何がきっかけだったのだろう、マンガかアニメ、小説か映画、それともどこかで目にした姿やうごきからなのかもしれない、めいのサイェが何かと言えば「にゃあ語」をつかうようになったのだ。
もともとねこのまねはよくしていたっけ。それが、受け応えに頻繁にでてくるようになった。
おかえり にゃ
わずかばかりの驚きをともなった にゃ!
むこうの部屋から呼ぶときの にゃ〜
お茶を飲む? にゃ
語尾をあげる にゃ?
残念なときの 語尾がさがる にゃ〜
語尾につける いってきますにゃ うれしいにゃ そにゃの そうなんにゃ
孫が奇妙なにゃあ語をつかってこたえても、わたしの母はどうして?、とか、なんで?、とか言ったことはない。ずっとそんなのを耳にしてきたかのようにふるまっている。もしかしたらちゃんと聞こえていないのではないか、とおもったりするのだけれど、そんなふうにあらためて訊ねるのも気後れてしてそのままになっている そもそも意思疎通には何の不都合もないのだし。
もともとは緩和する語尾だったようだ。
関西方面から転校した子が、ふだんは関東風にしゃべっているのだが、ときどきといかえすようなとき、そうなんや、と関西風になる。それがやわらかいのだという。
否定的なことを言ったりするときにも関西風になる。
だめやん。だめやないか。ちゃうねん。
ごく自然なのかそれともわざとなのかはわからないけれど、否定されているのに、きつさがなくて、ちょっとおかしいし、むっとしない、という。
学校に通っていた時期にはそうした関西系のことばをつかう子どころか、地方から転校してくる子がいなかったので、そうしたことばの何かを感じたことはなかった。
たしかに、短いあいだつとめていた事務所で、同僚がそうなんやとぼそりとひとりごちることがあり、あきらめをともなったような、つきはなしたような感触があったっけ。
――それに、はいでもいいえでもない受け応えってなかなかむずかしいでしょ。
どっちでもない、ちゃんとしたこたえじゃないけど、聞いてるよ、っていう反応を、にゃ、って言えば、いい。
そういえば、友だちがSNSで絵入りのケチュア語表現を引いていたのをおもいだした。アニャニャウ、は、食べものがおいしい、の意味らしい。
ボリビアやペルーなど、南米の何カ国かでつかわれていることば。まわりで話せる人がいるとはおもえないし、つかうことなどないだろうとはおもう。
サイェにみせると、すぐそばにいるならかろうじて耳にできるくらいの小さな声で、しきりと口にだし、試している。ア・ニャ・ニャウ、ア・ニャ・ニャウ、アニャ・ニャウ、アニャニャウ……
にゃあ語のつぎにはやるのはケチュア語だろうか。こっちはやっとにゃあ語に慣れて、あまり意識しなくても返事とかにゃあと言えるようになったばかりだったのだけど。
にゃ、の音をおもいだしてみると、けっこういろんなことばがある。
韓国語だと、だよ、とのニュアンス
ヴェトナムでも ね
タイ 前やうしろのことばをつよめるのにつかう
ダスビダーニャはロシア語でまたお目にかかりましょう
スペイン語やイタリア語でもにゃ音はけっこうあったんじゃないかな。
にゃあ語は、意味じゃなくて、その舌がうわあごにちょっとさわってはなれるかんじ、とか、くちびるとか舌とか上あごとか喉とかのうごき、とか、耳を、鼓膜を一瞬なでるように、ふるわせるかんじ、とか、が世界中で気持ちよかったりたのしかったりするところからでてきている。ひとつのことばとしてじゃなく、それよりも、いろんなことばのなかにこっそりとにゃあ語ははいりこんでいく。いろんなことばににゃあ語は種をまく。そしてときどき、ほんのときどき、それぞれのことばのなかから顔をだす。顔をだして、わかってくれる人、おもしろがってくれる人、感じてくれる人に挨拶して、合図して、すぐ、ひっこむ。
わかってくれるかどうかわからないけど、サイェにそんなはなしをしてみる。サイェはいろんな口のかたちをして、音になるかならないかのにゃあ語を練習しながら、きいている。
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