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ウェブ連載版『最新判例にみるインターネット上の名誉毀損の理論と実務』 連載・読み物

ウェブ連載版『最新判例にみるインターネット上の名誉毀損の理論と実務』第19回

7月 07日, 2016 松尾剛行

 

2.表現の自由とアーキテクチャ

松尾

:さて、成原さんのご著書である、『表現の自由とアーキテクチャ』の主たるテーマは、このようなアーキテクチャと表現の自由の関係であると理解しています。未読の方のために、要するにこの2つの間にどのような関係があるのか、簡潔にまとめていただけますか。

成原

:表現の自由とアーキテクチャの関係には二面性があります。

松尾

:二面性とはどういうことでしょうか?

成原

:アーキテクチャは表現の自由を規制する側面とともに、表現の自由を保護・促進する側面をもっています。たとえば、有害情報のフィルタリングや迷惑メールのブロッキングは、表現の自由を規制する側面がある。他方で、暗号技術を用いて匿名表現の自由を保護・促進することも可能です。また、先ほどお話したこととも一部重なりますが、より広い視点でみれば、検索エンジンやソーシャルメディアなど情報流通を支えるアーキテクチャの設計によって、インターネット上の我々の表現の自由が支えられ、促進されている側面もあります。このあたりの問題意識は、松尾さんが『最新判例にみるインターネット上の名誉毀損の理論と実務』の中で論じられているインターネットの「インフラ化」とも通じるかと思います。そして、重要なのが、アーキテクチャが表現の自由を保護・促進する側面と規制する側面とは、しばしば表裏一体の関係にあるという点です。すなわち、検索エンジンやソーシャルメディアなど、インフラたるアーキテクチャによりインターネット上の表現の自由が支えられているという事実は、反面でそれらインフラたるアーキテクチャを通じて表現の自由が規制されるリスクがあることも含意しているのです。

松尾

:なるほど、アーキテクチャが表現の自由を可能とし、これを支えるという重要な意味をもつとともに、アーキテクチャによって表現の自由が規制され、制限されうるということですね。

ここで、読者の便宜のため、成原さんが『表現の自由とアーキテクチャ』で用られていた重要概念である「翻訳」という概念について簡単に説明していただけますか。

成原

:「翻訳」は、一般的にはある言語で書かれたテクストを別の言語で書かれたテクストに置きかえる営みとして理解されていますが、レッシグは、翻訳という方法論を、憲法解釈の世界に導入し、ある時代(典型的には憲法の制定時)に書かれた憲法のテクストの意味を文脈の変化を踏まえて読み換えることにより、憲法の元来の価値・意味を維持する方法として位置づけました。レッシグが、このような翻訳という方法論を導入した背景としては、憲法制定時に理解(意図)されていた憲法の意味に即して憲法解釈を行うべきだとする原意主義(originalism)を、より時代の文脈の変化に対応した柔軟な解釈方法論として再構成しようとする問題意識を見出すことができます。ちなみに、原意主義は、若き日のレッシグがロークラークとして仕え、先日お亡くなりになった連邦最高裁のスカリア判事をはじめ、近年の米国において保守派の裁判官を中心に支持を集め、有力な解釈方法論になっています。

松尾

:日本の憲法も制定後約70年経過しています。たとえば、表現の自由についてみれば、起草者はインターネットを想定していなかったでしょう。その中でどのように表現の自由を解釈するか等では、この「翻訳」という考え方は参考になる可能性があります。

成原

:そうですね、ただアメリカでも、原意主義には、憲法の原意はどのように確定されるのかという疑問や、なぜ、そもそも原意に従わなければならないのかといった根本的な批判があり、まして日本で原意の翻訳という方法論をそのまま採用できるわけではないと思います。そうではあるのですが、時代の進展による社会的・経済的・技術的文脈の変化に即して、過去のテクストを読み替える翻訳という方法論は、伝統的な表現の自由の法理を文脈の変化に即して再構成するうえでも手がかりを与えており、たとえば、後ほどお話するように事前抑制の法理やパブリック・フォーラムの法理の現代的な再構成のあり方を考えるうえでもヒントを与えてくれる可能性があるかと思われます。

松尾

:なるほど、憲法解釈手法として示唆的だと思います。

それでは、成原さんが、アーキテクチャと表現の自由の関係を研究された結果導き出された、結論や実務への示唆といったものを何点かご紹介いただけますか?

