1.「ライシテ」という言葉の社会的な使用法の変化
最初の課題に取り組もう。人は何をもってライシテと呼ぶのだろうか。19世紀末のフランスでライシテが確立されたとき、ライックな公立校を創設する企てにおいて第一線で活躍した哲学者フェルディナン・ビュイッソンは、ライシテを「すべての宗派に対して中立的で、すべての聖職者から独立し、いかなる神学的な概念にも依拠しない国家」と定義した。その目的は、信仰の区別なく「すべてのフランス人の法の前の平等」を保障すること、「すべての宗派の自由」を確固たるものにすることであった。
この原則は 1905年法に取り入れられ、現在でもフランスのライシテをめぐる判例の中核にある。しかしながら、ライシテという言葉の支配的な用いられ方は時代によって異なる。そして、社会的な使用法は、「アクチュアリティ」をなす問題に、とりわけ脅威の感覚に結びついて、より防衛的な方向に還元される向きがある。たとえば1950 年代から 1980年代にかけて、「ライシテ」という言葉は、もっぱら宗教が運営する私立学校が公的補助金を受けること(とりわけ1959年のドゥブレ法以降)に反対して「公立校を防衛すること」を一般に意味していた。
意味の変化が起こりはじめたのは1989年である。ライシテという言葉の社会的使用が次第に「イスラーム」関連の実践に疑問を投げかけることを含意するようになってきたのである。この宗教の信者は、しばしば旧フランス植民地出身で、恵まれない階級であることが多いが、当時一定数を誇るマイノリティになっていた――統計によればおよそ6%だが、人びとの実感ではもっと多い。1989年は、イラン・イスラーム共和国の指導者ホメイニ師がファトワを発して幕を開けた(2月)。作家サルマン・ラシュディが『悪魔の詩』のなかで預言者ムハンマドを冒涜したとの理由で死刑を宣告されたのである。この年の終わり(11月)には、資本主義の西洋と共産主義諸国を分断する「鉄のカーテン」を象徴していたベルリンの壁が崩壊する。東西の対決とそれにともない双方が抱いていた恐怖に代わり、「政治的イスラーム」という新たな恐怖が生まれた。
このような国際状況のもと、パリ郊外のクレイユのコレージュ〔中学校〕における校則問題が国民的な出来事に発展する。これは多くの人びとにとって驚きであった。学期の始まりに3人のムスリムの女子中学生が、校則で定められているにもかかわらず、教室で髪を隠すスカーフを外すことを拒んだのである【訳注1】。この事件はやがて、フランスにおいてライシテが変化する前兆および要因として、構造化をもたらす出来事になっていく。現在の悲劇的な事件は、当時から起こっていた主題を拡張したもの(または新たに再発したもの)である。
【訳注1】1989年9月に起きた、いわゆる「スカーフ論争」の発端となった事件。共和国の市民を育成する公立校において、イスラームのスカーフの着用は認められるか否かが世論を二分した。このときコンセイユ・デタ(国務院)は、スカーフの着用自体はライシテの原則と矛盾しないという見解を出した。ところが、2001年の9・11を経て、15年後の2004年、法律で公立校での宗教的標章の着用は禁止となった。
なぜか。それは1989年以降の政治的文脈がつねに宗教的なものを含意してきたからである。1990年代には内戦がアルジェリアを襲った(アルジェリアは旧フランス植民地でフランスとの戦争の末に独立)。内戦が勃発したのは、選挙で「イスラーム主義」政党が躍進したことに対しアルジェリア軍が介入したのがきっかけである。ところで、フランスとアルジェリアには密接な関係がある。少なくともそのことは、約150万人ものフランス系アルジェリア人がフランスで暮らしている事実に示されている。これは栄光の三十年(1945年~1975年にわたるフランスの高度経済成長)のあいだに移民が流入したことと、経済危機によって両国のあいだを移民労働者が行き来することが中断されて家族が呼び寄せられたことの結果である【訳注2】。1995年には、この内戦に絡むテロ事件がいくつかフランスで起こっている。だが、一部のイスラームに対する恐怖が支配的な趨勢となるのは、特に2001年にアメリカで9・11のテロ が起きてからのことである。
【訳注2】フランスの戦後の復興と経済成長は、旧植民地であるマグレブ3国(アルジェリア、チュニジア、モロッコ)からの移民たちによって支えられていた。当初はおもに男性が単身で出稼ぎに来ていたが、オイル・ショックを受けて新規移民の受け入れが中止されると、家族の呼び寄せと定住がはじまった。それにともない、イスラームという宗教を実践する要求も次第に目立つようになってくる。
