あとがきたちよみ
[けいそうブックス]『〈危機の領域〉』

About the Author: 勁草書房編集部

哲学・思想、社会学、法学、経済学、美学・芸術学、医療・福祉等、人文科学・社会科学分野を中心とした出版活動を行っています。
Published On: 2018/4/24


 
あとがき、はしがき、はじめに、おわりに、解説などのページをご紹介します。気軽にページをめくる感覚で、ぜひ本の雰囲気を感じてください。目次などの概要は「書誌情報」からもご覧いただけます。
 
 
勁草書房創立70周年記念[けいそうブックス]第1弾!
齊藤 誠 著
『〈危機の領域〉
 非ゼロリスク社会における責任と納得』

「筆者のつぶやき」「はじめに 〈危機の領域〉への旅を前にして」「目次」「おわりに ボロボロの〈無知のヴェール〉を被って」(pdfファイルへのリンク)〉
〈目次・書誌情報はこちら〉


筆者のつぶやき
 
 本書は〈危機の領域〉への旅に読者を誘っている。しかし、格安旅行会社のチラシのようにツアーのすばらしさを過剰宣伝するようなことはしたくない。本書の内容に自信がないからではない。旅の真の喜びは、その途上での新たな発見だからである。事実、筆者も旅行記を書いていくなかでさまざまな発見があった。それでも、読者が〈危機の領域〉で迷子になりそうになったならば、次の文章を思い出してくれるとよいのかもしれない。

科学は本来、曖昧さを伴うものであるが、リスクや不確実性から自由になりたいという私たちの願いが、危機対応に関する科学にいっそうの曖昧さを強いているという面もある。だからこそ、私たちの社会がそのことに気がついて、専門家は専門家としての、行政は行政としての、市民は市民としての負うべき責任を負担しながら、今よりも少し根気強く、辛抱強くリスクや不確実性に向き合い、さらには危機対応の不幸な失敗さえも納得して受け入れていくためには、専門家、行政、市民を含めた多様な人間が、かなりの忍耐と寛容をもって多様な意見を交換する熟議の場が是非にも必要になってくる。そのような場所こそが、〈危機の領域〉の到着地点となりそうである。

 一見、〈危機の領域〉を旅する地理情報としては頼りなさげであるが、案外に頼りになるマップなのかもしれない。
 Bon voyage!
 
 
はじめに 〈危機の領域〉への旅を前にして
 
 本書では、将来の危機の可能性について、現在進行形の危機への対応について、そして、すでに起きた危機からの教訓について、私たちの社会がどう向き合ってきたのか、さらに踏み込んで、どう向き合うべきなのかを考えていきたい。いいかえてみると、私たちの社会において、危機と呼ばれる現象に関して思考している、やや大げさな言い方をすると、危機を哲学しているさまざまな場所、あるいは、〈危機の領域〉と呼んでもよいようないくつもの場所を探りあてたいと思っている。
 そうはいっても、危機について書かれた書物は世の中に山ほど出版されてきたので、本書では、読者がどのように危機に向き合っていくべきなのかについて、言葉が適切でないかもしれないが、〈危機の領域〉を覗き見る方法に関して、類書にない工夫を凝らしていこうと思っている。
 まずは、読者に〈危機の領域〉の中にずかずかと侵入してもらおうと目論んでいる。リスク管理とか危機管理とかと呼ばれている分野は高度な科学的知見に武装されていて、研究者や技術者などの専門家だけが近寄ることができる領域のように考えられているのかもしれない。しかし、危機を予測したり、危機を制御したりする技術体系が依拠している科学的根拠が案外に曖昧で不確かなものであることが実に多い。
 たとえば、第3章「地震災害─予知の覚悟」では、次のような場所に読者を連れ込んでみたい。

