[欲望のパーツ化、「愛され」欲求は女性だけのものか]
宮野 では、次に重田さんにたいしてのコメントです。キラキラ女子の話のなかで、女性の欲求が今はパーツ化されていて、女性の欲求というのはある枠内で認められているという話がありました。2つ聞きたいことがあって、まず、女性の欲求ということで意図されている中身というのが何なのか。要するに、それは「愛される」ことだけを求めているのか、それ以外の欲求があるのか、ということです。
結局、女性の欲求がある枠内で認められるものでしかないのだとしたら、その欲求というのは周りから求められているだけであって、それによって女性自身が「承認」を得られているというわけではないと思うんです。「愛され女子でなければいけない」と求められているからそうしているというだけで、べつに、愛され女子になったから、認められていると言えるんだろうかと。
重田 ちょっと、言っていることがわからない。
宮野 ちょっとわかりにくいですかね。要するに、女性の、そういう愛され女子でありたいという願望が、べつに女性が自発的に持っているものではなくて、周りからある意味つくられている――ああ、そうか、だから、認められるでいいのか。すみません。
重田 そう、同じことだと思ったの。
宮野 なるほど。ごめんなさい、質問を変えます。もう1個は、それって女性だけの話なのかという話なんですね。愛され女子じゃないといけないという話に関しては、べつに、男性も多分あって、特にやっぱり最近見ていると男性雑誌も、モテ言説みたいなの、結構たくさんあるんです。この前、『メンズノンノ』を学生とちょっと授業で読んだので。
重田 モテ言説(笑)。
宮野 そう。モテテクみたいな言説って今もう、男性雑誌の中にもがんがん入ってきていて、そうなったときに、「愛され」はべつに女性の欲求という話じゃないのかも、というのが思った点です。
質問をまとめます。1つは、今言った、「愛され」というのは女性の欲求じゃなくて、男性にもあるんじゃないか。もう1つは、アイデンティティとしての女として認められているというのはどういう状態のことを言っていたんですかという。
重田 どうも、ご質問ありがとうございます。男のモテ言説って、あるのかもしれないけれども、そこはまあ、そうですね、男にもあるんでしょうねっていうことでいいのかな。
宮野 なんか、だから、パーツ化とかというのも、べつに、全体的に進んでいる話で。
重田 それはそうです。べつに「女性の」って言わなくてもいいんだけれども、まあ、これ、女性の話としてした、ということですね。婚活だってそうですよね。男性だってしているわけですし、全然、そういう市場化、商品化という点では、「女性が」というふうに言わなくてもいいようなことなのかもしれない。
宮野 なるほど。わかりました。
筒井 男性雑誌におけるモテ言説・「愛され」志向に関しては、2014年発行の『ユリイカ 総特集 イケメン・スタディーズ』収録の討論で言及がありました(千葉雅也、星野太、柴田英里「徹底討論 イケメノロジーのハードコア」『ユリイカ2014年9月臨時増刊号 総特集=イケメン・スタディーズ』青土社、2014年、10-25頁)。
宮野 はい。イケメン・スタディーズですね。ありがとうございます。
重田 だから、見ている女性の側も、男性の裸を見たりとか、あるいは「イケメン」という言い方で、そうやって男性をパーツ化して評価するというようなことが、もちろん、起きているのだと思います。
宮野 では、あまり私が時間を食ってもいけませんので、藤田さんに回したいと思います。
藤田尚志 なかなか、発言するのがすごく難しいです……。人身御供じゃないんですが(笑)。でもまあ、こういう会を設定し、そこに自分も身を投じていくというのが大事かなと思ってやるんですけれども。
[よい欲望の商品化と悪い欲望の商品化?]