今日、テロのリスクはフランス人の強迫観念になってしまった。テロは「イスラーム」の極端な解釈によって犯行声明が出され、一般に「イスラム国」(ダーイシュ)と結び付けられている。フランスはサハラ以南のアフリカの軍事紛争に関与しているのに加え、中東ではダーイシュと戦う有志連合に積極的に参加し、テロが続発している。2012年3月にはモハメド・メラが兵士とユダヤ人の子どもたちを殺害する事件があった。2015年1月には「シャルリ・エブド」のジャーナリストとユダヤ系食品店の客たちが殺された。同年11月にはバタクラン劇場での大虐殺があった。2016年7月にはニースで大勢の人が殺され、また〔ルーアン近郊の〕サンテティエンヌ・デュ・ルブレでは司祭が殺害された。中止を余儀なくされた夏の催し物も少なくない。開催の場合は、警官たちの厳重な警戒のもとで行なわれた。日常生活でも、持ち主不明と思われる荷物があれば交通機関が止まり、セキュリティ・チェックが厳しくなっている。警報が間違って鳴ることもある。各人はフランスが「非常事態」という法的状態を生きて間もなく1年になることを、恒常的に思い起こすことになる。
このように非常に困難な状況において、この夏、ブルキニ(露出を非常に抑えたいわゆる「イスラーム水着」)姿の女性たちが浜辺にいることが、国をあげての事件になった【訳注3】。かつてのクレイユの〔スカーフ〕事件にほとんど匹敵するほどである。一般に、今日の社会で支配的なライシテは、1905年に確立されたライシテとは懸け離れたものになっている。この新しいライシテは、ある種の宗教的中立性を個人に押し付けようとするのに対し、1905年法はビュイッソンによる定義の論理に沿い、さまざまな宗教や信念に対して国家が調停の役割を果たす中立性を確立した。平等と自由のための手段であったはずの宗教的中立性が自己目的化しつつあり、それによって平等も(基本的にムスリムが標的にされている)、自由も(非常事態によってすでに制約されている)、あやうくなっている。
【訳注3】2016年夏、カンヌやニースなど地中海沿岸の自治体の首長が、ブルキニ(ムスリム女性の頭部から足首までを覆う水着だが顔は見える)の着用を条例で禁じた。背景としては7月14日にニースでテロ事件が起きたことが大きいだろう。しかし、8月26日にコンセイユ・デタ(国務院)はこれらの条例を差し止めた。
2.1905年〔政教分離法の成立〕に敗北し、現在において再活性化されているフランス的な2つの伝統
この「新しいライシテ」の影響力は相当なものだが、それは今日のフランス国内外の状況だけによるものではなく、それが1789年以来のフランスの歴史に根づいた諸潮流を新しいやり方で再利用しているためでもあるという仮説を立てたい。それに公共の議論自体も、たえず歴史を引き合いに出し(そして道具化し)ている。現在生じているのは、長いあいだ対立してきたフランスの2つの知的・政治的な伝統の混淆である。双方とも、1905年の重大局面〔政教分離法の成立〕において表面化していたが、このときは大義を獲得することはなかった。教会と国家の分離法を練りあげた議会は、同法の中心人物アリスティッド・ブリアンの表現を借りるならば、「冷静沈着」ぶりを見せて当時存在していた2つの恐怖に対峙した。私はこれをアイデンティティの恐怖と共和主義的な恐怖と呼ぶことにする。
そこで、20世紀初頭に身を置いて、2つの恐怖が対立して増幅していた時代のことを思い描いてみよう。
最初の恐怖はアイデンティティに関するものである。これは1905年の時点でフランスを「カトリック・ネーション」と見なしていた人びとにおいて強かった。彼らは、カトリック的なアイデンティティがフランス革命以来脅かされていると考え、これを守ろうとした。彼らによれば、革命の恐怖政治(テロル)は宗教を根こそぎにしようとするものだった。この観点に立つと、フランスは「(カトリック)教会の長女」であり、1801年にナポレオン・ボナパルトと教皇ピウス7世のあいだで締結され、当時依然として有効であったコンコルダートは、満足のいくものではなかったが(カトリックはもはや国教ではなく「フランス人の大多数の宗教」になった)、まだしも我慢することができるものだった。政教分離(実はカトリック側にもこれを主張した者がいる)は革命を完成するもの〔多くのカトリックにとってはぜひとも回避すべきもの〕であり、国を「脱キリスト教化」させることになってしまう。
