本たちの周辺

ジャン・ボベロ来日講演録(前篇)
「続発するテロに対峙するフランスのライシテの現状と課題」

 
 
1905年法に立ち戻ろう。総じて見れば、鎮静化は現実のものであった。反教権主義者は法律を事後的に「改善」する(つまり締め付けを厳しくする)意志を隠さなかったが、共和派陣営全体としては同法に賛同した。政教分離が平和裏に遂行されたのは、アイデンティティのカトリシズムと信者のカトリシズムが次第に分裂したことが大きい。アクシオン・フランセーズが前者の代表である〔政教分離法に反対〕。「緑の枢機卿」(アカデミー会員)のようなカトリックの名士は1905年時点から後者を代表していた〔政教分離法に賛成〕。彼らは教皇に、法律は「私たちが望むことを信じ、私たちが信じることを実践するものを妨げるものではない」と書き送っていた。その後、第一次世界大戦が、1905年以前には想定することのできなかった「神聖同盟」を部分的にもたらした。1924年には、ブリアンと教皇ピウス11世が新たな共和主義的な妥協によって合意に達した。それからほどなくして、ピウス11世はアクシオン・フランセーズを断罪した(1926年)。これは、アイデンティティのカトリシズムが信者のカトリシズムよりも優勢であることの拒否を意味するものだ【訳注8】。
【訳注8】第一次世界大戦は、それまでの共和派とカトリックの「2つのフランスの争い」を部分的に収束させる効果をもたらした。「神聖同盟」はこのときの挙国一致を指す言葉。その「成果」として、大戦後の1924年、教皇はフランスの司教に対し、1905年の政教分離法の枠組みに沿った司教区信徒団体の結成を認めた。一方、1926年にはアクシオン・フランセーズを断罪した。どちらも教皇庁がフランス共和国に歩み寄りを見せた出来事ととらえることができるだろう。
 
もっとも、このアイデンティティのカトリシズムは右派のもので、フランスがドイツに敗北し、ヴィシー政権(1940年~1944年)によるナチズムとの「コラボラシオン」(対独協力)があったときに影響力を持つことになる。その後、リベラシオン(1944年~1945年)と第二ヴァチカン公会議(1962年~1965年)の「時代への適応」(アジョルナメント)によって、不安定なものになる。しかし、植民地帝国とりわけ「フランスのアルジェリア」の防衛が、国民の偉大さという観点を争点にする。これは右派において支配的なものだが、左派の一部も共有する。左派は、アルジェリア独立戦争(1954年~1962年)に際して分裂することになる。この点については、1905年法は決してアルジェリアには適用されなかったことを想起する必要がある。アルジェリアでは、公式のイスラームがフランス国家によって管理されていた。
 
1989年〔冷戦の終結とイスラームという新たな政治的恐怖の誕生〕、そしてとりわけ2001年〔9.11〕以来の状況は今日テロという恒常的なリスクによって悪化している。「イスラーム」に対する現在の態度は、フランス史の「長期持続」、より正確に言えばフランス史を解釈する集合的記憶に結びつけられる必要がある。もちろん、今日の状況はフランスにライシテが確立された時代とは大きく異なる。しかし、カードの配り直しが起こっており、フランス社会に長く存在する論理が再利用されている。
 
では、今日の状況はどうなっているのだろうか。まずは右派、続いて左派の順に検討していくことにしよう。
 
3.右派に支配的なアイデンティティのライシテ――2つの歴史的系譜の合流
 
今日の右派、そして極右において支配的な言説として、エリック・シオッティ議員による憲法的法律の提案【訳注9】は意味深長な例である。もしこの法律が採択されたならば、憲法はフランスが「キリスト教の伝統」に連なることに言及し、しかも共和国の三つの理念「自由・平等・博愛」に「ライシテ」の語が付け加わることになるだろう。それは「注文の多い闘争的なライシテ」だとこの代議士は説明している(『今日の価値』〔右派の週刊誌〕2016年5月19日付)。例に挙げているのは、公共空間における宗教的標章の着用を禁止する計画である。
【訳注9】エリック・シオッティは1965年生まれの右派共和党の議員でサルコジ派。フランスはキリスト教のルーツを持つことと、ライシテの国であることを、ともに憲法に書き込むことを提案している。
 
この憲法的法律の提案は、30年ほど前なら奇妙なものと映ったはずだが、テロが続くなかで信憑性を獲得するに至っている。けれども、これは1905年法によって失敗に帰した2つの系譜を混ぜ合わせたものであることがわかるだろう。共和国は1946年以来、憲法上ライシテの国なので、憲法に「キリスト教の伝統」と記載することは、モーラス流の視点を取り込んだひとつの転倒を行なうことである。アイデンティティとしてのキリスト教を引き合いに出すことは、ここでもフランス性が劣るとされる市民に対する象徴的な砦の役割を果たすことになる。ムスリムが〔差別されてきた〕いわゆる「身分同盟」の成員〔ユダヤ人、プロテスタント、フリーメーソン、外国人〕に取って代わっている。
 