藤田 さて、私は、お二人の発表のうち、一方の中に見出されるものを、他方の議論に延長して、お互いの議論をすり合わせてみたいと思います。うまくいくかどうかわかりませんが。
まず最初は、重田さんのご発表の中で私がおもしろいと思ったところを、隠岐さんご自身の議論に絡めておうかがいしたいと思います。重田さんのお話の中に「女性の性の商品化」というのがありました。一方には「女性の性を商品化する」という方向があり、例えば「女子力」の市場化や商品化、細切れのパーツ化された「女子力」が求められている。で、もう一方に、「女性のための性の商品化」というのがあって、女性用のAVであるとか、そういったものが今どんどん登場してきている。両方ある、と。
重田さんは同時に、話の最後のほうで、特にセクハラ問題に絡めて、よい欲望と悪い欲望という線引きができるのか、性規範や性道徳においては正しい側というのが非常に難しいのではないのか、もちろん基準が要らないというのではないけれども…というふうにおっしゃっていたわけなんですけれども、商品化ということに関してもやはり同じ問いが立てられるんじゃないでしょうか。つまり、よい欲望の商品化と悪い欲望の商品化ということが果たして言えるのかということです。女性用AVは女性の欲望の「よき多様化」に貢献し、女子力アップのための買い物は「悪しき多様化」にすぎない、と。
この議論は、おそらく隠岐さんの科学についての議論にも重ねられると思うんです。「よい科学」と「悪い科学」というのも変だけれども、学問間にまず「有用/無用」「実学/無用の用」という選別があり、さらに後者からも「天才・才気ある者/そうでない者」という形で、女性研究者あるいはマイナーな主題の研究が排除されているという現状に対して、その支配的な規範性への抵抗を狙っているという意味で、重田さんやフーコーと同じ方向に収束しうるのではないかと思ったんです(ちなみに、私は大学論にも関心があるのですが、その領域においても、ここでの議論はきわめて「有用」であると思います)。
それで、もしそのように話を重ねられるとして、しかし、規範性自体に対する抵抗のスタンスは、重田さんと隠岐さんで若干違うようにも思うんです。このあたり、宮野さんの質問とも絡むと思うんですが、フーコー的な論理が規範性の無効化・無力化を狙うのに対し、隠岐さんは規範の外と見なされているものを内側に入れる、いわば「公認」させることで、規範性にまとわりついている男性支配的なバイアスを極力排除しようとしている、つまりビッグサイエンスが持っている規範性そのものは認めている気がする。もしそうだとして、隠岐さん自身は重田さんの議論に対してどう答えられるのでしょうか。つまり、最低限の規範性は必要だとしても、よい欲望の商品化と悪い欲望の商品化の別というものは基本的にはなくて、すべての欲望は基本的に肯定されるべきであるとお考えでしょうか。それともやはり規範性というものは存在するのであり、かつまた存在すべきであるのか、あるとすれば、それはどのような規範性なのでしょうか。
重田さんのお話の最後に引用されたフーコーの文章には非常に共感するのですけれども、同時に、そうやって規範を消していくと、単純な差別に対してどう立ち向かうことができるのか分からなくなるおそれもある。その辺を隠岐さんにうかがいたいと思います。
隠岐 ちょっと1つ確認ですが、フーコーの言葉について、規範を消していくというのはちょっとわからなかった。それをもうちょっと説明していただけますか。
藤田 はい。フーコーのところで、自分自身の性というのを、どんどん多様な関係へと到達するために自らのセクシュアリティを用いるんだということで、欲望のあり方を多元化していくというようなことじゃないかなと思っているんですけれども、そうすると、その中で、例えばさっきの性の商品化ということに関して、「それがどんな欲望であっても、それぞれの欲望を肯定すればいいでしょう。私は私、あなたはあなた」ということにならないかということです。
[欲望の商品化を全面的には肯定できない]
隠岐 難しいんですけれども、すごいベタなことを言うと、人権が蹂躙されない限りの商品化はそんなにこだわらないという立場です。ただ、そのバランスが難しいのはもちろんなのですが。
ただ、現状の女子力商品化、パーツ商品化で気になるのは、やっぱり声の大きいタイプの商品化というのがあって、それが、人権を蹂躙、までは言わないにしても、ある種の人々を萎縮させるような効果を持っているとは思っているんですね。
例えば、ちょっと身近すぎる例を挙げると、出張のためにホテルに泊まると、なんか有料チャンネルのご案内があって、ヘテロの男性向けのポルノが大量にあるんですよ。で、なんか、あまりウェルカムされていない気持ちをそこで抱くわけですよね。まあ、人権蹂躙までは言わないんだけれども、私の好きなものは全然置いてくれないよね、という。
重田 置いてあったら、びっくりだよね(笑)。
隠岐 置いてあったら、ちょっとびっくりだけど、うれしいですよね。どうして知ってるの?ってなっちゃうけれども(笑)。
私はかなり狭いレンジのものが好きなので、例えばさっきの『anan』の男性の裸も、ちょっとそこまでど真ん中じゃないんですね。
それはいいとして、すばらしいと思いました、あのチョイスは。いいと思うんだけれども、例えば、あれもあって、18禁のもあって、なんか全部あるのならいいのかな。ただ、真面目な話、ホテルにそんなのが溢れていたりすると、出張しているときになんか雑念ばかりになりそうでいやですけど。
言いたいのは、いい悪いを分ける気はないんですが、やっぱり商品化に関してある種の民主主義とか、人権というものへの意識は気になる。で、これはなぜかというと、全く逆のパターンとして、最近ちょっと読んでいる『アラー世代』という本を思い出したんです。イスラム過激派や原理主義に傾倒する少年たち、少女たちについて、ソーシャルワーカーをやっている、パレスチナ系ムスリムであるドイツ在住の男性、アフマド・マンスールが書いた本です(『アラー世代:イスラム過激派から若者たちを取り戻すために』晶文社、2016)。同書には、きびしい性の規範の中で生きることを望む少年達、少女達が登場します。で、たとえばですよ、そうした若者達が何らかの商品やサービスを望んだとして、それが、特定の人の生き方を抑圧したいという欲望とつながるものだったりした場合に、第三者はどう感じるのだろう。そういうことと似た問題はあると思っているんですね。そこは非常に難しい駆け引きで、専門ではないのであまりしゃべれないところもあるんですけれども、やっぱりケースごとにある種、問題なものはあると思います。
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