現実は変えられないという「現実主義」に抗するためにフィクションは意味をもち得るか、SFアニメで考える骨太フィクション論。
科学、技術の急速な発展をうけて、現実主義者は、フィクションは意味がないしくだらない、あるいは、無責任で害悪でさえあるという。それに対し、そのような態度こそがわたしたちの現実を堅く貧しくしているのだと反論することはできるのだろうか。名作SFアニメを題材に、フィクション、現実、技術について、深く検討する。本連載を大幅修正加筆し、2018年12月末刊行。
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古谷利裕 著
『虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察』
四六版判上製・304頁 本体価格2600円(税込2808円)
ISBN:978-4-326-85196-6 →[書誌情報]
別様な世界へ
現実には起こらなかったことにまつわる、誰も思い出すことのできない記憶を、正確に掘り起こそうとすること。奇妙な言い方かもしれませんが、フィクションをそのようなものだと考えることができると思います。『君の名は。』の結末で三葉と瀧は、この世界の現実のなかには既に存在しない「二人の関係」を、出会うことによって「思い出す」のです。さすがに事の顛末を詳細に思い出しはしないでしょうが、忘れてしまったなにかしらの出来事があったことを確信し、そしてその出来事の相棒が今、目の前にいる人物であることを思い出すとは言えます。そして、この出会い(思い出すこと)の成立が示すのは、この世界では既になくなってしまったものが、しかし潜在的には「未だここにある」ということでしょう。わたしが現にある「このわたし」とは別様であり、世界が現にある「この世界」とは別様であるというあり方で存在し得たという可能性が、「このわたし」「この世界」と同時に「ここ」にある。そのようにして、客観的、あるいは物理的には存在するとは言えないものが、しかし潜在的には存在すると言えるとするならば、フィクションとは、その潜在性を正確に掘り起して提示しようとするものなのではないでしょうか。
さらに、顕在的なこの世界を「ここ」と、潜在的な別様な世界を「そこ」と言い換えるならば、フィクションは「ここ」と「そこ」との転換(反転)を企てようとするものと言えるのではないでしょうか
『君の名は。』が、3年という時間の幅をもった「同時性」を立ち上げようとしていたのと同様に、『輪るピングドラム』は16年という大きな幅をもった「同時性」についての物語だと言えます。『君の名は。』では三葉と瀧という1組のペアのみが問題となっていましたが、『輪るピングドラム』では、親、先行世代、子という三つの世代が問題となっていて、そのなかに様々なペアがあり、その多様なペアの間で、「ここ」と「そこ」の絡み合いが問題となっていきます。16年前(1995年)に非常に大きな事件が起こり、その事件が呪いとなって、それ以降の物語の現在(2011年)までの16年を、過ぎ去らない保留の時間として囲い込んでしまうことで、16年をまとめて「同時」としてしまっているのです。様々な「わたし」、様々な「関係」が、呪いが形成する磁界の作用によって強く結びつくことで同時性のなかに拘束されてしまっています。だからこの物語は、「呪いとしての同時性」をいかに突き破り、「現にあるこのわたし」「現にあるこの世界」とは別様な存在へと、つまり「別の同時性」へと至るかという、その過程を示す物語と言えます。
「ピングドラム」前半の概要
まず、『輪るピングドラム』という物語世界の概要をざっとみてみましょう。高校生である双子の男の子、冠葉と晶馬と、その妹の陽毬という、子供たち三人だけで暮らしている家族(高倉家)があり、彼らを中心に物語は展開します。兄たちと妹の間には、近親愛的な感触がみられます。陽毬は病弱で学校にも行っていないようです。その陽毬が、病院からの一時帰宅中に遊びに出かけた水族館で倒れ、そのまま亡くなってしまいます。しかし、霊安室で悲嘆にくれる二人の兄の前でむっくり生き返るのです。どうやら陽毬は、水族館で買ったペンギン型の帽子に宿っているプリンセス・オブ・ザ・クリスタルという謎の存在の力によって延命しているようです。プリンセス・オブ・ザ・クリスタルは冠葉と晶馬に向かって、妹を生き続けさせたければ「ピングドラム」というものを手に入れろという交換条件を出します。しかしピングドラムがとういうものなのかは説明されません。
ここで二人目のヒロインである苹果(りんご)が登場します。苹果は、冠葉や晶馬と同じ16歳で、二人とは別の高校(女子高)に通っています。プリンセス・オブ・ザ・クリスタルは、この苹果がピングドラムと関係があることを示唆し、冠葉と晶馬は苹果を密かに調査します。するとなんと、苹果は冠葉と晶馬の担任である生物教師の多蕗をストーキングしているのでした。そして苹果は、未来の出来事が書かれた日記を持っていて、どうやらその日記に従って行動しているようなのです。冠葉と晶馬は、その日記がピングドラムなのではないかと見当をつけます。
冠葉と晶馬は、元気になって家で過ごす陽毬には内緒で苹果の調査をしているのですが、陽毬と苹果は偶然に出会って仲良くなります。それにより四人は顔見知りになり、仕事で忙しい母と二人暮らしの苹果は、高倉家でよく一緒に食事をとるようになります。また苹果は、サンシャニー歌劇団所属の人気女優、時籠ゆりと多蕗が幼なじみであり、交際していることを知ります(後に二人は結婚します)。双子の兄である冠葉は女性によくモテて、女性関係も派手らしいのですが、その冠葉を執拗に追う謎の女性、真砂子が登場します。真砂子は冠葉に、忘れた記憶を思い出せと迫ります。さらに冠葉には、何かしら怪しい組織との繋がりがあるらしいことが匂わされます。
(双子の兄の冠葉はどちらかというと鋭角的で能動的なキャラですが、弟の晶馬は穏やかで受動的なキャラと言えるでしょう。)
冠葉、晶馬、陽毬という子供だけの家族。陽毬を生き返らせた謎のペンギン帽子。未来(運命)日記をもちストーキングする女、苹果。ストーキングされる教師、多蕗と、その恋人で女優のゆり。そして冠葉をつけまわす女、真砂子。ここに、テレビに映るアイドルグループのダブルHを加えると、この物語の前半における主要な人物は出揃います。
登場人物の関係や物語の概要以外に、この作品の特徴をいくつか挙げます。三人の子供たちが暮らす高倉家は、外装がトタン板であるような貧しく小さな家なのですが、外観が過剰なくらいカラフルに彩色され、家の内部も明るく魅力的な配色を施されています。料理もとても美味しそうに表現され、家庭内はキラキラしています。それとは対照的に、主要な登場人物ではないいわゆる「群衆」は、ピクトグラムによって記号的、平面的に表現されます。リアルな街並みにピクトグラムの人々があふれているのは異様な印象です。主要な登場人物と直接的な絡みがある人物はさすがにピクトグラムではありませんが、その場合、後ろ姿のみだったり、フレーム外だったりして、決して顔が見えないようになっています。ただ、例外的に地下鉄の中だけは、主要ではない人物が顔も含め普通に描かれています。そして、この物語を形作る場面の多くは、荻窪から池袋までの丸の内線沿線が舞台になっています。