あとがきたちよみ
『「理勢」的思惟様式と近代中国――郭嵩燾の西洋認識と開かれた文明観』

About the Author: 勁草書房編集部

哲学・思想、社会学、法学、経済学、美学・芸術学、医療・福祉等、人文科学・社会科学分野を中心とした出版活動を行っています。
Published On: 2026/4/14

 
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苗 婧 著
『「理勢」的思惟様式と近代中国 郭嵩燾の西洋認識と開かれた文明観』

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序章 「理勢」から読み解く郭嵩燾――西洋認識と文明観の思想的基盤
 
 本書は、近代中国の初代駐外公使である郭嵩燾(一八一八─一八九一)が、同時代の清末中国の多くの儒教的知識人とは一線を画す、きわめて開かれた西洋認識と文明観を形成したことに注目し、その思想的基盤を解明することを目的とする。
 郭嵩燾は、中国最初の外国駐在公使として、一八七七年から一八七九年まで約二年間にわたり西洋諸国に滞在し、その政治・社会の実態を直接観察した人物として知られている。一八七五年、雲南省とビルマとの国境付近で発生したマーガリー事件の処理を契機として駐英公使(出使英国欽差大臣)に任命され、さらに一八七八年には駐仏公使(出使法国欽差大臣)を兼任した郭は、清末中国が未曽有の対外的危機に直面する只中で、西洋世界と向き合う立場に置かれた。その過程で彼は、伝統的な儒教的教養に深く根ざしつつも、西洋の政治・社会の現実を冷静かつ誠実に観察し、同時代の多くの儒教的知識人とは明確に異なる、きわめて開かれた西洋認識と文明観を形成するに至った。
 注目すべきは、郭嵩燾のこのような西洋認識と文明観が、単に駐外経験という外的契機によって偶発的にもたらされたものではない、という点である。本書が明らかにしようとするのは、郭の西洋認識が、より根本的には、彼自身が生涯にわたって尊崇した明末清初の思想家王夫之に通底する、儒教伝統の内部から生み出された思惟様式――すなわち「理勢」的思惟様式――に支えられていたということである。
 本書はこの「理勢」的思惟様式が、「近代」という新たな時代状況のもとで、郭嵩燾によっていかに内在的に展開され、西洋という文明的他者に真正面から向き合い、それを認識しうる思想的条件を形成したのかを解明する。
 とりわけ重要なのは、儒教伝統に由来するこの思惟様式が、郭嵩燾にとって西洋認識の障害として作用したのではなく、むしろ逆に、従来の伝統的文明観に内在していた自己閉鎖性を超え、より開かれた文明観へと向かうための決定的な思想的資源として機能した点である。本書は、この点を明らかにすることを通じて、儒教伝統が近代という歴史的条件のもとで示しえた内発的展開の可能性と、その思想史的・文明論的意義とを提示することを目指す。
 