 今、あなたが地震予知の最先端で活躍する研究者であるとしよう。
 もっとも地震が起きやすいと想定されたある地域について、あなたは、数日先の大地震の発生を予知する作業をしている。政府は、あなたの地震予知に基づいて、当該地域に非常事態宣言を発し、数日先に発生する大地震に備えて地域住民に迅速な避難を指示する。
 ある日、あなたは、観測網から送られてくる大量のデータを分析していて、大地震発生の予兆を察知した。あなたは、直ちに政府に連絡を入れた。総理大臣は、当該地域に非常事態宣言を速やかに発した。
 しかし、三日経っても、一週間経っても、半月経っても、一ヶ月経っても、大地震はまったく起きなかった。その間、非常事態宣言のために避難を強いられた地域の住民や事業者は、政府に対して不平不満を口にするようになった。
 あなたは、ついに地震予知の失敗を認めた。政府も、四〇日経過した時点で非常事態宣言を取り下げた。
 そして、人々が戻ってきて平常に復するかに見えた四五日目に大地震が起きた。人々は地震発生の危機が過ぎ去ったと安堵し油断していたこともあって、多くの人々の命が失われた。
 非常事態宣言を発してから四〇日目までに「予兆なし」と予知を修正したあなたと、非常事態宣言を取り下げた総理大臣は、当該地域住民の告発に応じた地方検察庁によって過失致死傷で起訴された。
 あなたも、総理大臣も、現在、裁判で検察と争っている。