成原

:実務への示唆というと、私のような駆け出しの研究者にはハードルが高いのですが、その点は松尾さんの「翻訳」に期待させていただくとして(笑)、さしあたり結論めいたことを、簡単に申し上げます。

第一に、アーキテクチャによる規制の浸透は、表現の自由の意味や価値の問い直しを迫っています。伝統的には、表現の自由は国家の法的規制からの自由として理解されてきました。しかし、今日のインターネット上では、検索事業者やプラットフォーム事業者等の私人によりアーキテクチャを用いて表現の自由が事実上制約されることが問題とされるようになっています。

私人によるアーキテクチャを用いた情報流通の制約は、「国家からの自由」として理解されてきた憲法上の表現の自由の侵害とは言いがたいかもしれませんが、情報法の観点からは表現の自由への脅威として、何らかの対応が求められる可能性があるでしょう。理論的な可能性としては、アーキテクチャを設計する媒介者という新たな社会的権力からの自由を確保するために、国家による表現の自由の保護が求められるという選択肢も否定できないでしょう。

しかし、一方で、今日のインターネット上では、国家からの自由という伝統的な表現の自由の再評価を迫る契機もあります。たとえば、EU諸国における「忘れられる権利」に基づく検索結果の削除やスノーデンが暴露したPRISM(アメリカ国家安全保障局の極秘通信監視プログラム)問題が象徴しているように、各国の政府が媒介者を介して規制や監視を行うようになっていることなどに鑑みると、国家がアーキテクチャを設計・管理する媒介者等の私人を通じて表現の自由を規制するリスクは無視できず、「国家からの自由」としての伝統的な表現の自由の意義が再評価されることになるといえるかもしれません。いずれにせよ、表現の自由の根底にある自己統治、個人の自律、思想の自由市場等の価値を問い直しつつ、表現の自由の意味を再考することが迫られているといえるでしょう。

第二に、従来の表現規制とは異なり、アーキテクチャによる規制は、表現の自由を事後処罰のおそれにより萎縮させるのではなく、広範な情報の流通を、人々が気づかないうちに、事前に抑制してしまう性質があり、表現の自由に対して検閲や事前抑制に相当するような強度の制約を及ぼすリスクがあります。図式化していえば、表現規制の狙いが萎縮効果から新たな形の事前抑制へと変容しつつあるといえるでしょう。

松尾さんのご著書でも、名誉毀損の免責が認められるための要件として、表現者に真実性・相当性の立証を求めることが、表現の自由に萎縮効果を招くという批判が紹介されているように(注4)、従来の表現の自由の判例法理・学説では、表現の自由への萎縮効果が着目されることが多かったのですが、今日の社会ではインターネット上を中心にアーキテクチャを用いた事前抑制的規制が拡大していることを踏まえ、事前抑制の法理の再評価が求められているといえるかもしれません。

もちろん、裁判所による差止め等の伝統的な事前抑制とは異なり、現代のインターネット上のアーキテクチャによる規制は、アーキテクチャを設計・管理する媒介者等を通じた間接的・重層的な構造を有しており、こうした規制の構造・性質・効果の変容を踏まえ、伝統的な事前抑制の法理の「翻訳」が求められる可能性があるでしょう。

第三に、インターネット上の表現の自由は表現の場・媒体を構成するアーキテクチャに依存しているため、ネット上の個人の表現の自由とそれを支えるアーキテクチャを設計・管理する媒介者の権利との関係を問うことが求められるようになっています。

このような文脈を踏まえ、ステイト・アクションの法理(注5)やパブリック・フォーラムの法理等の「翻訳」を試みることで、司法による媒介者の規律を試みることに加え、媒介者を規律する立法等により、新たな社会的権力からの自由の実現を模索することが求められる可能性があるでしょう。もっとも、このような「国家による自由」の実現は「国家からの自由」として理解されてきた伝統的な表現の自由観と緊張関係があるだけでなく、媒介者がグローバルな規模でアーキテクチャを設計・管理しており、一国による規律は困難になっているという事実上の限界もあり、各国および国際社会において表現の自由の保障のあり方について、憲法のみならず、条約、立法、ソフトロー等の各種の法規範による保障の可能性を含め、多角的な検討を行うことが求められているということができるかと思います。

