《ジェンダー対話シリーズ》第4回 王寺賢太×森川輝一:愛・性・家族のポリティクス(前篇)

「ジェンダーとかセクシュアリティとか専門でも専門じゃなくてもそれぞれの視点から語ってみましょうよ」というスタンスで、いろいろな方にご登場いただきます。誰でも性の問題について、馬鹿にされたり攻撃されたりせず、落ち着いて自信を持って語ることができる場が必要です。そうした場所のひとつとなり、みなさまが身近な人たちと何気なく話すきっかけになることを願いつつ。
Published On: 2017/5/17By

 
 

[閉じていない家族]

 

藤田尚志(ふじた・ひさし) 九州産業大学准教授。博士(哲学、リール第三大学)。フランス近現代思想、アンリ・ベルクソン研究。シリーズ『愛・性・家族の哲学』1~3巻(宮野真生子と共編、ナカニシヤ出版、2016年)など。

藤田尚志 藤田尚志です。アンリ・ベルクソンという20世紀前半のフランスを代表する哲学者を中心に近現代フランス思想を研究しています。ベルクソンは「生の哲学」という潮流を代表する哲学者ということでも有名で、人間や社会についても興味深い考察をたくさん残しているのですが、残念ながら愛・性・家族についてはほとんど思索を展開しませんでした。それなら僕自身が「生の哲学」のアップデートというか、現代的展開をしてみようと。それが出発点となって、この「愛・性・家族の哲学」という話につながっています。
 
 
さて、森川さんと王寺さんのお2人からいただいたお話に対して、コメントというと僭越ですが、とにかくなんらかのリアクションを返していきたいと思います。まずお2人ともに対して申し上げたいのは、非常に丁寧に読んでいただいたな、ということです。お2人とも、私たちの企画の意図を見事に汲み取ったうえでお話を展開していただいて、本当に感謝しております。どうもありがとうございます。
 
もちろん、お礼を述べるだけではあまりにも芸がないので、お2人の話に対する補足的な質問をしていきたいと思います。森川さんの見事に収束していくお話に対してはただ一点に絞って深く、王寺さんの実に広範な問題提起に対しては同じように広くお答えしていきたいと思います。
 
森川さんにうかがいたいのは、プライベート/パブリックという概念対に関してです。生殖や生計を強調して家族を特定のかたちに押し込めるという現代日本に支配的な見方を「ちょっとひっくり返せないか、別様に考えられないか」というのが、「この本で目指されていることの1つではないかな」というご指摘はまさにその通りです。本人同士の自由意志で家族をつくるのが「恋愛結婚モデル」だとすれば、さらに「家族像」そのものを当人たちの自由に委ねて構築させればいいじゃないか、と。「一般的には男と女のカップルが基本とされるわけですが、別に男性どうし、女性どうしでもいいし、1人のひとと動物が暮らすのも家族だろう、いろんな結びつき方、いろんな家族のかたちがあっていいだろう」という『愛・性・家族の哲学』のヴィジョンに対して、ただし、それらの多様な家族像にも最小限の共通項はあって、それが「気の合うもの同士が継続的にプライベートな空間を構成するのが家族」という考えであり、「プライベートな空間をもつ人間のまとまりとしての家族、という側面」であるというのが、森川さんの強調された点だと受け止めました。さらに、「家族の空間が内向きになりすぎ、外の世界から完全に孤立すると、抑圧的に作用したり、DVの温床になってしまう」ケースを挙げて、「だから、孤立をよしとするのではなくて、プライベートな空間としての家族をもったうえで、それを外に開いていく」という風に、「孤立」と「プライベート」を繊細に区別しておられましたよね。
 
おおよそ賛成なのですが、あえて議論を盛り上げるために、逆の側面を強調してみると、家族ってそもそもそんなに閉じてなかったんじゃないか。これからもそんなに「世間や社会から隠れて、リラックスできる場所、親密な相手と時間を共有できる空間をもつ、世界の中で自分たちだけの居場所をつくる」ほどプライベートじゃなくてもいいんじゃないか。そういう視点もおそらく必要なんじゃないかという気もしているんです。隠れ家的な感じ、リラックス、親密さはあってもいいけれど、必ずしもなくてもいいんじゃないか。というのは、家族が息苦しいと感じる人たちもいるからです。「親密さがなければいけないはずなのに、どうして我が家にはないんだ」と苦しむ人たちがいるからです。『家族』の巻に収めた僕自身の論文の中で、信田さよ子さんの「すきま風家族」という概念を、共感しながら引用したのはそういう意味においてです。もうちょっとドライで、さらりと、あるいは、ざらっとしててもいいんじゃないか。僕は、「親密性」が家族共同体の核になるべきかどうかは自明ではないと思います。家族はもっと唯名論的な、機能主義的な、プラグマティックな、極論すれば空虚な箱のようなものであってもいいのではないか、とすら思ったりもします(くどいようですが、親密さがあってはいけないとか、無用だと言っているわけではありません)。
 