 このような話は、荒唐無稽だと考えられるかもしれないが、二〇〇九年四月のイタリア・ラクイラ地震では地震予知、正確にいうと、「近い将来、大地震は起きない」という安全宣言が外れてしまい、安全宣言の発表に関わった科学者や政府責任者が過失致死罪で訴えられた(3―2節で詳しく議論している)。
 社会が危機に備えるときには、曖昧さを免れられない科学的な根拠や手法をめぐって、こうしたチグハグな事態がしばしば起きてしまうのである。
 右の寓話でのチグハグさは、「地震予知が失敗する」という当たり前のことが社会的な枠組みで十分に配慮されていなかったところにある。地震予知の失敗には二つあって、第一に「予兆がないままに大地震が発生するケース」、第二に「予兆があったのに大地震が発生しないケース」である。ここでは、第二の失敗を認めて地震予知を修正したら、すぐさま第一の失敗を冒してしまったということになる。
 当該地域住民は、地震予知で大地震の予兆を必ず捉えることができると確信していたので、非常事態宣言が発せられれば、すみやかに避難したし、非常事態宣言が取り下げられれば、安心して元の場所に戻ってきたのであろう。このように住民が地震予知を信頼していたために、非常事態の宣言とその取り下げが当該地域の社会をかえって混乱に陥れてしまった。おそらくは、地震予知に基づく避難指示の仕組みがまったくなくて大地震をむかえたほうが、社会の混乱も小さかったであろう。
 社会が危機と向き合う際には、決して確実といえない、曖昧な要素も数多く含む科学的根拠に対して、私たち社会の構成員が多様な考え方を持っている状態が望ましい。
 先述の地震予知手法に対する研究者の態度についていえば、地震予知の可能性に確信を持つ研究者たちが、地震予知の精度を向上させることに努めるのは当然である。一方では、地震予知について根本的な疑義を持っている研究者もいる。また、地震予知の精度を疑っている研究者は、先述の地震予知の失敗、特に第一の失敗である「予兆がないままに大地震が発生するケース」について強い懸念を表明する(3―3―3節で議論している)。
 このように地震予知手法について多様な意見が社会の側にあれば、未熟な段階にある地震予知を地震対策の中核にとりこむような拙速な政策判断はしなくなるであろう。
 しかし、それでも懸念はある。
 「地震予知によって前もって避難することができれば、大地震が発生してもかけがえのない命だけは守ることができる」という政策主張が人々に強くアピールするような場合である。冷静になって「地震予知も外れるかもしれない」という可能性を考えてみれば、そのような政策主張が間違っていることは容易にわかるはずである。それにもかかわらず、「地震が予知できれば素晴らしい」という共感からか、あるいは、大地震で命を失う恐怖からか、危機回避を高らかに謳った耳触りのいい政策主張が強く支持されてしまうことが往々にして起きる。
 さらに、地震予知制度を推進する政府の立場からすれば、「地震予知を発しないことによって、人々がかえって『地震が来ない』と安心する」という効果もなかなか見逃せない。科学的な根拠が十分でないにもかかわらず地震予知が社会的に制度化されてしまう背景には、実は、自然科学的な事情よりもむしろ社会科学的な事情がひかえているのかもしれない。
 しかし、人々は、危機回避目的の政策主張を固く信じていただけに、たとえ万が一であっても、地震予知の失敗を受け入れることはなかなかできない。あるいは、危機回避を大義名分に主張された政策を強く信じたことを、政策が失敗したあとになってひどく後悔するであろう。要するに、人々は、危機回避を目的とした政策の失敗に納得することができないのである。
 こうして見てくると、危機対応の根っこにある問題は、危機回避を大義名分とした大胆な対応が人々の強い支持を得やすいにもかかわらず、危機を予測し、危機を回避する手段の科学的根拠がきわめて弱いというところにある。人々の支持を得やすい大胆な危機対応が実は頑健な科学的根拠を欠いているというジレンマを社会がどのように乗り越え、いったん受け入れた危機対応が失敗する可能性を社会がどのように納得していけばよいのであろうか。
 ここで厄介なのは、だれかが危機対応の失敗に対する法的責任をとることで、人々が政策の失敗を納得することをなかなか期待できないというところである。というのも、危機対応の失敗がとてつもなく悲惨な状況を社会にもたらしたとしても、だれも危機対応の失敗に対する法的責任を負わない、ときには負えない可能性が十分に考えられるからである。
 冒頭の寓話であなたは過失致死傷に問われているが、過失責任を感じていないのでないだろうか。あなたは、当時の最先端の地震予知技術に従ってベストエフォートで判断したのであるから過失などないと主張するにちがいない。あなたの過失が司法の場で否認されれば、過失致死傷の刑事責任も、損害賠償の民事責任も問われない。他の当事者も過失が認められなければ、危機対応が失敗したことが明らかなのにもかかわらず、だれも失敗に対する法的責任が問われない可能性が出てくる。事実、ラクイラ地震の予知に失敗したとして科学者たちが訴えられた裁判(3―2節で詳しく見ていくように事情はとても複雑であるが)では、科学者も政府責任者も第一審で有罪となったものの、控訴審では一人の政府責任者を除いて全員無罪となった。
 理想をいえば、たとえだれも危機対応の失敗に対する法的責任を引き受けなくても、人々が危機対応の失敗を納得して受け入れるような可能性、そして、政策の科学的根拠が曖昧で不確実なことを大前提として、危機対応の失敗を十分に配慮しながら危機対応の合意形成が図られる可能性を追求するということになるのであろう。
 しかし、現実には問題山積である。