しかし、この思想潮流〔アイデンティティのカトリシズム〕は1905年にはライシテに異議を唱えていたのに、いまやライシテをかつぎ出し、それを共和国のスローガンに付け加えることを提案しているのである。実際、政教分離法によってもたらされた鎮静化により、もはや主要な争点は、世論から見れば、カトリシズムではなく「イスラーム」と移民である。したがって、このようにしてかつぎ出されるライシテの類型は、かつて反教権主義な潮流が宗教的な服装に対して取った反対の態度を、ムスリムに対して再び取るものである。20世紀初頭、「脅威にさらされている共和国」の観点から、市長たちは公共空間におけるスータン(聖職者の衣服)の着用に反対する政令を定めた。しかしながら、1905年法はこのような方向の修正を拒否するもので、政令はコンセイユ・デタ(国務院)によって破棄された。もちろんこのような側面は大半の人びとには知られておらず、コンブの反教権主義的闘争と1905年の政教分離法が一緒くたにされている。
 
このようなタカ派の右派と極右の「ライックな」言説は、2つの系譜を取り持つことで一石二鳥を狙っている。たとえばニコラ・サルコジは、大統領選(2007年)のときから、クローヴィスのローマ・カトリシズムへの改宗に象徴される「フランスのキリスト教的な根源に価値を認める」ことを望んでいた。この観点に加えていまや彼は、移民は彼らの祖先が「ガリア人」だと考えるべきであると述べている。ガリア人を参照しているのは意味深長だ。長いあいだ2つの「フランスのルーツ」は対立してきたからである。一方に〔キリスト教を象徴する〕クローヴィスがいるとすれば、ヴェルサンジェトリクス〔紀元前1世紀にローマによるガリア侵入に抵抗して戦った族長でフランス最初の英雄とされる〕とガリアは反教権主義的なフランスの意味合いがあったからだ。しかしながら、ドレフュス事件のときより、ガリア人を参照することで、ユダヤ人とプロテスタントといったマイノリティはフランスを「脱フランス化」し「アングロ=サクソン民族」や「ドイツ民族」に利益をもたらすと言われていた[2]。今日〔カトリックとライックという〕2つのシンボルは、〔対立するどころかそろって〕ムスリムがアイデンティを捨てて「同化する」ことを要求している。
 
テロが繰り返し起こる状況のなかで、同化を要求する提言がイデオロギー的な力を持つようになってきている。一部のフランス人にとっては、ムスリムの増加、ムスリムには(カトリックとは反対に)宗教を実践する者の数が多いこと、公共空間におけるイスラームの可視性(とりわけ女性の服装)、人びとを極度の不安に陥れる言説の影響、これらすべてが恐怖を掻き立てる。アイデンティティのカトリシズムは、ライシテに匹敵する拠り所になりうる。信仰としてのカトリシズムがマイノリティであることが明白になり、組織としての巨大な問題に直面している(大部分の聖職者は高齢者である)だけに、いっそう「キリスト教的伝統」(実のところはカトリック)を参照するのである。信仰としてのカトリシズムはもはや政治的・宗教的な影響力を持たず(同性婚のように国民全体を論争に巻き込むようないくつかの主題は除く)、カトリック教会は一般にこのような「マイノリティ」である状況を踏まえた発言をしてきた。したがって、参照軸の混線〔今日のフランスは、20世紀初頭においては対立していたカトリック的なフランスの系譜と反教権主義的なフランスの系譜を混ぜ合わせているということ〕は問題にならない。クローヴィス〔カトリック的フランス〕もヴェルサンジェトリクス〔反教権主義的フランス〕も同じ戦いをしているという主張が成り立ってしまうのだ。
 
アイデンティティとしてのライシテは、いまは右派の支配的言説だが、それでもこの政治的潮流において合意ができている言説というわけではない。元首相で右派の指導者のひとりアラン・ジュペは、フランスに和平をもたらすために「幸福なアイデンティティ-」という概念を提唱している。ジュペは、ノスタルジックで彼に言わせれば懐古趣味なフランスのアイデンティティに疑問を呈し、さまざまな出自のフランス人を集めた共通の未来を構想すべきだと主張する。「一言「ムスリム」という言葉を発しただけでヒステリーを引き起こすような、現在のフランスにおいて支配的な雰囲気を鎮めなければならない」。彼はフランスを「内戦」に導きかねない発言を批判している。彼は重要なライシテの法律と共和国の大原則に立ち帰る「ライシテ典範」を提唱し、「フランスのムスリムと共和国の全体的な合意」を模索している(『ル・モンド』2016年9月24日付)。
 
1905年法とその和解の精神を参照していることは明らかだ。しかし、興味深いことに、それはあまり目につかない。というのも、歴史家の歴史は記憶の表象と比べて社会的な重みを持たないからだ。同じ潮流に属す政治家ナタリー・コシウスコ=モリゼも「恐怖を弄んでいる右派がいる」と述べている(『ル・モンド』2016年9月30日付)。このような診断は、もちろんマリーヌ・ルペンの極右にも当てはまるものである。
 
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