第一節 清末中国の改革知識人と郭嵩燾
 
一 洋務論者の西洋認識と伝統的文明観
 郭嵩燾が生きた十九世紀の中国に多大な影響を与えたのは、いわゆる「西洋の衝撃」であった。遠方よりやってきた西洋諸国の圧倒的な軍事力と政治的圧力に直面し、清末中国は否応なく西洋と向き合うことを余儀なくされたのである。
 一八四〇年のアヘン戦争における敗北は、直ちに清末中国の士大夫たちに西洋への本格的関心を喚起したわけではない。しかし一八六〇年代に入り、アロー戦争における再度の敗北と、太平天国の乱という深刻な内乱とが重なったことで、清朝体制は内憂外患の危機に直面した。この過程で、一部の士大夫たちは、従来の体制のままでは国の存立が危ういとの切迫した認識を抱くに至り、改革の必要性を自覚するようになった。その結果として展開されたのが、西洋の軍事的優勢を支える機械技術や自然科学を導入することによって中国の「自強」を図ろうとする、いわゆる「洋務運動」である。洋務運動は、一八六〇年代から一八九〇年代にかけて継続的に推進された、清末改革の中心的潮流であった。
 洋務運動を担った改革志向の士大夫たちが、西洋受容を正当化する際に依拠した論理は、主として「附会」論と「中体西用」論であった。
 「附会」論とは、西洋の機械技術や自然科学を導入するにあたり、それらを中国固有の思想や古典、たとえば『墨子』に起源をもつものとして位置づけ、西洋からの模倣ではなく、本来中国に備わっていたものの回復にすぎないと主張する論理である。
 また「中体西用」論とは、文明の本質をなす「体」は中国にあり、西洋が優れているのはあくまで機械技術や自然科学といった非本質的な「用」の領域にすぎないとする見解である。この論理において、「西学」は、富国強兵のための手段として限定的に受容されるべきものとされた。
 洋務運動期の改革志向の士大夫たちは、西洋諸国の軍事的優勢という現実を一定程度認めつつも、中国文明を唯一の普遍的なものとみなす伝統的文明観そのものを疑うことはなかった。彼らは、中国の絶対的な文明的優越性を先験的前提として保持したまま、西洋の機械技術や自然科学といった「末」にのみ関心を向け、西洋を依然として従来の「夷狄」の延長線上に位置づけていたのである。
 この点において、中国の文明的優越性に対する確信と、軍事的劣勢の承認とは、士大夫たちにとって決して矛盾するものではなかった。なぜなら、中国史において、周辺の「夷狄」から軍事的圧力を受けること自体は、決して例外的な事態ではなかったからである。重要なのは、「そのような再三にわたる軍事侵略にもかかわらず、中国文明は一貫して持続し、中国文明に対する士大夫の確信――貝塚(茂樹)が『中華世界観』と呼んだもの――が根本的に揺らぐことはなかったのであり、その意識は、軍事的強弱とは別個の次元に成立し得る」ということである。
 さらに、士大夫たちが伝統的文明観に固執した背景には、中国文明への信念だけでなく、彼ら自身の社会的存在形態が深く関わっていた。伝統的文明観は、士大夫たちの社会的権威と地位に正当性を付与していたのである。伝統中国において、支配の本質は有徳者による民の教化にあると観念されており、皇帝を補佐して教化を担う士大夫には、それにふさわしい文化能力と道徳能力が求められ、その能力を検証するのが科挙試験であった。また、士大夫の権威は、王朝内部の庶民に対するものに止まらなかった。対外的秩序における華夷の区別のもとでは、儒教的価値を中核とする中国文明以外に文明は存在し得ないというのが、儒教的知識人である士大夫たちには自明の前提であった。この前提があったからこそ、士大夫が社会的指導者として有する権威と、それを配分する主体である皇帝および政府の権威とが、ともに確保されていたのである。換言すれば、中国の絶対的な文明的優越性の擁護は、士大夫自身の権威の確保と表裏一体の関係にあった。そのため、伝統的文明観に対するあらゆる形式の疑問や批判は、士大夫の権威とその正当性に対する否定を意味するにほかならなかった。士大夫のこのような社会的存在形態は、彼らの認識や言動を規定し、彼らの西洋受容を困難にしたのである。
 したがって、伝統的文明観を前提とする限り、改革志向の士大夫たちは、主体的に外部へと視野を開き、西洋を文明的他者として真正面から捉えることができなかった。この自己完結的な文明観は、彼らの思考を閉鎖的なものにとどめたのである。このような認識構造は、「西洋の衝撃」によってもたらされた新たな時代状況に十分に対応し得ず、最終的には、日清戦争の敗戦に象徴されるように、洋務運動が三〇年余を経て挫折に至る一因を成したと考えられる。
 
二 郭嵩燾の開かれた西洋認識と文明観
 以上のような、自己完結的な伝統的文明観に制約された清末中国の改革志向の士大夫たちの西洋認識と比較すれば、郭嵩燾の西洋認識およびそれと不可分に結びついた文明観は、同時代において際立って特異なものであったと言える。郭は生涯にわたり「洋務」と深く関わり、その能力や見識は同時代の人々から一定の評価を受けていたが、彼の西洋認識は、当時の清末中国において広く共有されていた伝統的文明観と相容れるものではなかった。そのため、郭はしばしば孤立を余儀なくされ、その孤独は、彼の西洋認識が有していた独自性を象徴するものでもあった。
 郭嵩燾の開かれた西洋認識と文明観が、いかなる経験のもとで形成されていったのかを理解するためには、彼の生い立ちと、その過程における「洋務」との関わりとを概観することが不可欠である。以下では、郭の思想形成の前提としての経歴を、「洋務」との関係に即して簡潔に整理しておく。
 
