ジェンダー対話シリーズ 連載・読み物

《ジェンダー対話シリーズ》第2回 隠岐さや香×重田園江: 性 ―規範と欲望のアクチュアリティ(後篇)

 
 

「ジェンダーとかセクシュアリティとか専門でも専門じゃなくてもそれぞれの視点から語ってみましょうよ」というコンセプトのもと、《ジェンダー対話シリーズ》が始まりました。誰でも性の問題について、馬鹿にされたり攻撃されたりせず、落ち着いて自信をもって語ることができる場が必要なはずです。そんな場所を模索していきたいと考えています。
シリーズ第2回は、第1回めにひきつづき、隠岐さや香さんと重田園江さんをお迎えして開催された『愛・性・家族の哲学』(ナカニシヤ出版)出版関連イベントでのお話をお送りします。隠岐さん、重田さんの話を受けて、宮野さん、藤田さんのコメントを織り交ぜ、熱いトークが繰り広げられます。シリーズ早々、前後篇にわたってのスタートとなりましたが、身近な人たちと語り合うきっかけになることを願っています。【勁草書房編集部】

 

第2回 性 ――規範と欲望のアクチュアリティ(後篇)

 
隠岐さや香×重田園江×筒井晴香×藤田尚志×宮野真生子
 
←第1回:性 ――規範と欲望のアクチュアリティ(前篇)はこちら
 

[女性研究者のおかれている状況]

 
重田園江 女性の性規範に関しての、その枠とか、承認要求の満たされ方というのがこうなっているという話はここまでで、今日はちょっといろんな話が出てくるんですけれども、2つ目のテーマとして、「女性研究者と性」ということでちょっとだけお話ししようと思います。
 

重田園江(おもだ・そのえ) 東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。明治大学教授。政治思想、ミシェル・フーコー研究。
これはそれこそ、今までの話だって何の専門でもないけれども、これだって専門でもなくて、隠岐さんの話とちょっとかぶるかと思ったら案外かぶっていなかったのでお話します。私の話というのは、まず「ポスドクの年齢構成と女性比率」ということで、要するに研究者としての女性がどういう位置にあるかということなんです。データを見ていただくと、年齢が上がっていくと、ポスドクの中でどんどん女性の比率が上がっていくんですね。要するに、職にあぶれちゃっているという人たちのなかで、年代が上がるごとにどんどん女性の割合がふえていくということです(https://scienceportal.jst.go.jp/news/newsflash_review/newsflash/2014/06/20140606_02.html)。
 
で、研究者の女性比の国際比較で見ると、ここが日本なんですね。ここですよ、これ。なんか驚異ですよね、これっていう……(http://www.nistep.go.jp/wp/wp-content/uploads/mat209j.pdf viページ)。
 
高等教育機関の女性比と、高等学校教員の女性比というのも、どこに位置するかと見るとこれなんですけれども、非常に少ないということで、その少ない中で何が起きているかを簡単に見てみたんですけれども、国立大学の非常勤講師の女性比率という表を見ると、専任教員が青で、これが女性の比率なんですけれども、「本務を持たない非常勤講師(60歳未満)」というところだけが、女性の割合が圧倒的に高いんですね。つまり、女性の研究者が得られている職の実態というものが非常によくわかる(http://www.janu.jp/active/txt6-2/201502houkoku_01.pdf 図II-4-1)。
 
で、こっちのグラフもほぼ同じようなことを言っていて、採用・転入における女性比率ということで、「採用・転入」について「教授」「助教授」――この11回調査というのは2015年なんですが、古いデータも入っていて、以前は「助教授」という名称になっていますけれども――「講師」「助教」「助手」となっていて、その中で圧倒的に高いのが助手です、女性の採用・転入比率が。助手の次が講師となっていて、女性はポストそのものを非常に得にくい。得にくい上に、女性の職は助手とか非常勤に偏っているということが、ある程度わかるのではないかと思います(図II-5(1))。
 
で、このような形で、女性研究者というのが非常勤職に置かれてつづけているということはやっぱりおかしいですよ。おかしいから変えるべきなんですが、これが現状だということです。
 

[ハラスメントの現場から]

 
重田 時間がないので、ここからかなりざっくり話を進めます。「ハラスメントの現場から」という話題なんですけども、今みたいな話があった上で、では、大学の中での女性差別がどういう形で――アカデミック・ハラスメントって女性とは限らないんですけれども、男性・女性の間で起こることが多いということでちょっとお話しします。『アカデミック・ハラスメントの社会学』(湯川やよい『アカデミック・ハラスメントの社会学:学生の問題経験と「領域交差」実践』ハーベスト社、2014)という本があって、きょう持ってきてくださった方がいるようで、私は持ってきていないんですが、この本、とても字が多くて、読んでいると途中で挫折しそうになるんですけれども、とてもいい本で、著者の湯川さんという方が提起していらっしゃる問題として、アカデミックな場でのセクハラをめぐって、とても複雑な事情があるということなんですよね。
 
