木からおなじように落ちても、秋や冬と、春とではちがう。春に落葉ということばはあまり耳にしないようにおもうけれど、実際にはよく落ちる。春の落葉、という言い方があるのか、あったとして定着しているのか、よくわからない。秋から冬にかけて、色が変わって木から落ちる葉がある。変わらないで落ちる葉がある。春ならまず緑のままだ。そして枯葉ではなく、もっとみずみずしさがある。すくなくとも実家の庭にはそうしたものばかりだ。
――これは?
――これは?
フジの萼を掃いていためいのサイェは、池に面した庭石のそばに小さな花をみつける。石と石の小さな、ほんとに小さなすきまに、二三センチの緑があって、五ミリにみたないつぼみや花が咲いている。こたえられることはあまりない。「サクラソウ」と、ごくまれに言えるときにはほっとする。
もうすこしでフジが咲く。いくつかはわずかに咲いているものもある。一匹か二匹だけ、先走って来ている蜂がいる。
咲いているのはモクレンだったり、ボケだったり、ヤマブキだったり。こちらには、蜂は来ない。
庭だけでなく、家の外、公道のほうも掃くようにと言われていた。
庭からすこしはみだしてしまった木の枝がある。庭から外に飛んでいった葉や花がある。道路をへだてた隣家の木から落ちたものが、こちらに寄ってきていたりもする。
――道も掃くの?
サイェが訊ねてくる。
そうだよ。
道はみんなのものだ。みんながみていかなくちゃならない。みんなできれいにつかわなくちゃ。何かが落ちていたら拾う。多くの人たちは通り過ぎてゆく。マンションに住んでいる人たちは、道のことを考えたりすることはあまりない。建物のなかは管理人さんや掃除の人がやってくれる。庭があると、家があると、その敷地にそった道はみておかなくちゃ。たとえよごした人がべつのひとでもね。
箒をかえて、道を掃く。ちりとりも持っていく。庭の土とコンクリートとは、ちょっと違った感触がある。地面にふれたり、引きずったりしたときの音も違う。庭に落ちている葉や萼とは違ったものがあって、それぞれに、ちりとりに掃きいれるときの要領が違う。ときにはトングで拾わないとならない。
秋とはちがって、それほどまめに掃除をする必要はないし、それほど手間がかかるわけではない。だから、冬にしのこしたこともやってみる。玄関脇の庭木の下に残ったままの秋冬の落葉をかきだす。下のほうにあるものは、もともとかさかさしていたのに、湿っていて、水分を含んで重たい。
――残しちゃっててごめんね。
何も言っていなかったのに、サイェは、こっちのおもっていたようなことを、ぽろりと、残されていた葉っぱたちに、積みかさなってきっと腐りかけている葉っぱたちに、言う。これらを掃きだそうとしてももうかつてのようなからからとした音はしない。ある湿ったかたまりのまま、でも、きっと数カ月前よりもずっと土に養分をしみこませている。
――また、つぎの葉っぱたちが落ちて、こうやって重なってゆくんだよね。
そう、そうだね。
まだそれまではしばらくある。そのあいだに、次第につよくなりまたよわくなってゆく陽の光を、日のうちに、夜のうちに変化する風をうけ、雨をうけ。そして、また、秋がきて冬がきて、春のおちばになって。
――植物は、うごくものたちよりもからだがシンプルにできているから、まわりが変化しても対応していけるんだってね。対応のかたちもはやく。
サイェが何を考えているのかはよくわからない。それでいながら、きっとそこに数カ月や数年やよりも先のことをぼんやりと予感しているのかもしれない、とおもわないでもない。それがいいことなのかどうか、わからないのだけれど。
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[執筆者]小沼純一、谷川俊太郎、堀江敏幸、古川日出男、明川哲也、柴田元幸、山崎佳代子、林巧、文月悠光、関口涼子、旦敬介、エイミー・ベンダー、J-P.トゥーサンほか全31名
書誌情報 → http://www.keisoshobo.co.jp/book/b92615.html