《ジェンダー対話シリーズ》第4回 王寺賢太×森川輝一:愛・性・家族のポリティクス(前篇)

「ジェンダーとかセクシュアリティとか専門でも専門じゃなくてもそれぞれの視点から語ってみましょうよ」というスタンスで、いろいろな方にご登場いただきます。誰でも性の問題について、馬鹿にされたり攻撃されたりせず、落ち着いて自信を持って語ることができる場が必要です。そうした場所のひとつとなり、みなさまが身近な人たちと何気なく話すきっかけになることを願いつつ。
Published On: 2017/5/17By

[そもそも性とは何か]

 
藤田 3点目は、そもそも性とは何かという点です。性的自己同一性の選択権を認めることは、一方では「法的権利の拡張」のために必要だけれども、他方で「実のところ、すでに制度化されたものとしてある性別を選ばされているにすぎないのかもしれない」という懸念ももっておくべきだという王寺さんの指摘にはまったく同感です。「男性器をそなえつつ、自分を女性として同定している人が、まさにそのように性別化された存在としていてもよいはずであるにもかかわらず、それが既存の制度内の選択の問題、法的登記の問題にされてしまう」ことで得られるものと損なわれるものの両方を考慮に入れる大切さ、無限に多様なグラデーションとしての性を、二項対立的な「男性/女性」、あるいは「LGBT」――最近は「LGBTQ」とか「LGBTPZN」とか加速度的に多様化していますが、それでも――という固定的な項目に押し込めてしまうこと自体の必然性・有用性・意義と同時に、それによって別の可能性を模索する余地が狭められてしまうことの危険性・問題・限界も忘れてはいけない。『性』の巻の池袋さんとの対話で(第2章「身体・自己・性をめぐる池袋真との対話」)、この議論をさらに進めて、「心の性」というときに、どうして「心は男性」とか「心は女性」と言わなければいけないのか、単に「性化された」「性別化された」ということではいけないのか、という問題提起をしました。

[結婚・家族制度の強化と内側からの浸食]

 
藤田 4点目は、結婚や家族という制度の戦略的重要性の意義をどう見積もるかという問題です。王寺さんは、同性婚合法化の世界的な流行を例に挙げて、1960〜70年代には結婚とか家族という制度自体を問題化しようとするような、非常にラディカルな主張が主流であったのに対し、現在では、セクシャル・マイノリティの運動が、既成の法制度の拡大、既成の法制度のなかでの権利承認という1点に集約されるかのように語られることについては、強い違和感がある、とおっしゃっておられました。「それはたしかに既存の結婚や家族制度の多様化ではあるのでしょうが、結婚とか家族といった制度自体は、その多様化によってかえって拡張され、強化されながら、自明のものとされているように見える」とも言われました。個人的には、「家族制度自体を問題化する」というときの「問題化」が何を意味するのか次第かなという気がしています。「家族制度に参入するという選択肢一択しかない」という状況に対してはもちろん多様化の必要性を強く訴えなければなりませんが、同時に、しかし、あたかも家族制度が完全に消滅しても人間社会の安定性が支障なく担保されるかのようなヴィジョンを描くとすれば、それはいささか夢想的にすぎるのではないか。おそらく王寺さんもそこまでは主張されないでしょうから、そうすると、家族制度の多様化と制度外の余白の確保の両方が必要という点では一致を見ているわけで、あとはバランスというか、論じ方の問題ということになるのではないでしょうか。2人のヴィジョンの違いは、半熟卵を「かたすぎない」と表現するか、「やわらかすぎない」と表現するかというくらいの違いなのではないかと感じておりますが、どうでしょうか。
 

[愛・性・家族のエコノミー]