 「危機対応の失敗」などと不用意に発言すると、「失敗の責任を問われかねない危機対応なんて、そもそも考えるのが損ではないか」という反応を専門家の間で招きかねない。その結果、数時間先から数日先に地震の到来を予測する地震予知どころか、十年単位で大地震や大津波の到来を予測する研究においても、専門家が沈黙することになるかもしれない。極端な場合には、専門家のだれもが、大地震発生という危機の到来についてまったく考えなくなってしまうかもしれない。
 逆に、「予測しなかったのに地震が起きた」という形で地震予測が外れることをいたずらにおそれてか、「俺の予想が見事に当たった」と成果を焦る功名心からか、科学的根拠が曖昧なのにもかかわらず大地震の到来を過度に強調して危機をあおるような専門家が出てくるかもしれない。
 いずれの場合であっても、私たちは、社会に襲いかかってくるかもしれない大地震に対して適切に向き合うことができなくなってしまう。
 実際には、地震予知にさまざまな問題があるからといっても、専門家の多くは地震予測や地震予知の研究を放棄しているわけでもなく、荒唐無稽な地震予知を振りかざしているわけでもない。地震研究における少なからずの専門家は地震予知の限界に向き合いながらも、依然として予知業務に携わっている。そうした状況は必ずしも悪いわけではない。地震予知の問題点を熟知する専門家は地震予知の現場で運用面を工夫しながら、予知の弊害を最小限に食い止めることができるかもしれない。地震予知の運用が地震予知を信奉する専門家集団だけに委ねられているよりも、地震予知について多様な見方を有している組織に委ねられているほうがよいのであろう。
 実は、〈危機の領域〉の現場には、不本意ながらも、というよりも本音と建前の微妙なズレを引き受けつつ、黙々と危機対応に取り組んでいる専門家が実に多い。危機対応の社会的な仕組みが長い歳月をかけて作られてくるので、新たな知識を持った専門家が古い社会制度に依拠した危機対応に従事せざるをえない事態が起きるからである。
 たとえば、現行の東海地震に関する予知制度も、一九七八年六月に施行された大規模地震対策特別措置法を根拠としている。地震予知に対してさまざまなレベルで疑義を持ちながらも、予知の現場にとどまっている研究者や技術者たちは、現場の外側で地震予知の問題点を鋭く批判している専門家とは別の役割を通じて、地震予知の仕組みを根本的に転換していく原動力になるのかもしれない。第3章で詳しく見ていくが、東海地震予知制度は、研究者や行政サイドがさまざまな困難に直面しながら二〇一七年一一月にその運用が事実上断念された。
 読者には、そうした一見すると矛盾をはらむ、あまりすっきりとしない〈危機の領域〉の風景も見てもらいたい。
 いずれにしても、本来、社会にとって必要なのは、危機の到来や危機への対応について、科学的根拠が依然として曖昧であって、危機の予測や対応に失敗する可能性があることを専門家が率直に認め、市民がそのことをしっかりと受け止めることなのであろう。当然ながら、万が一、危機対応に失敗すれば、社会は悲惨な状態に陥ることを受け入れざるをえない。
 薄弱な科学的根拠しか持たない強引な主張がたとえ専門家から発せられても、市民の側では危機をあおられないように、あるいは、危機対応の無謬性を信じ込まされないように慎重な態度を保っていくことが必要であろう。やや矛盾した言い方になるかもしれないが、専門家たちが危機の到来や対応について常に勇気を持って考えることができるように、科学的根拠の曖昧さからくる危機対応の失敗について、市民の側がある程度の寛容さを持つことも重要になってくる。
 危機の到来や対応に関わる科学的根拠が曖昧であるということは、危機対応において「科学的に正しい答え」がないということを直ちに意味する。「何が正しいのか」ということが明確に決められない状況においては、「正しくない行為」について個々の法的責任を問うことがかなり困難となってくる。要するに、法的責任を梃子に危機対応の規律を引き上げていくことがずいぶんと難しい。
 本書で読者を〈危機の領域〉に無理やり連れ込むのも、社会が危機の到来や対応に関わる科学的根拠の曖昧さに辛抱強く耐えつつ、専門家の間で、市民と専門家の間で、そして、市民の間で多様な意見を戦わせながら、まさに熟議をしながら、不幸にも失敗する場合を含めて危機対応への合意形成をしていくということの重要性を理解してほしいからである。そうすることによってのみ、危機対応がたとえ失敗したとしても、社会は納得することができるのでないだろうか。
 経済学の専門家としての筆者(私)も、多様な人間の間で合意形成を促すことが期待できる範囲において経済学の道具を用いるようにしようと思う。各章には、そうした範囲で経済学から見た危機対応という趣向(節か小節)をこらしてみたい。ただし、研ぎ澄まされた経済学の包丁を振り回しておいて現実は鮮やかに調理できたものの、せっかくの料理を味わってくれる人がもはやいなくなってしまうようなことはつとに避けたいと思っている。
 確固たる科学的根拠がないにもかかわらず「危機を絶対に回避できる」と標榜する傲慢な意見に従って危機対応が一方的に決めつけられる社会は、〝みせかけの〟ゼロリスク社会ということができる。残念ながら、私たちの社会は、さまざまな〈危機の領域〉でゼロリスクが標榜されてきた。一方、科学的根拠の曖昧さを受け入れて「危機は必ずしも回避できない」という当たり前の前提に立てば、私たちの社会は、当然ながら非ゼロリスク社会である。
 本書では、非ゼロリスク社会において〈危機の領域〉を垣間見ることができるような具体的な瞬間をいくつも捉えつつ、「危機対応の失敗に対する納得」の問題を、「危機対応の失敗に対する(法的)責任」の問題から慎重に切り分けながら、真剣に、語弊があるのかもしれないが、相当の知的関心を持って考えていきたい。
 