松尾

:ありがとうございます。ここでご紹介された、国境を超えるプラットフォーマー、アーキテクチャによる新たな事前抑制的規制、そして超国家的な規制といった観点はとても重要だと思います。

では、このようなアーキテクチャと表現の自由に関する基本的な理解を前提に、少し応用的な話をさせてください。成原さんが『表現の自由とアーキテクチャ』の中で展開された議論は日本においてもあてはまるのでしょうか? たとえば、今プラットフォーマーによる表現の自由侵害について言及されていましたが、いわゆるステイト・アクションの法理が認められているアメリカ憲法と、そうとは言いがたい日本(注6)では、プラットフォーマーやプロバイダと表現の自由の関係は変わってくるように思われます。要するに、インターネット等によって表現の自由の意味とその根底にある価値の再考が迫られているということ自体は同意するのですが、成原さんがご著書の中で議論されている内容は、アーキテクチャによって、「アメリカ連邦憲法修正1条とその根底にある価値がどう再考を迫られ、どのような『翻訳』が必要とされているか」であって、日本憲法21条の表現の自由については、成原さんの議論は必ずしもあてはまらないのではないか、ということです。

成原

:鋭いご指摘をいただきありがとうございます。非常に重要なご批判だと思います。私も本書の議論が日本の判例・実務に、そのまま使えるものだとは考えておらず、日米の文脈の相違を踏まえた「翻訳」が求められると思っております。それは、今後の私の課題でもあるのですが、松尾さんのような優秀な実務家にお力添えを賜ることができればありがたいです(笑)。

そのうえで、若干の弁明をしておくと、ご存知のように、戦後日本の憲法学の人権論、とりわけ表現の自由論は、米国の判例・学説からこれまで多大な影響を受けており、判例についても、萎縮効果論、事前抑制の法理、パブリック・フォーラムの法理など米国の判例・学説やそれを受けた日本の学説を少なからず参照・意識しつつ形成されてきた側面があるのは否定できないかと思います。そうであるとすれば、米国の伝統的な判例法理の現代のインターネット上の文脈に即した翻訳の可能性を示すことは、従来の日本の判例法理の現代的翻訳のあり方を検討するうえでも、一定の示唆を与えることができるのではないかと考えております。ちなみに、今日では、米国の判例でも、ステイト・アクションの法理が適用される範囲は非常に限定的なものとなっていますね。

松尾

:なるほど、その意味では、成原さんの研究は日本法の解釈においても重要な示唆を含むといってよいのですね。

次に、特に成原さんが結論の3点目として言及されていたグローバルな対応の必要性というところなのですが、著書でも「グローバルな立憲主義」というところに言及されていたと思います(注7)。このグローバルな立憲主義とは一体何なのかがよくわからなかったので、もう少し説明いただけますでしょうか。

成原

:いろいろと議論がある論争的な概念ですので、本来はこの場で簡単に説明することは難しいのですが、非常に単純化した形でお答えしますと、従来、主権国家の枠内で権力の抑制・均衡と人権保障を図ってきた立憲主義の概念を、国境を越えたグローバルな文脈に移植する試みる概念のことで、特にインターネット上の表現の自由のように国境を越えた人権保障のあり方が問われる場面では、背景にある原理として、参照に値すると思われます。拙著の第1章で指摘したように、レッシグは、米国憲法における立憲主義と民主主義の連関構造を敷衍して、グローバルな規模の憲法政治によりサイバースペースの立憲主義を構築していく可能性を示唆しているのですが、このような見解の是非はおくとしても、インターネット上の文脈を中心に、表現の自由等の人権に関するグローバルな規範形成が求められるようになっていることは否定しがたいでしょう。

松尾

:ここで、グローバルな立憲主義・憲法政治というのは、アメリカの修正1条を前提とした表現の自由観等、アメリカの憲法的価値を世界で一律に導入するという意味なのでしょうか、そうではないのでしょうか。

成原

:拙著では特定の国の憲法的価値を世界にそのまま輸出することを念頭に用いているわけではないのですが、松尾さんの具体的な問題意識を教えていただけますでしょうか。

松尾

:たとえば、成原さんが著書の第8章で検討された、忘れられる権利なのですが、これって、EUとアメリカでかなり位置づけが違いますよね?