 
藤田 最後の点は、財産、経済に関する問題です。僕の結婚論・家族論には、財産の問題が抜け落ちているけれども、結婚や家族を法制度の面から考える際に、この問題は家族制度の中心に据えられた大問題だ、結婚や家族は性愛の問題以上に、財産の所有や取引や相続の問題と切り離しては考えられないのだというご指摘です。これについては、次のようにお答えしたいと思います。僕は「結婚の形而上学」の第二公理として、所有(property)と優先権(priority)を挙げ、結婚を「排他的な私有財産の一形式」とみなしていた青年マルクスは単に「物的な財産の放棄」を言ったのではなく、「あらゆる形の所有の放棄」を提案していたのだと指摘したとき、たしかにいささか手早くパートナーの「相互所有」や「優先権」というアドルノが見事に指摘した問題に移行してしまったかもしれませんが、そのとき財産の問題を意識していなかったわけではありません。ブックガイドの中でさりげなくクロソウスキーの『生きた貨幣』を引用しているのがその何よりの証左ですが、「経済」というよりも、より広汎な「エコノミー」の次元で資本主義経済の問題と、愛・性・家族の問題を接合できないかと考えており、この点でも、分人主義的観点から問題をみることは有益なのではないかという見通しをもっています。以上5点が王寺さんへの応答ということになります。長くなってすみません。

[家族を非家族的なものから区別する境界は必要]

 
森川 はい。ありがとうございます。さきほど、時間を守って報告しただけで法学教員扱いしていただき、感動しております。私は一応法学部の所属ですが、法律のことは何も知らず、政治思想史と称して何だかよくわからないことをやっている教員、という位置づけなので、あ、やっぱり俺って法学部の教員なんだ、とアイデンティティを久しぶりに確認することができました。ありがとうございます。で、藤田さんからのご質問に、手短にお答えさせてもらうことにします。さきほどの報告では、家族というのを「プライベートな空間」と捉え、パブリックな世界と区切って考えてみる、という話をさせてもらったわけですが、それに対して藤田さんは、家族を閉じた空間としてではなく、もっと開かれた場所として考えるべきではないか、と問題提起をしてくださいました。「多孔性」という言葉を使われていましたが、つまり家族というのはボコボコ穴がいっぱい開いていて、いろんな関係性に開かれており、ここまでが家族で、ここから先は家族じゃない、という境界線そのものをずらし、脱構築する方向で考えてみては、ということかと思います。報告でも申し上げたとおり、私も家族という空間が閉じたものであるべきだ、とは考えていません。とはいえ、プライベートな空間として、パブリックと区別する以上、家族を家族でないものから分離してしまう発想ではないか、と言われれば、そのとおり、ということになりますね。
 
1つには、家族とは何かを問う以上、家族というものを、非家族的なものと区別する境界を設定しないと始まらないのでは、ということがあります。家族のかたちは何でもアリ、とは思わないし。さきほど王寺さんの話を聞いていて思ったことですが、やっぱり子どもを性的対象にするのはダメだろう、まして、親が自分の子どもを性的快楽の対象にするようなことは許されないだろう、と。DVもそうですが、これはやってはいけないという規範的な縛りは、家族のなかにもなければいけない。もっとも、こういう考え方は「正しい家族ってのはこれだ」というかたちで抑圧的に作用する危険もあるので、とりあえず「空間」という視点から考えてみてはどうか、と私は思ったわけです。
 
要は、われわれは生きていかなければならず、生きていくためには安定した空間が必要であり、そういう空間として家族を捉えてみてはどうか、ということです。そうすると、パブリックとプライベートという区別は、かなり歴史的に限定されるものであるにしろ、近代が生んだ1つの成果として、とりあえず考察の出発点にはなるのではないか、と。たとえば、かつての「國體」のように国家と家族を一体化させるのはまずいし、といって家族が他の社会的関係から完全に孤立したユニットとなるのもよくない。そう考えたときに、家族というプライベートな存在を、生計とか生殖という国家や社会が要請する機能ではなくて、「居場所」として捉えてみて、そこからどこまで広げて考えていけるか、というふうに問題を設定してみたらどうか、と思ったわけです。

[強くない人間たちが安らげる家族のかたち]