だから、どうしても「プライベート」や「親密さ」という概念には多少のためらいがあります。家族は閉じてなくても、安らげるんじゃないか。あるいは、もっと厳密に言えば、「プライベート」や「安らぎ」という概念自体がずいぶん幅やゆらぎのある、可能性と限界をそなえた概念で、その中身をあらためて検討していくのも大事な作業になってくるんじゃないか。もちろんある程度の安定化は必要だと思います。グローバリゼーションの中での流動化に対して、安定化を求める動きは当然あって、その場所として家族というのが考えられると思うんですけど、ただ、安定化イコール「プライベート・隠れ家的・リラックス・親密さ」じゃないんじゃないか。
 
テーブルの上にわざわざムーミンを置いていただいたので、それにも絡めて話を継いでみます。自分の論文の中で、ほんの少しムーミンのことに触れていましたし、また同じ『家族』の巻には、赤枝香奈子さんという、昨年までこちら京都の大谷大学にいらして、今年から九州の筑紫女学園大学にいらっしゃる、女性同士の親密な関係を専門とする社会学者の方に、ムーミンや、その著者トーベ・ヤンソンとそのパートナーであるトゥーリッキ・ピエティラの関係性について、コラムを執筆していただいております(「『ムーミン』シリーズに見るつながりの形」)。ムーミンって何となく、ムーミンパパ、ムーミンママ、ムーミンの強固な家族共同体があって、その周りに心優しい友だちがいて、みたいな話に一見みえるんですけど、実は、ミーとスナフキンは兄弟だったり、ミーとスナフキン、ミムラ姉さんを含めて35人の兄弟で、お父さんが全部違う家族だったり、途中からミーがムーミン家の養女になったりするわけですね。そういうことはぜんぶ捨象されて、個々の魅力的なキャラクターだけがクローズアップされて今の「ムーミン人気」があるわけなんですけど、でも同時に、みんな無意識的に、そういったムーミン的な関係性がもつ風通しのよさ、「すきま風家族」みたいなドライさをどこかで感じ、どこかで求めているからこその人気なんじゃないかという気もする。
 
それで、むしろ家族ってもっと閉じてなくてもいいのではないか、というか、そもそもそんなに閉じてないんじゃないかっていうことを表現するために、僕自身は「多孔性」という言葉を使っているんです。フランス語だとポロジテ(porosité)とかポルー(poreux)という言葉です。なんかこう、『トムとジェリー』に出てくるようなチーズ(エメンタールチーズ)みたいに、ボコボコ穴が開いていていいんじゃないかというか、そもそもそういうものなんじゃないかな、と。森川さんのお話に対しては、まずは以上のことを思いました。
 

[「科学なるもの」「学問的な感じ」のマッチョな身振り]

 
藤田 次は、王寺さんのお話に対してですね。先ほども申し上げた通り、王寺さんの広汎なお話に対しては広くお答えしていきます。
 
まず王寺さんのお話の中に、僕自身ももう1回確認しておきたいなと思ったことがありました。それは専門研究としての哲学にかかわることです。王寺さんは称賛に値する率直さをもって、こうおっしゃいました。「愛・性・家族の問題は決して無縁ではありえないし、学問的関心もなかったわけではないのですが、個人的にはどうも苦手意識があって(笑)、結局のところ、大学のなかでは愛・性・家族といった問題にあえて触れないようにしてきました。それに比べれば、「政治哲学」とか「歴史叙述」とかいった、いわば公的かつ脱性化された話の方がずっとやりやすいように感じてきた」と。
 
〔追記:僕はこの点をもっと深く掘り下げたいと思っていて、それがまさにこの京都でのトークセッションの半年後に開催されたUTCPでのワークショップにつながっていきます。いわゆる「専門家」でない者が性をめぐる問題について抱く「語りにくい」という印象を、「語ることの拒否」へと性急に落とし込まず、男性も女性もいろいろな性的志向をもった人々も一緒になって議論できるような回路を開く試みでもありました。「きちんとした学識や前提知識を持っていなければ、そもそも性の問題について語るべきでない」という姿勢は、自らもまた大文字の「科学なるもの」や「学問的な感じ」のきわめてマッチョな身振りを(小文字の、具体的な「諸々の科学」の実験精神をではなく)模倣してしまっているかぎりにおいて理論的恫喝になりうる危険性を秘めており、大文字の「科学」が歴史的に体現してきた男性支配的な構造を無意識的に引き受け反復してしまっているという点で、自壊的な要素を孕んでいるのではないでしょうか。僕は、もう少し違うやり方ができないかどうか探してみたいと思っています。それは、王寺さんがまさに感じていらしたような「個人的に考えてきて、やはり愛や性や家族の問題は自分にとってすごく困難な、難しい問題を突きつけてくるものだったという感覚があります。つまり、僕はそうした問題について、まったく専門的な知見を持ち合わせてはいないわけですが、それでも愛・性・家族という問題については、その自分自身が無縁ではいられない」という感覚を、井戸水を掘り当てるように、根気強く掘り下げていく作業だと思うのです。〕
 