したがって、この思想潮流は政教分離の原則そのものに反対であった。そして、分離の型が少しずつ形を取りはじめるにつれて、この反対は激しいものになる。政教分離はフランスのカトリック・アイデンティティを脅かすだけでなく、カトリックであることの自由をも脅かすというのである。不可知論者のシャルル・モーラス【訳注4】は、このようなものの見方を世俗化し、文化的アイデンティティとしてのカトリシズムを唱えた。これは政治的・社会的な領域に属する要因であって、信仰としてのカトリシズムと重なり合う場合はあるが、必ずしも信仰としてのカトリシズムとは一致しない。モーラスと彼の運動であるアクシオン・フランセーズ【訳注4を参照】にとって、マイノリティの成員は「四身分同盟」の代表であって国の姿を損ねているという。それは「ユダヤ人、プロテスタント、フリーメーソン、よそ者(外国人)」である。当時これらのマイノリティに対して盛んに向けられていたステレオタイプが、今日再び見出され、ムスリムに向けられている。
【訳注4】シャルル・モーラス(1868~1962)は実証主義の立場からカトリックを「再発見」した王党派の作家・文芸評論家。極右団体アクシオン・フランセーズを主宰し、共和国を批判した。政教分離の緊張が高まる当時のフランスにあって、カトリックと共犯関係にあったと言えるが、1926年に教皇庁から断罪された。
さて、20世紀初頭には、この対極に第2の恐怖、すなわち共和主義的な恐怖もまた存在していた。この陣営に属するのは、啓蒙主義と革命の娘である近代フランスは「教権主義」の「ヒドラ」、つまりフランス社会を支配し、宗教的規範を押しつけようとするカトリシズムによって脅かされていると考えていた人たちである。「教権主義陣営」と「反教権主義陣営」の対立は19世紀のあいだ続き、共和政と帝政と王政をめぐる政治闘争に対応していた。第三共和政の確立(1870年代末)は共和派の勝利を画するものだ。非常に反教権主義的な者もいたが、(ジュール・フェリーのように)和解が可能だと望んでいた者もいた【訳注5】。
【訳注5】1789年の革命後のフランス19世紀は、基本的に「共和派」(反教権主義)と「カトリック」(教権主義)の「2つのフランスの争い」によって特徴づけられる。政体も、第一帝政、王政復古、七月王政、第二共和政、第二帝政、第三共和政と目まぐるしく変化した。1870年に成立した第三共和政は、当初は王党派の影響も強かったが、1879年の選挙で共和派が勝利し、「共和派の共和国」が成立した。初等教育の義務、公教育の無償とライシテを定めた法律の立役者ジュール・フェリーは、反教権主義者である一方で、共和国の教育と両立する宗教には活動の余地を与える自由主義的な考えの持ち主だった。
しかし、19世紀末も押し迫ると、ドレフュス事件が共和国を不安定なものにし、反教権主義者の目には、カトリック修道会の強さが誇示されたと映った。「脅威にさらされている共和国」という主題が繰り返され、修道会にはますます厳しい措置が講じられていった。最初の政教分離の計画は、それをカトリックに対する共和主義的な闘争の道具にするものであった。それはカトリックの統一性と自由とはっきりと制限するもので、間接的にはあらゆる信者の自由を制限するものであった。このような姿勢を象徴する人物で、当時の首相だったエミール・コンブによれば、宗教は「自分の寺院に閉じこもる」ものでなければならない。実を言えば、ここには共和主義によるガリカニスム政策【訳注6】の焼き直しという側面がある。ガリカニスム政策とは、旧体制(アンシャン=レジーム)においてフランス国王たちが長年にわたって行なってきたもので、国王は自らの手で管理を行き届かせていた宗教を保護していたのである。共和国に対する「脅威」という主題は1989年以来再び取りあげられ、続発するテロによって更新され拡大されている。コンブの系譜にあるこの主題は、イスラームに「慎ましやかな」実践を要求するもので、テロとはまったく無関係のムスリムにこの要求が向けられている。
【訳注6】ガリカニスムとは、ローマに連なるフランスのカトリック教会に相対的な自律性を与える考え方。フランス国王も、共和国も、国内のカトリック教会を政治の管轄下に置く政策を取ってきた。1905年の政教分離法は、基本的にはこのガリカニスムの論理と手を切って、教会に自由を与えるものである。ただし、今日においてもなお、宗教を政治の管轄下に置こうとするガリカニスムの論理が認められることもある。