生い立ち
 郭嵩燾(一八一八─一八九一)は、字を伯琛、号を筠仙・玉池老人・養知先生といい、湖南省湘陰県の出身である。一八四七年に進士に及第し、李鴻章と同年の進士であったほか、同郷の曽国藩や左宗棠とも親交を有していた。
 郭が西洋と初めて直接向き合ったのは、アヘン戦争の時期である。一八四一年、浙江学政羅文俊の幕友として浙江省に赴いた郭は、戦争の実態を現地で直接目にする経験を得た。さらに、一八五二年に太平天国の乱に遭遇して山中に避難した際には、王夫之の『礼記章句』を読み込んでいた。翌一八五三年には、曽国藩に協力して湘軍の結成に関わり、その後も曽国藩の下で軍費調達など財政関連の実務に従事した。この過程で、郭は西洋人と接触し、彼らを実際に観察する機会を少なからず得ていた。
 一八五八年、郭は上京して翰林院編修に任命され、翌一八五九年には南書房行走に任命された。一八五六年に勃発したアロー戦争の最中であった一八五九年には、欽差大臣僧格林沁とともに天津海防の整備に携わり、英仏軍の侵攻に備えたが、対外方針をめぐって両者の見解は一致せず、その後、郭は煙台における税厘徴収の調査を命じられたものの、僧格林沁からの弾劾を受けて降格処分となった。一八六〇年、郭は病を理由に官職を辞し、郷里に帰した。
 一八六三年には署広東巡撫に任命され、広州に約三年間駐在した。この期間、郭は西洋人と直接外交交渉を行い、対外折衝の実務経験を積んだが、両広総督毛鴻賓との関係が悪化し、一八六六年に解任された。その後は郷里に戻り、約一〇年にわたって城南書院で教鞭をとるとともに、思賢講舎の設立など教育活動に従事しながら、著述と講学に力を注いだ。
 一八七五年、郭は福建按察使に任命されたが、ほどなくして発生したマーガリー事件を契機に、その謝罪外交を担うため、駐英公使(出使英国欽差大臣)に任命された。この人事は、盟友である李鴻章の推薦による可能性が高いが、同時に、署広東巡撫時代に西洋との交渉を比較的円滑に処理してきた実績から、郭が「洋務」に通じた人物として朝廷内部で認識されていたことにもよると考えられる。初の本格的駐外公使派遣という難題を前にして、郭以上に適任と見なされる人物は、当時ほとんど存在しなかったと言えよう。
 郭は一八七六年一二月、副使の劉錫鴻および随員を率いて上海を出発し、香港・シンガポールなどを経由して、一八七七年初頭にロンドンに到着した。翌一八七八年には、さらに駐仏公使(出使法国欽差大臣)を兼任することとなった。赴任途中の見聞を記した報告は総理衙門に提出されたが、これが郭の了承を得ないまま『使西紀程』として刊行された。同書は郭の私的日記に比べれば西洋評価を抑制した内容であったにもかかわらず、清議派を中心とする保守的士大夫から激しい批判を浴びることとなった。『使西紀程』の出版は、総理衙門内部に郭の理解者が存在していた可能性を示唆する一方で、郭の西洋認識――それも渡航途中で得た限定的な見聞に基づくものであったにもかかわらず――を受け入れる思想的土壌が、当時の中国社会にはなお欠けていたことを物語っている。
 郭は一八七七年から一八七九年にかけて約二年間西洋に滞在し、政治・社会の実態を身近に観察したが、副使の劉錫鴻との対立が深まり、任を辞するに至り、一八七九年三月に帰国した。帰国後、郭は上京することなく郷里に戻り、以後は郷紳として講学と著述に専念する生活を送った。しかし、在野の立場にあっても、郭は朝廷の動向を注意深く見守り続け、政治・外交上の諸問題についての意見を、日記や書簡、さらには李鴻章や左宗棠といった有力者による代替上奏を通じて、絶えず発信し続けたのである。
 
