連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』32

11月 30日, 2017 藤田尚志

第四部第三章  道の途中:二重狂乱と政治(承前)

 
 

フィリップ・スーレーズに

 

「われわれの生の道なかば

ふと気がつくと、私は正しき道の失われた

暗き森の中をさまよっていた。」

ダンテ

 

「宗教の創建者と改革者、神秘家と聖徒、そしてわれわれが道の途中

で出会いえた道徳的生における無数の英雄たち…」

ベルクソン

 
 

§96. 情動の政治学

フィリップ・スーレーズは『政治的ベルクソン』(一九八九年)によって実に独創的な、新たな道を切り開いた。はっきりさせておこう。『道徳と宗教の二源泉』が単に道徳や宗教についての著作ではなく、人間を行動へと向かわせる力についての著作だとはじめて明言したのはスーレーズである。「道徳に関するベルクソン的問題設定は、「源泉」に関する問題設定である限りで、エネルギー的な問題設定である。ベルクソンが問うているのは、人間たちを道徳的に行動させるのはいかなる力であるのかということだ」(Philippe Soulez, Bergson politique, PUF, coll. « philosophie d’aujourd’hui », 1989, p. 268)。私たちの側から強調するとすれば、『二源泉』は「呼びかけ」を描くだけでは満足しない。自ら「呼びかけ」を実践しようとしている。単なる社会哲学や政治哲学でなく、自ら一つの政治たろうとしている。道徳や宗教の領域における社会的紐帯を構成するものとしての「閉じたもの」と「開かれたもの」の区別の諸様態を描くことで、何らかの哲学的理論を構築するだけで満足しない。そうではなく、スーレーズが綿密に調査・分析したように、訪米中の政治家たちとの接触やさまざまな政治的行動によってと同時に、この著作をもって、社会秩序とその解放的変容の構成過程そのもの、進行中の構成プロセスに介入しようと試みているのだ。

スーレーズが「エネルギー的」と呼ぶ次元は、実際「道徳」や「宗教」といった語によって表現される次元に還元されえず、ひとまず「政治」と呼びうるものであるとしても、しかし、それは通常の意味での「政治」でもない。ジェラール・グラネルの言葉を用いれば、「超政治」(archi-politique)とでも呼ぶべきものである。なぜなら、ベルクソンの政治(学)は、分析的であると同時に創造的であり、情動のレベルで展開されるものだからである。ベルクソンは二つの情動のタイプを区別する。

要するに、表象の産んだ結果たる情動、また表象の上へ重ね合わされた情動と並んで、表象に先立ち、表象を潜在的に含み、ある程度まではこの表象の原因と言える情動がある。(DS 44)

したがって情動の政治学が、それも複数の情動の政治学がある。一方には、「われわれの神経を掻き立てる」プロパガンダの政治学がある。これは、ヒステリックな叫びをあげさせる、「強烈ではあっても月並みなもの、日常生活で経験されるさまざまな情動から摘み取られたものにすぎず、いずれにしても表象を孕んでいない」驚愕の感情を操る政治である。他方には、「われわれの魂を揺さぶる」伝道の政治学がある。これは、雄弁な呼びかけを投げかける、「強制でも必然でもなくて、抵抗しようにもしようのないある傾向性の力によるものである」ような、「表象へ結晶しうる情動、いな理説へすら結晶しうる情動」(以上DS 44-45)によって驚嘆の感情を与える政治である。経験と推論から一瞬たりとも離れることなく、ベルクソン哲学は、『二源泉』の段階に至って、情動から直観へと至る通路に、パフォーマティヴの問題系に自らの場所を見出す。

だからこそ、比喩をはじめとする言語の問題には敏感でなければならない。情動の政治学に支えられて(「…と言えることあるを汝ら聞けり。されど我は汝らに告ぐ…」)、例えば、山上の垂訓(「心の貧しき者は幸いかな」「汝の敵を愛せ」)は、「その最も明確に説かれているものにおいて、逆説すれすれ、いな矛盾すれすれとすら言われる」言語で表現されているが、その「真の意図は、ある心的状態を起こさせることにある」(DS 57-58)。ベルクソンはさらに正確に問題の所在を告げている。「運動と運動傾向とを直接に表現することが、どうしても必要になってくる。だが、それを、なおも静的なもの、動かぬものの言葉へ翻訳しようとするなら――実際またそうするほかない――、ほとんど矛盾すれすれの言い方になるであろう」(DS 58)。だからこそ、ベルクソンのテクストは、他の哲学者たちにもまして、注意深い読解が必要とされるのである。