 
森川 なんで「空間」にこだわるのかというと、人間ってやっぱり弱い存在で、隠れ家が欲しいものじゃないか、と思うからです。まあ、私自身が弱っちい人間だから、そんなふうに考えてしまうだけかもしれませんが。それに対して、そういう「隠れ家」的な、親密でプライベートな性質にこだわらなくてよいのでは、というのが藤田さんの問題提起ですよね。「隠れ家」だから孤立化しやすく、また「親密さ」を強調すると、そのこと自体が人々の家族観に抑圧的に作用しかねない、というご指摘は、そのとおりだと思います。でも、だからといって藤田さんのように、家族はもっと「唯名的」で「機能主義的」で「プラグマティック」でいい、いっそ「空虚な箱」でいい、と言い切ることができるだろうか。というのは、空虚な箱としての家族を生きられるのは、ドライでさらりとした関係性をよしとし、その流動的な変化を楽しみながら主体的に参与できる――先ほどの藤田さんのコメントの中にも「個人」という言葉が出てきましたが――、相当に「強い個人」ではないか、と思うからです。たとえば、藤田さんの論文のなかで、「分人主義」(平野啓一郎)や「ポリアモリー」や「ポリファミリー」(深海菊枝)という話が出てきます。個人というものを、単一の自我というコアをもった堅い殻としてではなく、複数の関係性のなかで常に生成途上にある人格として考え、その線で家族を脱構築する、というお話で、非常に共感するし、基本的には同意するのですが、他方で、異なる「分人」(dividual)を抱えて生きるのは結構しんどいよなあ、そんなことができるのは、相当に強い個人(individual)だけなんじゃないか、俺そんなに強くないっす……なんて情けないことも思うわけです。この手の話についてまわる、個人の脱構築を遂行できるのは、実は強い個人である、というディレンマというか。ポストモダン的な主体って、実は新自由主義的な個人と親和的なんじゃないの、という指摘もあるわけでして。いろんな関係性への開かれのなかを生きるにしても、人間というのはさほど強い存在ではなく、どっか落ち着く場所、安らぐ空間が必要だろう、という視点は重要ではないか。そういう居場所、空間として、家族を考えられないか。
 
ムーミンを論じた赤江さんのコラムは、私もおもしろく拝読しました。藤田さんもさきほど指摘されたように、ムーミンたちの家族はぜんぜん閉じていなくて、「多孔性」の家族ですよね。けれど、ムーミンたちのゆるやかで開かれた関係性が、「ムーミン谷」という一定の場所に根ざした、いわばコミュニティとしての性格をもっていることも重要なんじゃないでしょうか。言い換えると、関係性が変化と流動性に開かれたものであるためには、人々の関係性が根を下ろすための安定した空間が必要であり、その空間は完全に「空虚」で「機能主義的」なものではない、のではないか。後でお話ししようと思っているのですが、ここには資本主義の問題が大きく関係してくる。つまり、家族がもつ諸機能の多くがアウトソーシングできてしまう現代の諸条件のもとで、はたして家族固有の要素として何が残るのか、あるいは何を残すべきなのか、と考えたときに、プライベートな空間ないし場所としての家族、という要素が重要では、ということなんですが、そのあたりについてはまた後半でお話しできればと思います。
 

[だれも性的な規定からは逃れられない]

 
王寺 藤田さんからのお話の1つは、この本が哲学者に対して、愛・性・家族をちょっと考えてみようっていう呼びかけや問題提起でもあったということですね。うん、その点ではこの本は成功していると思います。多くの哲学者を糾合して書かれた本だし、まあ僕が哲学者を自称するのもなんですが、僕自身、性・愛・家族といった問題については私的にいろいろ悩まされながら――本当に、どの次元においてもいろいろ悩まされているんですけど(笑)――こういうパブリックなかたちで考えたり、言葉にしたりすることはなかったわけだから、そうした学問的な現状に対する問題提起はとても大事なことだと思うし、こうして機会を与えていただいたことには感謝しています。
 
〔追記:つけ加えておくと、先ほど僕が大学のなかでやりやすいと感じてきたと言った「政治哲学」や「歴史叙述」にしても、それこそ国民主権の法的擬制の下で生きているわれわれにとっては、単に距離を持って客観的に語れる対象ではありえないはずですね。その機微は、人民主権の理論家であったルソーが、同時に最初の近代的自伝作家でもあったというところにも探りあてることができるかもしれない。にもかかわらず、「政治哲学」や「歴史叙述」をある意味で安心できる学問的対象として僕が選んできたということは、自嘲気味に言っておけば、大文字の学問のマッチスモと大学の分業体制のなかに、僕自身「頽落」してきたところがあるのかもしれません。〕
 