二〇一七年秋
齊藤 誠
 
 
おわりに ボロボロの〈無知のヴェール〉を被って
 
 本書は、〈危機の領域〉という限定はあるものの、私が初めて市場メカニズムに対する疑問をインプリシットに著した書籍といえるかもしれない。私的領域に対する公的領域を、私益に対する公益を、取引に対する討議を、均等な機会に対する対等な立場を、外生的な選好(人々の選好を決めつけてしまう仮定)に対する内生的な選好(熟議で選好が進化する可能性)を優先しているという意味で市場メカニズムに対して熟議による合意形成を優位に置いているからである。
 ただし、〈危機の領域〉を超えたところで、ここで暗黙に表明した市場への疑問がどこまで敷衍できるのかどうかは正直なところわからない。ただ、少なくとも〈危機の領域〉においては、市場メカニズムのように私的領域を最優先とするliberalなアプローチよりも、多様な人々が対等の立場で参加した熟議を通じて公的領域で課題を解決するrepublicanなアプローチのほうがずいぶんとましなように思えたのである。あるいは、〈危機の領域〉において共和国を建てることが、私たちの社会にとって意味があると考えたのである。
 7―2―4節でも説明したように経済学の言葉でいえば、熟議による合意形成は「危機前の自分」と「危機後の自分」の間で行動の時間整合性を保つように、熟議によって選好が洗練され、コンセンサスが形成されるプロセスと簡単に表現することができる。現実の社会においてそれを実現していくことがいかに難しいことなのかは各章で見てきたとおりである。そこで、ボロボロながら〈無知のヴェール〉を被って熟議に参加することで、自らの立場から自由になるとともに、他者の立場を自らにとりこむ契機を見出すことが、時間を通じて整合的な危機対応に合意する契機となる可能性を検討してきた。
 もし危機対応に時間整合性を保つことができなければ、ある危機を起点として「危機前の自分」と「危機後の自分」の間に大きな断絶が生じ、後者が前者に向かって「何でこんなことに」という後悔の、時には呪詛の言葉を投げかけてしまうであろう。私自身、一九九五年一月一七日に兵庫県南部を襲った大地震や二〇一一年三月一一日に東北地方太平洋岸を襲った大津波の後にまさにそうした断絶を味わった。現在、金融市場や財政状況の異形の統計に緊張感をもって接してきて、将来、金融危機や財政危機でこうした断絶だけは、自分の中で、そして社会において絶対に起こしてはいけないのだと思う。
 