§97. 〈道〉の哲学小史――デカルト、スピノザ、ベルクソン

ここで、最後の「道」の形象をたどっていくことにしよう。道(voie)、路(chemin)、歩く(marcher)、前進する(avancer)、周り曲がる(tourner)、到達する(arriver)、極限(limite)、終焉・目的(fin)、末端(bout)、辿り着く(aboutir)、旅(voyage)、通路・経路(passage)、痕跡(trace)、軌跡(trajectoire)、あるいは前進(marche en avant)。ここでは、これらを総称して「〈道〉のイメージ」(images viatiques)と呼ぶことにする。例えば、中間ないし途中(milieu)もそのようなイメージの一つである。「閉じた魂と開かれた魂との間には、開かれゆく魂がある。座っている人の不動と、走っている同一人の動との中間には、彼の起き上がり、つまり彼が身を起こすときにとる姿勢がある。要するに、静的なものと動的なものとの中間には、道徳においてもある移行状態(transition)が見られるのである…」(DS 62)。「方法」を意味するフランス語のméthodeや英語のmethodは、周知のように、「知識の追求、探究、そのような探究を実行する様態、体系」などを意味する古代ギリシア語のμέθοδοςに由来するが、この語自体は、「~を超えて」や「~の後に」などを意味するμετάと、道・運動・旅などを意味するὁδόςからなる。つまり、「道に従って進む」のが「方法」なのである。このMeta-hodosとしての道の問題構成は、哲学者たちのもとにいささか強迫的なほど回帰してくる主題となるのは、あまりに当然のことである。有名な二つの例を挙げておこう。

デカルトの『方法序説』は、正式名称を『理性をよく導き、学問において真理を探究するための方法序説』という。「導く」(conduire)という語に暗示された〈道〉の問題系は、すでにして第一部の第一段落に明示的に表れる。私たちの意見がどうして多種多様になってくるのかといえば、ある人が他の人よりもより理性的であるからではなく、ただ「われわれがさまざまな道によって考えを導き(nous conduisons nos pensées par diverses voies)」、同じ事柄を考えているのではないからである。よい精神を持っているだけでは十分でない。大切なことは、それをよく用いることだ。「ごくゆっくりとしか歩かない人でも、つねに正しい道をたどっていれば(s’ils suivent toujours le droit chemin)、走っていて道を逸れる人よりもはるかに前進できるのである」。また、少し後にはこうある。「若い頃から私はたまたまある道(certains chemins)に出会い、それは私をある考察と格率へと導き、そこから私は一つの方法を作り上げた」。ここが『方法序説』における「方法」という語の初出部分であるが、デカルトは、「道」と「方法」の語源的関係を明らかに意識している。そして、書物による学問をひとまず放棄し、「これからは私自身のうちに、あるいは世界という大きな書物(le grand livre du monde)のうちに見いだされるであろう学問だけを求めようと決心して、私の青年時代の残りを旅をすること(voyager)に費やした。(…)世界という書物をこうして研究し、いくらかの経験を得ようと努めて数年を過ごした後で、ある日私は、私自身においても研究しよう、そして私が辿るべき道を選ぶ(choisir les chemins que je devais suivre)のに全精神を傾けようと決心した」。これに対して、人がかつて自分の信念のうちに受け入れたすべての臆見(ドクサ)を取り去ろうと決心するのに適さない人々もいる。それは例えば、「普通の道(chemin commun)をはずれてもよい自由をいったん手にすると、もっとまっすぐに進むためにとらねばならない小道(sentier)をたどることができず、一生さまよい(égarés)続けることになる」人々である。これに対してデカルトはどうか。「だが、闇の中を一人で歩く(marche seul et dans les ténèbres)人のように、私はゆっくりと行き、あらゆることに十分気を配って、私がごくわずかしか進まない(avançais)場合でも、少なくとも転ばない(tomber)ように用心しよう、と心に決めた」。これは決して無意味な繰り返しではない。デカルトは文字通り、どんな初心者でもついて来られるように導いているのであって、転ばずに前進するにはどうすればよいのかを、まさにパフォーマティヴに実演してみせているのである。『方法序説』はこのように、〈道〉の比喩に満ち満ちている。 

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藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。