それに絡めていうと、これは編者のお2人にはすでに申し上げたことですが、先ほどの藤田さんのコメントにも出てきたように、ちょうどこの『性』の巻に、LGBTの当事者とお2人の対談があります。そこで、当事者の方が、自分は身体的には女性だけど、心は男性で、男性として性的対象に選ぶのは男性であるという話をされた際に、藤田さんと宮野さんが口を揃えて「心の性」、これは要するにいわゆる「ジェンダー」だと思いますが、その「心の性」っていうのはわからない、と反論するんですね。要するに、「心の性」というのは、それは今ある女や男のイメージを選ばされているだけなんじゃないかという趣旨の発言です。そこは未決定にしておいてかまわないんじゃないかという意図があったと思います。でも同時に、お2人はその発言をそれぞれ、「僕」はわかんない、「私」もわかんないっていうかたちで言っている。お2人の発言そのものは、ばっちりジェンダー的規定を受けているわけです。僕はその一節を読みながら、これぞ行為遂行的矛盾じゃないかと少しおかしかったんですね。言い換えれば、性的な規定を超越してセクシュアリティについて客観的に語れるような立場なんてない、ということを思わされたのです。
 
性やジェンダーに関していえば、その固有の難しさの一面は、「自己」と「身体」の関係から来るだろうと思います。先ほど挙げた、ピルの使用を女性の性的自己決定の立場から擁護する論文(『性』第5章「ピルと私たち:女性の身体と避妊の倫理」)を書いた相澤伸依さんは、昔、僕の授業に出ていた学生で、なかなか馬力ある論文をとてもおもしろく読んだのですが、彼女が女性の性的自己決定を持ち出すときにも、しかしすでにその自己は性別化されてるんじゃないか、女性性を引き受けて初めて選択の問題が生じるんじゃないか、ということを感じました。そうした、主体として身体的に、あるいはジェンダー的に規定されていることと、その規定を超えていく部分の主体の絡み合いをもうちょっとデリケートに扱うべきではないかなと感じたわけです。
 
もう1つ、他者との関係という視点も欠かせないだろうと思います。森川さんが言われたとおり、人は好きになれって言われて好きになれるもんじゃないし、あなたを愛していますと言われたからといって、その相手を愛することもできない。欲望する主体のありかたは、単なる自己の意志的な決定や、インフォームド・コンセントで汲みつくせるものではないはずです。まさにその部分をどう考えるかということが、最初に言った一般性によっては汲み尽くせない、それぞれの主体のシンギュリティにかかわることのように思いますが、それについてはまたあとでお話しすることにして、もう1つ、人が欲望される存在でもあることが、性やジェンダーに関して、自己決定論では割り切れない次元を否応なくもたらすのだとも言えるように思います。いずれにせよ、性・ジェンダー問題は、1つの主体の物語からみることはできず、どうしても実に偶然的な「出会い」の問題と切り離せないだろうということですね。
 
そのうえで、「性的自己決定」論による合法化の論理に乗るべきか、あるいは婚姻や家族制度をより根本的に問題化すべきか、あるいはまたその双方の要請に応えるとしたら、その哲学的な拠り所はどのあたりにあるのかという藤田さんからの大問題に、僕なりに回答を試みてみます。たしかに、僕自身、性的自己決定論に対する疑問にもかかわらず、性的自己決定権を主張する人たちが求めるジェンダー・フリーやセクシャル・マイノリティの権利擁護、合法化の要求をそれとして退けるつもりはありません。たとえば同性婚の合法化に対しても、積極的な異論があるわけではない。だから、そのかぎりでは、藤田さんと同様、僕も折衷的な立場、二重の立場をとるということになるでしょう。ただし、現在の状況では、その合法化の論理だけに自足していてはつまらないよ、ということはあえて強く言っておいたほうがいいように思います。今のところ、この件に関して僕に言えるのは、そういうプラグマティックな選択の問題でしかない。そして、婚姻なり家族なりを問題化するという際に――僕も藤田さんが所有問題を無視していると言ったつもりはないのですが――、法的な観点から言えば、もう一度、婚姻・家族問題と、財産の所有や相続の問題を前面に出して考えてみることは大きな手がかりになりうるんじゃないか、と感じているということになります。きわめて通俗的に言えば、現在、セクシャル・マイノリティの権利要求が、「衣食足りて礼節を知る」「意識高い系」の言説として流通している、あるいはそのようなものとして「バックラッシュ」を浴びているだけになおさらです。だとすれば、所有・相続問題ともう一度結び直すことで、ジェンダー問題とは少し違った観点から、婚姻・家族問題をもう1回考えてみてもいいんじゃないか。(後篇へつづく)
 