 本書の執筆では、大先輩の方々、同僚や若手の研究者、大学院生や学生、編集者や記者、身近な、あるいは遠方の友人や家族と、本当に多くの人々にお世話になった。ただ、現在進行形で私たちの社会の限られた場面の〈危機の領域〉を記述しつつ、「熟議の不在」について深い憂慮を示した本書は、もろもろの状況の、さまざまな人々の立場に対して、どうしても批判的なスタンスをとらざるをえなかった。批判という行為は個人の責任の範囲に閉じ込めなければならないと常に考えてきた。お世話になった方々を私の記憶の中にとどめさせてもらう無礼、失礼をどうか許してほしい。
 ただ、ボロボロであっても〈無知のヴェール〉を被って自分の専門から一歩だけ踏み出る勇気を私に教えてくれた二人の恩人の名前をあげなければならない。
 東日本大震災を経験して、私の眼の前に広がっていた日本社会の風景は、私の学んできた経済学で描き切ることなど到底不可能であった。そんなときに中学時代の同級生であった吉岡達也さんに再会した。震災の年のゴールデンウィークが過ぎたころ、吉岡さんが共同代表を務めていたピースボートがボランティアの拠点としていた石巻の活動に参加をする誘いを受けた。私は大変に躊躇したが、「今、見てこないでどうする」という友人の言葉に背中を押されるように石巻を訪れた。研究目的で訪れたことが見え見えの人間が現地の方々やボランティアの人々に歓待されるはずもなく、冷ややかな視線の中で家の中からヘドロをかき出していた。合間、合間で石巻周辺を車で、そして、足で回った。想像を超えた凄まじい風景も、案外に穏やかな風景も、今でもはっきりと覚えている。その後、何度となく石巻を訪れることになった。
 震災の年の六月に『原発危機の経済学』(同年一〇月に日本評論社より公刊)のできたばかりの草稿を、二〇〇〇年ごろより経済産業省の電力自由化の研究会で存じ上げていた澤昭裕さんに読んでもらったことから、再びお会いするようになった。澤さんは、私が原発推進と原発反対の間で深く悩んでいたことを承知で「とにかく電力会社の人間に疑問をぶつけてみなさい」と、全国の原発施設に勤めていた多くの技術者を紹介していただいた。原発技術のことを勉強するのは大変であったが、技術者の方々からは本当に多くのことを教えていただいた。彼らの真摯な態度に接することがなければ、私は原発技術をもっと悲観的な方向で理解していたと思う。
 大震災の年も暮れようとしていたころには、反原発の吉岡さん、原発推進の澤さん、条件付き原発容認の私の三人でお酒を飲んだこともあった。もしかすると、三人の会合は熟議の場と呼んでもよかったのかもしれない。二〇一五年一二月、一ヶ月先に死をひかえていた澤さんから「三人が会っていたなんて、今ではだれにも信じてもらえないでしょうね」という返事をいただいた。それが澤さんからの最後のメイルとなった。
 
 さまざまな偶然が重ならなければ、〈危機の領域〉という限定した場所とはいえ、自分自身が相当の確信を持って長く研究してきた市場メカニズムについて深く疑問を持つこともなかったであろう。ただ、「市場メカニズムの否定」というような著し方はしたくなかった。市場メカニズムをはじめとした私的領域は私たちの社会にとって必要不可欠なものだからである。むしろ、〈危機の領域〉という限られた場所ではあったが、熟議を主軸とする小さな共和国に〈私たちの社会の可能性〉を積極的に見出したかったのである。
 大学時代から常に見守っていただいた西村周三先生からは、「一人でやろうとするところが君の限界」といつも忠告を受けてきた。私としては、山のような資料や統計を前にして、饒舌に語り出す活字や数字たちとにぎやかにやっているつもりなのである。執筆に没頭してくると、将来の読者たちとワイワイガヤガヤと話し合っているような錯覚にも陥る。ただ、「仮想の熟議」や「虚構の熟議」ではなく、多くの人々とともに〈現場の熟議〉を実現していかなければならないというのは、先生のご忠告のとおりなのだと思う。
 いつも一冊の本を世に出すときに思うことであるが、一冊の出版という機会を与えてくれた自分の社会に対して深く感謝したい。企画、編集、出版のすべての段階で勁草書房の宮本詳三さんには大変にお世話になった。科学研究費挑戦的萌芽研究「行動規範としての非常時対応マニュアルに関する行動経済学的研究」(二〇一六年度から二〇一七年度)の研究助成は、本書に関わる研究を財政的に支えていただいた。
 こうして本書を世に出すことができたのは、多くの人々の助けがあったからです。深く感謝申し上げます。本当にありがとうございました。
 
二〇一七年冬
齊藤 誠
 
 
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