[性的自己決定は可能か]
王寺 この本は特に、愛と性と家族について「哲学」の立場から語るということをスローガンに掲げている本ですから、その観点からちょっと気になったことを指摘しておきます。1つは「性的自己決定」についてです。とりわけ『性』の巻では、性転換も含め、自分の身体を改造することへの肯定論(佐藤岳詩氏の論文、第3章「私たちの身体と性とエンハンスメント:美容整形をめぐって」)のなかで、この概念が取り上げられていました。あるいはまた、ピルの使用を女性の性的自己決定の観点から擁護する論文(相澤伸依氏の「ピルと私たち:女性の身体と避妊の倫理」第5章)もありました。いずれも僕は非常に興味を持って読んだ論文です。
でも僕は同時に、どうも引っかかった。この本のなかには、性的自己決定論に対する批判を展開した論文(古賀徹氏の「恋愛するとどうしてこんなに苦しいのか:性的自己決定の限界」第6章)もあるので、共著者全員に対する違和感というよりも、上の2つの論文の著者に対する違和感になります。僕の違和感は端的に言って、その2つの論文で言われている「自己」が、性を超越した「自己」が身体の外にあって、その身体を自分が勝手に処分できるというようなイメージで語られていることに対するものです。そんな意味で性的に「自己決定」することができるのか、自分のセクシュアリティなり身体なりとの関係って、そんなふうに「自己決定」したり「選択」したりできるものだろうか。先ほどの森川さんの発言をうけて言えば、性や身体を介した他者とのかかわりには、自分の意志だけで左右できない次元があるんじゃないか。それは古い言葉で言えば「運命」ということになるのかもしれません。だから引き受けるほかないものなんだというつもりはありませんが、それでも、自分の身体とのかかわり、否応なく性化された身体とのかかわりには、自分の意志だけではどうにもならない部分があるんじゃないかという疑問が残る。それこそが、性とか愛とかいった問題が往々にして宗教や文学と結びつけられてきた理由でもあるだろうし、またそれこそが、愛・性・家族といった一連の問題の難しさとも結びついているような気がします。そこを性的自己決定で割り切れるのか。
この性的自己決定の議論は、個々の主体の「自由な選択」であるかぎり合法化してゆくべきだという主張とも結びつきます。たとえば今、世界的に同性婚の合法化はちょっとした流行になっている。とりわけ西欧や南米のカトリック圏では、同性婚合法化がリベラル左派の旗印のようになっています。日本でも同性婚の合法化を主張している人はいるし、先ほどお話しした現政権閣僚のセクシャル・マイノリティの権利擁護などをみると、実はそうした要求はリベラル左派にとどまらないような広がりをもっている(あるいはもちうる)のかもしれない。僕もその要求自体を頭ごなしに否定するつもりはありません。しかしセクシャル・マイノリティの運動の歴史を少し振り返ってみると、60〜70年代には結婚とか家族といった制度自体を問題化しようとするような、非常にラディカルな主張が主流であったにもかかわらず、現在のセクシャル・マイノリティの運動が、往々にして、既成の法制度の枠を拡大し、既成の法制度のなかでの権利の承認を求めるという1点に集約されるかのように語られることについては、強い違和感があります。それはたしかに既存の結婚や家族制度の多様化ではあるのでしょうが、結婚とか家族といった制度自体は、その多様化によってかえって拡張され、強化されながら、自明なものとされているように見えるからです。
あるいは、性的自己同一性の選択権を認めるという話にしても、一般的に良いこととして受け容れられていますが、どうだろうか。たとえば、男性の身体をもって生まれながら、自分は女性であると自認している人がいるとします。その人があらためて女性として自分を戸籍上登録しなおすときに、いったい何が起こっているのか。それは法的権利の拡張であるかのように見えて、実のところ、すでに制度化されたものとしてある性別を選ばされているにすぎないのかもしれない。男性器をそなえつつ、自分を女性として同定している人が、まさにそのようなかたちで性別化された存在としていてもよいはずであるにもかかわらず、それが既存の制度内の選択の問題、法的登記の問題にされてしまう。それが本当に良いことなんだろうか、という疑問も持つんですね。
[性的主体の選択と合意のリミット――ペドフィリアと近親姦]