この話は難しくて、この後、簡単な、佐々木力の話をするんですけれども、ちょっと先に難しい話からしておくと、ある事柄がセクハラであることと、セクハラ目線で解釈していることとの関係はどうなんだろうということなんですね。
 
で、これは、例えばインテーカーというのはセクハラについての聞き取りをする人なんですけども、インテーカーとか、あるいはセクハラについて解釈する人が、セクハラとしてとらえてしまう「典型的な設定」というのがあって、そういう枠ができてしまっている中で、実際に起こっていることを正しく理解できるのかという、非常に繊細な問題があるだろうということです。
 
これは何をおっしゃっているかというと、セクハラ事件においてはしばしば、加害者・被害者の二分法というのがまず出てくる。で、被害者に対して固定観念を持たれやすい。この固定観念というのは、たとえば被害者を「受動的な無力な学生である」というふうに思い込むといったことです。それが何を引き起こすかというと、次のようなことらしいのです。当事者が必ずしもセクハラの被害/加害というような枠組みで事態をとらえていないようなケースとか、微妙なケースというのがある。例えば先生・学生の間で、ハラスメントなのかどうか、ちょっとわからないというような事例というのが非常に多い。
 
その場合に、当事者の意味理解とか、それに基づく関係構築の時間的変化(たとえば学生が先生への対処のしかたを変えることで関係を変化させる)というようなものがあって、当事者も成長していくし、当事者もその意味理解に基づいて行動を変化させていくことがしばしば見られる。ところが、聞き手や解釈者の側がそれを理解できなくて、学生は無力な被害者だ、加害者は悪いおっさんだ、みたいな感じでとらえてしまうことによって、微妙な、当事者にとっての意味理解とか、当事者が一人の研究者として自立していく過程全体の中で、この問題をとらえるのを難しくしている、というようなことを指摘されていて、これはなかなかおもしろいなと思ったんです。
 
何がおもしろいかというと、例えば「女性が数合わせに使われるなんて腹が立つ」というようなことを言う場合ってあるんですよ。私たちの学部なんかでも、委員会をつくるときに、一人女性を入れておこうというと、必ず、女性は少ないから、ああ、じゃあって入らされるんですよ。で、女性の数合わせのために自分が入らされると、まあ、仕事がふえるからなんだけれども、なんか嫌だなと思ったりするんですよ。
 
でも一方で、女性を数合わせに使うのっておかしいというふうに言っている側が、他方では、例えば女性という存在を自明視して、女性だからこうされているはずだという思い込みに基づいて論じている場合がある。これは、被害/加害の関係の中での、「無力な学生」像だとか、受動的な被害者という構図となんかちょっと似ているところがあると思うんです。「女性だからこうされる」というふうに言うことによって、「理系女専用ブースなんて嫌だね」とか言っているけど、実は女性だから数に入れておこう、理系女子を大事にしようっていうような意識と、女性だから無力でセクハラの標的になるという前提で物事をとらえる意識って表裏になっているんじゃないか、というような話です。
 
あまりうまく言えなかったんだけれども、被害/加害の間でのある種の、被害者の側の肩を持つ人たちが、加害者と同じ思い込みというか枠組みを共有しちゃっていることによる、共犯みたいな構図がやっぱり、ハラスメントにおいてはしばしば起きるということだと思います。
 
つまり、意図とか理解というのも、構成されたり再構成されたりするから、被害/加害ということとか、あるいは、ある事態がセクハラかどうかということに関しても、二分法でくくりにくいところがあるわけです。当事者はそのときそのときの関係の中で意味理解をしていて、関係の変化とともにそれが変わっていく。だからといって、セクハラがあったかなかったかに関して真実が全然ないということでもないという、難しい話になってくるんですけども、そういうことをおっしゃっていて、これはおもしろいなというふうに思いました。こういう微妙な話がある一方で、男性中心主義の無自覚的な反復というのは依然としてどこにでもある。だから、男性中心主義と、それを批判している人たちが、実はある男性/女性のイメージを共有しているのっておかしいという話なんですけども、この男性中心主義というのがどういうものかという、それが無自覚に流通しているというのの典型例がこの人です(パワポ提示(佐々木力『東京大学学問論』作品社、2014の書影))。
 