成原

:そのとおりですね。欧州で論じられている「忘れられる権利」は、欧州司法裁判所が従前のデータ保護指令の解釈に基づき認めた権利、あるいは、新たに制定されたデータ保護規則に明示的に導入された権利(消去権)を意味して用いられているのに対して、米国や日本で論じられている「忘れられる権利」は、法的な位置づけが少なからず異なりますね。米国の法学では、憲法論ないし立法論として「忘れられる権利」を導入することの合憲性や政策的妥当性が論じられることが多い印象です。また、日本では、人格権に基づく検索結果の削除等が争われる場面で、弁護士、研究者、メディア等により「忘れられる権利」の概念が援用されることが多いものの、必ずしも実定法上の権利として厳密に用いられているわけではないように思います。

松尾

:そうすると、ある情報が、EU的にはプライバシー権が優越するから削除すべき、でも、アメリカ的には表現の自由が優越するから削除すべきではない、という状況が生じ得るのでしょうが、成原さんの視点からはどう考えるべきなのでしょうか。たとえば検索エンジン側がEU加盟国のドメインだけで削除したいというのに対しEUは.comドメインでも削除させたいというような対立とも関係しているように思われます。.comドメインでも削除しなければならず、それに応じないと罰金等を払わせられるとすると、やむなく.comでも削除するということになるのでしょうが、それでいいのか、気になります。

成原

:ご指摘の点は、国家間の法の抵触が問題となっており、まさにグローバルな人権保障のあり方が問われている場面かと思われます。もっとも、私の理解では、EUないし加盟国が検索事業者に対して求めているのは、EU域内からアクセスされた場合における.comドメインからの検索結果の削除であり、米国等の他国からアクセスされた場合にまで.comドメインからの削除を求めているわけではないように思われます。そういう意味では国家間の法の抵触を回避して棲み分けることは可能なのかもしれませんが、技術的には、利用者のアクセス元の国に従って情報の削除基準を使い分けるのは難しいかもしれませんし、仮に技術的にそのような国ごとのアクセス制御が実装されれば、インターネットの分断化に帰結してしまうかもしれません。

松尾

:なるほど、そうすると、適切に技術ないしはアーキテクチャを活用することで、各国における表現の自由の価値の相対的重要性等の価値観の相違を尊重しながら対応することはできるものの、そのやり方によってはインターネットの分断が生じてしまい、インターネットの価値が低下してしまう可能性を孕んでいる、ということでしょうか。

成原

:基本的におっしゃるとおりかと思います。拙著で米国の情報法や憲法学における表現の自由論を主題的に検討しているのは、何も米国の表現の自由論を普遍的な理論としてグローバルな文脈にそのまま適用しようというのが狙いではなくて、たとえば、近年の情報法学では個人情報保護法制などの領域を中心にEUによる規範形成が注目され、実際にも日本をはじめ各国に強い影響を与えるようになっていることも意識しつつ、プライバシー・個人情報保護等の対抗利益でもある表現の自由の本籍地(の一つ)である米国の議論を参照することなどにより、情報社会における表現の自由の意味と価値を改めて問い直し、グローバルな規範形成における価値選択に資する一つのモデルを提供しようとする問題意識に基づくものです。

松尾

:そうすると、「本籍地」であるアメリカの表現の自由論を理解することは、アメリカの憲法的価値を世界で一律に導入するような発想を採らなくてもやはり重要だということになるのですね。

 

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松尾剛行

About The Author

まつお・たかゆき 弁護士(第一東京弁護士会、60期)、ニューヨーク州弁護士、情報セキュリティスペシャリスト。平成18年、東京大学法学部卒業。平成19年、司法研修所修了、桃尾・松尾・難波法律事務所入所(今に至る)。平成25年、ハーバードロースクール卒業(LL.M.)。主な著書に、『最新判例にみるインターネット上の名誉毀損の理論と実務』(平成28年)、『金融機関における個人情報保護の実務』(共編著)(平成28年)、『クラウド情報管理の法律実務』(平成28年)、企業情報管理実務研究会編『Q&A企業の情報管理の実務』(共著)(平成20年)ほか。