王寺 性愛にかんしては、性的自己決定と対をなす概念に「インフォームド・コンセント」があります。性交渉の問題を複数の性的主体の選択と合意にもとづくものとし、その主体的選択と合意にもとづくかぎりで肯定するという発想です。基本的に70年代以降のさまざまな性的志向の社会的承認は、性的自己決定とインフォームド・コンセントを2つの原理として進んできたと思います。しかし、そこでは当然排除されるものがある。極端な例を挙げれば、ペドフィリアですね。子どもへの性愛、あるいは子どもの性愛。これはヨーロッパでは闇の児童売春や人身売買とも絡んでいて、おいそれと肯定するわけにはいかない非常にセンシティヴな問題です。ただ、それが子どもは性的行為に同意し、意志することができない主体以前の存在であるから、性的主体としてもむろん認められないという法的擬制のもとで厳しい摘発の対象になっていることは踏まえておかなくてはならないでしょう。それと表裏一体に、大人は性的行為を意志し、理性的に選択できるのだという強固な法的擬制がまかり通っているわけです。しかし、それは性的交渉の場面に即していったい妥当するものなんだろうか。
もう1つきわどい例を挙げると、愛・性・家族を主題とし、性的自己決定が云々されるこの書物では問題になっていない大きな盲点があります。インセスト、近親姦です。実はこの機会にいろいろと調べていてちょっとびっくりしたのですが、日本では、近親婚が禁止されている一方で、近親姦は法的規制の対象になっていないんですね。近親姦の禁止はあくまでも慣習、習俗のレベルでの禁忌、タブーなのです。しかし、文化人類学的な知見を持ち出すまでもなく、近親姦の禁止はきわめて普遍的な「法」とみなされている。まさに親と子の世代を区別し、家族の内と外を区分するために、なくてはならない「法」だからでしょう。では、性的自己決定の原理に従うとして、この近親姦の禁止というタブーとの兼ね合いはどうなるだろうか。それを自己決定の原理で肯定できるだろうか。あるいは、もし性的自己決定が、近親姦の禁忌を不問に付したままで、すなわち家族秩序を温存したままで言われるのだとすれば、その性的自己決定はいったい何を求めていることになるのか。僕は、恐れと慄きとともに、そういった問題をちょっと考えてしまいます。
[財産の問題、資本主義のなかの家族]
王寺 もうちょっと言うと、藤田さんはこの論集のなかで「結婚の脱構築」と称して、「分人主義」にもとづく一夫一婦制の脱構築を試みておられる(『家族』の巻、第1章「結婚の形而上学とその脱構築:契約・所有・個人概念の再検討」)んですが、その藤田さんの結婚論・家族論にも、抜け落ちているように感じた視点があります。それは財産の問題ですね。おそらく藤田さんの関心の中心が、性愛と家族の関係にあったから、議論の俎上に上らなかったのだと思いますが、結婚とか家族を法制度の面から考えていくと、この財産の問題は家族制度の中心に据えられた大問題だと思います。実際、民法っていうのは恐るべき法典で、第1編の総則では法的な主体・客体としての「人」「法人」「物」が定義され、第2編ではその「人」が「物」に対してもつ「占有権」「所有権」をはじめとする「物権」が、第3編ではさらに「債権」や所有物の取引にかかわる「契約」が問題になっています。婚姻や家族の問題は、そのあと第4編の「親族」で出てきて、第5編の「相続」を巡る規定に引き継がれるわけです。人(主体)と物(客体)を定義し、所有・債務関係を定めたうえで、婚姻・家族が出てくる。ローマ法以来の発想がそのまま引き継がれているわけです。この民法の恐るべき構成を見ると、結婚や家族は性愛の問題以上に、財産の所有や取引や相続の問題と切り離しては考えられないんだということがわかります。
もちろん森川さんもおっしゃったように、婚姻や家族の問題を「ともに住むこと」の次元に落として考えていくことはできるんだけど、その際にもただちに、住居をどうするのか、借家なり持ち家なりの不動産は、誰が、どのように保証するのかという問題が浮上してくるだろうと思います。
こうして家族が財産を中心に回ってきたことをいったん思い起こすと、現在進行中の家族のあり方の多様化が、実はほとんどの場合、これまで家族が負っていたいろんな機能を市場化していく方向に進んでいるということも見えてくるように思います。たとえば、高齢者のデイケアでもいい。あるいは保育園の増設の要求もあえてそこに含めてしまってもいいかもしれません。一方で性的志向の選択は合理的な主体の自由に委ねる、もう一方で家族の機能はぜんぶ市場化してアウトソーシングする。夫婦共働きの世帯が増えているということまで含め、現在の資本主義の大きな動きのなかで、家族の解体なり脱構築なりが起こっていることは無視できないでしょう。これは僕自身もう少し考えてみなければならない、と感じた点ですね。
宮野 ありがとうございます。ではそろそろ、藤田さん、よろしくお願いします。
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