[加害者側の無自覚]

 
重田 駒場にずっといらした方ですよね。しかも科学史ですよね。私、直接知らないのでこんなことを言っても全然平気なんですけれども、知っている人だったら、もしかしたら「えっ」ということかもしれない。だからこそここで言いたいなと思って今日あえてこれを持ってきたんですが。駒場でやるからにはこれを言おうと思って。これは牟田和恵さんという方が非常に鋭い批判をされていて、『現代思想』2014年10月号の「大学崩壊」って、――ちなみにこの雑誌は、崩壊した後にもう1回大学特集をやっていて、崩壊させておいてもう1回特集かっていう(笑)――それに出ていたんですけれども、ここで牟田さんがおっしゃっているのは、この駒場のセクハラ事件で、当事者間のずれというのはどこにあるかということなんです(牟田和恵「ハラスメント問題が映し出す大学の病」)。この事件では、事実に関しての見解は、した側とされているほう(佐々木氏)も、された側とされているほう(学生)も、一致しているんです。つまり、事実そのものは双方とも同じことを認めているので、「ズレがあるのは事実についての「解釈」なのだ」(p.158)というふうに牟田さんは書いています。そして、佐々木氏のさきほど挙げた著書から、氏の主張として、自分自身についてはハラスメントに当たらない、しかし「本物の各種ハラスメントには当然猛反対である」(p.119)という引用がされているんですね。
 
ここで、どこにずれがあるかというと、佐々木氏の側には、性的行為を繰り返すようなものだけがセクハラである、という理解がある。ヨーロッパ旅行に同行しないことによるしつこい叱責や、そこから生じた不眠は軽微なトラブルだというふうに認識している。で、「セクハラは、厳しい指導に耐えられない女子学生がでっち上げたものだ」と言っている。
 
牟田さんはこれについて、「佐々木氏はじめ、氏の行っているような主張に同調する人々がつねに言い立てるのが、セクハラはじめハラスメントが、大学や組織の方針に抵抗するものを排除する道具になっている」(p.164)と、こういうふうに書かれています。
 
ここで、佐々木さんの本の目次を見ると、これは『東京大学学問論』という非常に分厚い本で、学問論がいっぱい書かれているんですけども、この中のここですね、3章のところで、要するに、自分はハラスメントしていない、不当だと主張されているんですけれども、前後を読んで、この部分が真ん中に挟まれているというのを見ると非常に、気分がさらに悪くなるんですよね。要するに「国家貴族」養成所としての東京大学、国策の担い手としての東京大学によって罠にはめられた被害者だ、というようなことを主張されているわけです。
 
この本について、牟田さんがどういうふうに評しているかというと、ちょっと読みますが、「これまでの大学が、果たしてどれほど公平でひらかれたものであっただろうか。……大学ファカルティーの極端なジェンダー差、博士号取得者の中でもとくに女子学生が専任ポストを得にくく排除されがちであること」というふうに、さっきちょっとグラフで見たんですけども、まさにそうですね。
 
で、「大学職員の中で非正規化が進み短期間で契約切れとなって切り捨てられる官製ワーキングプアはほとんど女性である」と。この中には、「「大学改革」のなかで一層深刻化しているものもあるが、しかし多くは、大学改革の以前から長年にわたって積み重なってきた女性差別の結果である。しかしそれらはこれまで、大学の抱える主要問題として真剣に問題とされるどころか、ほとんど放置され無視されてきた」(p.165f)とおっしゃっている。
 
前に戻ってみると、佐々木氏は、自分はむしろ左翼的な教員である、そのため、現状の東京大学のあり方に対して非常に批判的だ、だから自分がセクハラで訴えられたんだ、みたいなことを言って、それは自分に対する罠だみたいなことを多分本気で――多分じゃなくて、100%本気で言っているようなんですよ。
 
こういう形で、批判的教員とか左翼的立場とかいうこととセクハラ冤罪とを結びつける言説というのは、実は結構あると思います、私は。ただ、データがあるわけではないので数値では言えませんが、こういう言説が一方であるということはたしかです。
 
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「ジェンダーとかセクシュアリティとか専門でも専門じゃなくてもそれぞれの視点から語ってみましょうよ」というスタンスで、いろいろな方にご登場いただきます。誰でも性の問題について、馬鹿にされたり攻撃されたりせず、落ち着いて自信を持って語ることができる場が必要です。そうした場所のひとつとなり、みなさまが身近な人たちと何気なく話すきっかけになることを願いつつ。