第4回の《ジェンダー対話シリーズ》、いかがでしたか。フェミニズムやジェンダー・セクシュアリティについて、専門家を含めて多くの人が語りにくい空気を感じているいま、いろいろな立場からの、まとまったりまとまらなかったりする話をお届けできればと思っています。後篇は「愛」について、大いに語っていただきます。家族をつなぎとめるイデオロギーとしての愛、乗り越えられない他人との溝をかろうじて超えることを可能にする愛、愛国や郷土愛など政治的な愛……、愛もまた多様です。こちらもお楽しみに。[編集部]
*《ジェンダー対話シリーズ》第4回「愛・性・家族のポリティクス」は、2016年5月13日に京都大学生協ルネ書籍部で行われた「ボク/ワタシたちをつなぐもの――愛・性・家族のポリティクス」(登壇者:王寺賢太、森川輝一、藤田尚志、宮野真生子)を元にしています。なお、本イベントの書き起こしは、科学研究費基盤研究(C)「フランス現代哲学における主体・人格概念の分析(愛・性・家族の解体と再構築を軸に)」研究課題番号:16K02151(研究代表者:藤田尚志)の助成を受けています。また、ウェブでの掲載にあたり、ナカニシヤ出版様のご協力を得ました。記して感謝申し上げます。

 


 
 
【登壇者プロフィール】
 
王寺賢太 京都大学准教授。博士(文学、パリ西大学)。思想史。共編著に『現代思想と政治:資本主義・精神分析・哲学』(平凡社、2016年)、共訳書にドニ・ディドロ『運命論者ジャックとその主人』など。
 
森川輝一 京都大学教授。博士(法学)。政治思想史。著書に『〈始まり〉のアーレント:「出生」の思想の誕生』(岩波書店、2010年)、共編著に『政治思想と文学』(ナカニシヤ、2017年)など。
 
藤田尚志 九州産業大学准教授。博士(哲学、リール第三大学)。フランス近現代思想、アンリ・ベルクソン研究。編著に、シリーズ『愛・性・家族の哲学』1~3巻(宮野真生子と共編、ナカニシヤ出版、2016年)。現在、「けいそうビブリオフィル」にて、『ベルクソン 反時代的哲学』を連載中(近刊)。
 
宮野真生子 福岡大学准教授。京都大学大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。日本哲学史、九鬼周造研究。著書に『なぜ、私たちは恋をして生きるのか−−「出会い」と「恋愛」の近代日本精神史』(ナカニシヤ出版、2014年)、編著に、シリーズ『愛・性・家族の哲学』1~3巻(藤田尚志と共編、ナカニシヤ出版、2016年)など。
 
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第3回 息子の『生きづらさ』? 男性介護に見る『男らしさ』の病
第2回 性 ――規範と欲望のアクチュアリティ(後篇)
第1回 性 ――規範と欲望のアクチュアリティ(前篇)

「ジェンダーとかセクシュアリティとか専門でも専門じゃなくてもそれぞれの視点から語ってみましょうよ」というスタンスで、いろいろな方にご登場いただきます。誰でも性の問題について、馬鹿にされたり攻撃されたりせず、落ち着いて自信を持って語ることができる場が必要です。そうした場所のひとつとなり、みなさまが身近な人たちと何気なく話すきっかけになることを願いつつ。
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