を、広い意味でジャーナリストといっても差し支えないでしょう。
 そんなジャーナリストの活動や考え方の全体をあらわすのが「ジャーナリズム」という言葉です。ここでは厳密な定義はしません。学問世界のことをアカデミズムと言ったり、男性が支配的な社会のあり方を問う思想や運動をフェミニズムと言ったりするのと同じように、大ざっぱに考えてくださってもかまいません。
 ジャーナリストは、犯罪捜査官や医療者と同じように、ふつうの人があまり経験しない難しい局面に立たされることがある職業です。さまざまな難局を乗り切るため、ジャーナリズムの世界では基本原則や倫理規定が作られてきました。でも、ルールブックは万能ではありません。ジャーナリズムの世界では評価される行動が、読者・視聴者から「道徳心のかけらもない」と非難されることは過去にいくつもありました。
 この連載では、ジャーナリストが直面するかずかずの問題を、道徳的なジレンマという観点から考えていきます。毎回、[思考実験]→[異論・対論]→[まとめと解説]という順番で書き進め、思考実験の元ネタともいえる[実際の事件]を紹介します。とりあえず[思考実験]で道徳的なジレンマに直面してみてください。頭で考えるのではなく、まずは心でどう感じるか。主人公になったつもりで、じぶんなりの答えをだしてみてください。
 

〈CASE01〉 最高の写真? 最低の撮影者?

ジレンマにおちいる――。相反する2つの選択肢を前にして思わず立ちすくむとき、わたしたちはこんな表現を用いる。以下に示す[思考実験]の主人公は、深刻なジレンマにおちいった。あなたならどうするだろう。
 

1:: 思考実験

みすぼらしい格好をした老若男女が、難民キャンプを目指してぞろぞろ歩いていた。その地域では、行き倒れた人はそのまま放置されている。道ばたに転がる死体など、ここではありふれた光景だ。ハエがたかり、腐臭がただよう。子どもたちに笑顔はない。みな栄養失調で、まばたきを忘れたような眼をしている。
 フリージャーナリストのわたしは、2日前、先進国の報道写真家として初めてこの紛争地に潜入した。干ばつと長引く内戦。そして飢餓。「この世の地獄」をカメラに収め、その作品が世界の一流メディアで紹介されれば、わたしは「無名の写真家」から抜け出せるだろう。なんとしてもここで踏ん張って、いい写真を撮りたいと思う。
 難民の群れから少し離れたところに、はだかの子どもがうずくまり、その向こうに大きなハゲワシがいた。死肉を主食とするハゲワシほど不吉な鳥はいない。黒い肌の子どもは前のめりに倒れ、まるで神に祈る苦行者のような格好をしている。135ミリのレンズに映った2つの被写体は、この国の人びとを象徴していた。反射的に1回シャッターを押した。その瞬間、わたしの心は2つに引き裂かれた。

    [A]このまま待て。ハゲワシが翼を広げたり、クチバシを開いたりしてくれるのを、待て。より悲劇的な構図になるはずだ。できれば子どもはうずくまったまま動かないでくれ。
    [B]バカを言っているんじゃない。すぐにハゲワシを追い払って、子どもを助けるべきだ。人としての心がわたしに残っているなら、難民キャンプに送り届けてやるんだ。

 わたしはその場にしゃがみ込んだ。額の汗が眼に入り、視界がにじむ。カメラを持つ手が汗でぬめり、心臓が高鳴る。わたしは自分自身に命じた。「5秒以内に決断を下せ!」

2:: 異論対論

抜き差しならないジレンマの構造をあぶり出し、問題をより深く考えるために、対立する考え方を正面からぶつけあってみたい。
 

[報道優先の立場] ジャーナリストが負っている責任は、社会にとって重要なニュースを広く届けることだ。カメラを放り出して人命救助をはじめれば、目の前の子どもは救えるかもしれない。命を救う行為は尊い。しかし、目の前の子どもと同じ状況にある人は百万人単位でいる。1枚の写真が国際世論を動かし、各国から救援の環を広げることは、ジャーナリストにしかできない。そのためには、できるだけ人びとに衝撃を与える作品を撮らなければならない。
 ↓ ↓ ↓
つづきは、単行本『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』でごらんください。

 
取材先でセクハラに遭ったら?
被害者が匿名報道を望んだら?
取材で“ギャラ”を求められたら?
被災地に記者が殺到してきたら?
原発事故で記者は逃げていい?
 etc.
 
