門扉を開けて敷地に一歩はいると、ジンチョウゲのかおりだ。ほんの背丈ほどの扉なのに、外には洩れてこないのは不思議だと、いつもおもう。花が咲いていることも、この小木があることも、このときまで忘れているのに、かおりにふれた途端、あの季節、と、春になりかけている、と、からだが、またあわせて、外に洩れないことの、いや、洩れているのかもしれないけれどたまたまそういうときには居あわせていないだけかもとのおもいも、毎年かならず、いっぺんに、一歩めに、感じ、想いおこす。
ね、わたし、いくつ?
めいのサイェが訊ねる。いきなり、だ。
学年はわかるけど……いくつ、かはすぐでてこないな……。
べつに離れているわけではないし、むしろいつもそばにいるのに、いや、だからかえって、忘れていること、気がつかないことがある。
いくつ、って気にしてないしな。
おじさんもね、おかあさんもね、おばあちゃんもね、わたしはちゃんとおぼえてない。聞いてもすぐ忘れちゃう。暦のめぐりじゃはかれないんだとおもう。
真冬の寒さがやわらいでいる。池の薄氷も、霜柱も、もうひと月以上、ない。まだはっきりとはわからないけれど、そう遠くない季節を先どりしている木々を眺めに、庭にでる。こちらはまだ厚着をしているものの、コートは玄関においてきた。
庭のすみの、地面にすれすれのとこでぷっくり咲いてる黄色い小さい花を、おじさんに訊いたの。
これ、なに、って。
まえにもみたことはあった。ずっと知ってた。あのあたりに毎年咲いてる、って。
でも名前は知らなかった。気にしてなかった。
それがね、たまたま名前が、ね、知りたくなって、訊いた。
そしたら、フキノトウ、って。
あわせて、そばで咲いている花をひとつずつ、これは、知ってる? これはどう? って。
そのときこたえられたのはウメだけで。
ボケもセンリョウも花や実にはなじんでたのに。
あのとき、花の名をおぼえよう、っておもった。
それから六年だよ。
小学生は中学生になるくらい。
大人は……どうなんだろ……。
これはね、おぼえてるんだ。
一年、一年、と加わっていく。暦がめくられていく。
フキノトウをおぼえてすぐ、大きな地震があって。
名前をいつ知ったか、なんて、おぼえていることはあまりない。どんなとき、誰から聴いたのか、どこでだったか、おぼえているものだってある。あるけれど、いつしかほかのものと一緒になって、違いなどなくなってしまうほうが多い。いろんな名前が人を、人をつくっている。好ましいだけじゃなく、汚れてしまったりおぞましかったりすることばでも、人はできている。サイェだってそう、そう言っている、おもっているこのからだもそう。
空気のなかに、水のなかにまじっているものがあり、おなじように空気と呼び水と呼ぶ。しばらくはほとんど放置してあったのを、いつしか、でも、ここでこの木々たちははなれずに、はなれられずにいるんだから、と、あらためて丹念に手入れをするようになっていた。もういなくなって何十年、何年もたつ祖父が父が手入れをしていた庭である。いつか自分がやるようになると、そのころはおもっていたかどうか。
ジンチョウゲとフジが、いちばん好きだな。
キンモクセイやウメだってあるけど。
この庭では、さ。
花だ、っていうのが見るより前にかおりで感じられるし、そこにある、っておもいだせる。
かおり、どこにいっちゃうんだろうね。
でも、ずっと、あるのかな、うすくなっても、こっちが気づけなくなるだけかな。散歩する犬や、おむかいの猫さんは、わたしたちよりずっとながく感じられるのかな。
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[執筆者]小沼純一、谷川俊太郎、堀江敏幸、古川日出男、明川哲也、柴田元幸、山崎佳代子、林巧、文月悠光、関口涼子、旦敬介、エイミー・ベンダー、J-P.トゥーサンほか全31名
書誌情報 → http://www.keisoshobo.co.jp/book/b92615.html