20世紀初頭も状況もこれと似ており、抗争の激化は避けられないと思われていた。ところで、1905年に起きたのは何であったのか。ネオ・ガリカニスムの視点と、政教分離法の視点はまったく異なるものなのである。たしかに、政教分離法はコンコルダートを廃止し、フランスにおけるカトリシズムの半公式的な地位を破棄するものである。同法はまさにこのことによって、国の政治的・法的アイデンティティは宗教の次元を持たないことを示している。しかし、当時ほとんどすべての人が予想していたことに反して、この法律はカトリシズムの統一性を損ねておらず、「礼拝の自由な実践」を価値あるものとしている。ブリアンは、ヴォルテールの合言葉「卑劣漢を粉砕せよ」よりも「自由を組織する」観点を優先させる技量の持ち主だった。法律ができた過程を研究すると、いくつかの条文が採択されたのは、分離の原則に反対していた議員のおかげで、闘争的な分離に賛成していた議員は反対票を投じていることがわかる【訳注7】。ブリアンは法律が「公正」なものであることを望み、2つのフランスの争いに終止符を打つことができるような「自由の法」を唱えていた。
【訳注7】たとえば、右派の議員は政教分離に反対していたが、カトリックの位階制と教会法に配慮する形で、第4条に「宗派の組織の一般的な原則に適合した〔団体〕」という一節が加えられると、右派(および中道左派と一部の左派)はこの条文採択の支持に回ったのに対し、左派の多くは反対票を投じた(368票対198票で可決)。また、公共空間での祭礼行列について規定した27条は、当初は事前の認可を取り付けることを条件としていたが、これは第1条が認める自由な礼拝の実践という規定と矛盾するという自由主義的なカトリック系議員アンリ・グルソーの指摘を受けた。そして、カトリックの祭礼行列と左派のデモが同質であるか異質であるかが問われた。戦闘的な左派の議員モーリス・アラーは、祭礼行列は公共空間において万人に押しつけられる礼拝であるのに対し、左派のデモは市民の行為であると述べたが、中道系議員のアレクサンドル・リボーは、公道は万人のものという観点から、カトリックの祭礼行列も左派のデモも公共の秩序を脅かさないかぎりは自由だと述べた。そして、27条はリボーの主張に沿う方向で修正が加えられた(294票対255票で可決)。どちらも、もともとは分離の原則に反対していた議員が賛成票を投じ、そして闘争的な分離に賛成していた議員が反対票を投じる構図において採択された条文である。
しかしながら、教皇ピウス10世は、教皇庁が「まやかしの妥協」と呼ぶところのものを拒絶し、法律を断罪した(1906年8月)。法律の内容が問題であったというより、他国に「ドミノ効果」が及ぶことを恐れたのである(歴史家モーリス・ラーキンはヴァチカンの資料からこのことを明らかにした[1])。フランス司教団は、分離の原則自体に対しては反対の姿勢を維持しつつも、実は同意を与えていた(1906年5月)。そこでブリアンは3つの法律を新たに採択し、彼自身の表現を借りるなら「カトリックがその意に反して合法的であること」を強制して、実践的な解決策を与えた。これによって、教皇の拒否にもかかわらず、1908年より政教分離を適用することが可能になった。
しかし、一般のフランス人の集合的記憶には、カトリック陣営と共和派陣営の対立の「沈静化」ではなく「闘争」のほうが残った。敵対する両陣営〔アイデンティティとしてのカトリックと反教権主義的な共和派〕は、ある共通の利害関心を持っていた。それは、政教分離法をあのコンブの法律、つまり反教権主義的闘争の到達点と見なしていたということである。かたや「迫害を受けた」カトリックの想像力が、教皇の拒絶を正当化していた。かたや我々は敵を一掃したのだと主張することができた。歴史家は次第に誤りを正していった。けれども、集合的記憶における「戦闘的な分離」は消滅したとはとても言えない。非常に逆説的なことに、1980年代から1990年代にかけて、いくつかのライシテ団体によって遂行された1905年法の精神への回帰は、歴史学の知見の発達に結びついていたにもかかわらず、実際には「新しい」ライシテ概念として立ち現われることになってしまった。
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