[哲学者が愛・性・家族を語ること]

 
藤田 『愛・性・家族の哲学』を作ろうと思った1つの理由は、それが学生さんたちと一緒に考えていけるポピュラーな主題だからということなんですけれども、でも同時に、もう1つの理由として、実は、哲学者たちにも専門的なレベルで(より厳密に言えば、「ポピュラリティ」と「専門性」が交錯するような新しい形で)問いたいという気持ちがありました。さっき王寺さんが「大学のなかではずっとやりやすいように感じてきた」「政治哲学とか歴史叙述とかいった、いわば公的かつ脱性化された話」とおっしゃった、大学で語りやすい大文字の「学問」、「専門家」として、安心して自分を切り離して話ができる、「プロフェッショナル」として語れる主題に哲学者たちが安住してしまっているという現状があるんじゃないか。
 
王寺さんも、「たぶん、愛・性・家族といった問題について語ることの難しさは、一般性の次元と単独性・特異性の次元の交錯から来るような気がします」とおっしゃっておられましたが、僕は人文学ってもともとシンギュラーなものの科学だっていうふうに思っているんですね。自然科学は普遍性を担保しようとするものであるわけですけれども、普遍性と特異性をどうやって両立させるかみたいなところが人文学にとってはすごく大事なんじゃないか。個人的にはそういうふうに思っていて、だからこそ、愛・性・家族の問題という、誰にとってもどうしてもついて回るもの、本当は真正面から考えなきゃいけない問題に対して、僕たち哲学者あるいは人文学者は応答するように呼び求められているんじゃないか。責任というよりは衝迫のようなものとして。
 
愛・性・家族の問題なんていうのはぜんぜん哲学じゃないと思い込んでいる人たちに、だけどそれはあなた自身にとっての問題、それも哲学的な問題でもあるんじゃないですか、と問いたい。もちろん、誰もが課題にしなければいけないわけではない。しかし、これほど見事にスルーされる現状はどうなんだろう、それはちょっと問いたいなという気持ちがあったんです。これがまず第1点目です。
 

[自己決定の「割り切れなさ」にこだわる]

 
藤田 次に2点目ですが、子どもは性の主体ではないのかという話のときに出てきた、自己決定の話です。王寺さんは、性を超越した「自己」が身体の外にあって、その身体を自分が勝手に処分できるというようなイメージで語ることに対する違和感について話されましたよね。そんなふうに性的に「自己決定」することができるのか、自分のセクシュアリティなり身体なりとの関係って、そんなふうに選択できるものだろうか、と。しかし同時に、「だから引き受けるほかないものなんだというつもりはありませんが、それでも、自分の身体とのかかわり、否応なく性化された身体とのかかわりには、自分の意志だけではどうにもならない部分があるんじゃないかという疑問が残る」という形で留保も表明されていた。
 
僕が問題にしたいと思っているのはまさにそこなんです。『愛・性・家族の哲学』というこの本は、さっき王寺さん自身も言われたように、2つの立場を両方入れているんですね。一方では、「性的自己決定はやっぱり必要」と主張しないといけない。特に、法的・制度的・政治的な改革や改善のためには、「個人による自己決定」を言わないといけない局面がたしかに存在する。でももう一方で、「性的自己決定だけで押していけるわけじゃない、この概念には限界もある」ということも言っておかないといけない。これは同時に、「個人」という概念の限界でもあると思います。「なんでも個人主義で押し切っていけるわけじゃない」と。森川さんも、愛・性・家族には、自分の意志だけで左右できない次元があるんじゃないかとおっしゃっておられましたし、王寺さんは、古い言葉で言えば「運命」ということになるのかもしれず、愛・性・家族の問題が往々にして宗教や文学と結びつけられてきた理由でもあるだろう、と指摘されておられました。何でも「自己決定」で割り切れるのか、と。
 
僕がこだわりたいのは、この「割り切れなさ」なんですよね。そして王寺さんにうかがいたいのは、この僕たちの態度自体の哲学的な正当性はどうなんだろうかということです。さっき使われた言葉でおもしろいなと思ったのは、「恐れと慄きとともにどうなんだろうって問う」という言葉です。この本を作る姿勢って、まさにそれだったんですよね。性的自己決定に対してもその両方の姿勢がいま必要なのかなって思っているんですけど、同時に、これは方法論として成り立っているんだろうか、とも我ながら思う。単なる妥協、単なる折衷主義とはどう違うのか。僕自身は――ヘーゲルが死んだ犬扱いされていたときに、マルクスが「弁証法」を持ち出した姿に自分を勝手に重ねつつ――デリダの「脱構築」という急速に古ぼけつつある概念を取り上げ直すことで、その問題に答えられるのではないかと考えているのですが、この「割り切れなさ」に対しての王寺さんなりの答えを聞きたいなと思いました。これが第2点目です。

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