正解はひとつではない。でも、今、どうする?
現場経験も豊富な著者が20のケースを取り上げ、報道倫理を実例にもとづいて具体的に考える、新しいケースブック! 避難訓練していなければ緊急時に避難できない。思考訓練していなければ、一瞬の判断を求められる取材現場で向きあうジレンマで思考停止してしまう。連載未収録のケースも追加し、2018年8月末刊行。


【ネット書店で見る】

 
 

畑仲哲雄 著 『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』
A5判並製・256頁 本体価格2300円(税込2484円)
ISBN:978-4-326-60307-7 →[書誌情報]
【内容紹介】 ニュース報道やメディアに対する批判や不満は高まる一方。だが、議論の交通整理は十分ではない。「同僚が取材先でセクハラ被害に遭ったら」「被災地に殺到する取材陣を追い返すべきか」「被害者が匿名報道を望むとき」「取材謝礼を要求されたら」など、現実の取材現場で関係者を悩ませた難問を具体的なケースに沿って丁寧に検討する。
 
【ページ見本】 クリックすると拡大します。

【本書のトリセツ】
ステップ1、実際の事例をもとにした[思考実験]を読んで「自分ならどう?」と問いかける。
ステップ2、次のページを開いて[異論対論]で論点ごとに考える。対立する意見も深めてみると……?
ステップ3、事実は小説より奇なり。[実際の事例と考察]で過去の事例を振り返りつつ、支えとなる理論を探そう。
 
【目次】
ねらいと使い方 ジャーナリズム倫理を絶えず問いなおす
第1章 人命と報道
 CASE:001 最高の写真か、最低の撮影者か
 CASE:002 人質解放のために警察に協力すべきか
 CASE:003 原発事故が起きたら記者を退避させるべきか
 CASE:004 家族が戦場ジャーナリストになると言い出したら
第2章 報道による被害
 CASE:005 被災地に殺到する取材陣を追い返すべきか
 CASE:006 被害者が匿名報道を望むとき
 CASE:007 加害者家族を「世間」から守れるか
 CASE:008 企業倒産をどのタイミングで書く
第3章 取材相手との約束
 CASE:009 オフレコ取材で重大な事実が発覚したら
 CASE:010 記事の事前チェックを求められたら
 CASE:011 記者会見が有料化されたら
 CASE:012 取材謝礼を要求されたら
第4章 ルールブックの限界と課題
 CASE:013 ジャーナリストに社会運動ができるか
 CASE:014 NPOに紙面作りを任せてもいいか
 CASE:015 ネットの記事を削除してほしいと言われたら
 CASE:016 正社員の記者やディレクターに表現の自由はあるか
第5章 取材者の立場と属性
 CASE:017 同僚記者が取材先でセクハラ被害に遭ったら
 CASE:018 犯人が正当な主張を繰り広げたら
 CASE:019 宗主国の記者は植民地で取材できるか
 CASE:020 AIの指示に従って取材する是非
あとがき ジャーナリストの理想へ向けて
 
■思考の道具箱■
傍観報道/番犬ジャーナリズム/共通善/危険地取材/臨時災害放送局/CPJ/自己責任/メディアスクラム/合理的な愚か者/サツ回り/犯罪被害者支援/熟議/被疑者と容疑者/世間/特ダネ/倒産法/コンプライアンス/知る権利/取材源の秘匿/2種類の記者クラブ/地位付与の機能/ゲラ/報道の定義とは?/小切手ジャーナリズム/記者会見/「ギャラ」/キャンペーン報道/アドボカシー/黄金律/NPO(非営利組織)/地域紙と地方紙/アクセス権と自己情報コントロール権/良心条項/記者座談会/ゲリラとテロリズム/ポストコロニアリズム/倫理規定/ロボット倫理/発生もの
 
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About the Author: 畑仲哲雄

はたなか・てつお  龍谷大学教授。博士(社会情報学)。専門はジャーナリズム。大阪市生まれ。関西大学法学部を卒業後、毎日新聞社会部、日経トレンディ、共同通信経済部などの記者を経て、東京大学大学院学際情報学府で博士号取得。修士論文を改稿した『新聞再生:コミュニティからの挑戦』(平凡社、2008)では、主流ジャーナリズムから異端とされた神奈川・滋賀・鹿児島の実践例を考察。博士論文を書籍化した『地域ジャーナリズム:コミュニティとメディアを結びなおす』(勁草書房、2014)でも、長らく無視されてきた地域紙とNPOの協働を政治哲学を援用し、地域に求められるジャーナリズムの営みであると評価した。同書は第5回内川芳美記念マス・コミュニケーション学会賞受賞。小林正弥・菊池理夫編著『コミュニタリアニズムのフロンティア』(勁草書房、2012)などにも執筆参加している。このほか、著作権フリー小説『スレイヴ――パソコン音痴のカメイ課長が電脳作家になる物語』(ポット出版、1998)がある。
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