「附会」論・「中体西用」論批判
 前述のように、洋務運動期における改革志向の士大夫たちは、自己完結的な伝統的文明観を前提とし、それに強く制約されていたため、彼らの西洋認識および西洋受容は、「附会」論や「中体西用」論という枠組みのもとで展開せざるを得なかった。同時代の郭嵩燾も、洋務に関してたびたび意見を述べ、曽国藩・李鴻章・左宗棠といった洋務運動の代表的人物と近い関係にあったことから、しばしば開明的な洋務論者の一員として位置づけられてきた。しかし実際には、郭は、洋務論者に広く共有されていた「附会」論および「中体西用」論に対して、むしろ厳しい批判を加えており、この点において、彼を単純に洋務論者として把握することはできない。
 郭嵩燾による「附会」論および「中体西用」論への批判については、第六章において詳しく検討するが、ここでは、彼の西洋認識の基本的特徴を示すため、要点のみを確認しておきたい。
 まず、「附会」論に対して、郭は明確に距離を取っていた。たとえば、彼は張自牧『瀛海論』に見られる議論を批判し、ローマカトリックを意味する「天主」を東方起源のものとみなす張自牧の説を厳しく批判した厳復の姿勢を高く評価・共感し、西洋の文物を中国起源とみなすいわゆる「中源」説に対して明確な懐疑を示した。また、彼は鄒伯奇が馮桂芬『西算新法直解』のために執筆した序文に言及し、そこに見られる西洋の数学を中国起源とみなす主張を批判し、「西法」の源を「中法」に求めようとする「附会」的態度を一貫して退けた。
 そして、郭は「中体西用」論を「本末」転倒として、強い批判を加えた。たとえば、左宗棠がドイツから織機を購入し、多数の西洋人職工を招致したことに対して、郭はこれを「本を捨てて末を求める(舍本而務末)」行為であり、中国が当面直面している根本的課題を見据えていないと断じた。また、李鴻章・沈葆楨・丁日昌らが富強の術の探究に専心しながら、その「本源」について十分に検討していない点を問題視し、彼らの改革を「末を治めて本を忘れ、末流を追って源を見失う(治末而忘其本、窮委而昧其源)」ものだと厳しく批判した。
 このように郭嵩燾は、「附会」論を「西学」を「中源」へと無理に結び付けようとする思考として、また「中体西用」論を「本」を見失い「末」にのみ執着する「本末」転倒の議論として位置づけ、一貫して批判した。洋務運動期における士大夫たちの改革論は、いずれも伝統的文明観を先験的前提とし、中国の絶対的な文明的優越性を暗黙のうちに承認したうえで構想されたものであった。これに向けられた郭嵩燾の批判は、単なる政策や方法論に対する異論にとどまるものではなく、中国の文明的自己絶対視を問題化し、西洋を文明の次元において真正面から認識し、評価すべき対象として捉える立場に立っていたことを示している。
 
文明の次元における西洋評価
 郭嵩燾は、西洋に長期滞在する以前から、すでに西洋を従来の「夷狄」とは異なる文明的存在として捉えていた。たとえば、駐英公使に任命された一八七五年に、恭親王奕訢への上書において、郭は「西洋の立国には『本』と『末』があります。その『本』は朝廷による政教にあります(西洋立国有本有末、其本在朝廷政教)」と述べている。また、渡英途中の一八七七年一月には、「西洋は、立国以来二千年にわたり、政教が修明であり、本末が具わっている。遼・金が一時的に勃興しては忽ち盛衰を繰り返したこととは、その状況が全く異なる(西洋立国二千年、政教修明、具有本末、与遼、金崛起一時、倏盛倏衰、情形絶異)」と記している。
 これらの言説が示すように、郭はイギリス赴任以前、実地の西洋観察を本格的に行う前から、西洋を文明の末端に属する「末」のみならず、文明の本質に関わる「本」においても優れている「本末」兼備の文明として把握していたのである。
 その後、現地における西洋観察を通じて、郭の西洋認識はさらに深化し、西洋の文明性に対する評価も一層明確なものとなっていった。たとえば、郭は中国の「有道・無道」という枠組みを用いて、古の三代・秦漢以降・西洋を比較して次のように論じている。

 三代以前には、つねに中国が有道をもって夷狄の無道を制していた。秦漢以降はもっぱら強弱をもって相制するようになり、中国が強ければ夷狄を併合し、夷狄が強ければ中国を侵犯し、互いに無道となる関係に陥ったにすぎない。西洋諸国と通商を開いて三十余年、西洋がその有道をもって中国の無道を攻めるかのような状況にある。ゆえに、まことに危ういのである。(一八七八年)
 (三代以前、皆以中国之有道制夷狄之無道。秦漢而後、専以強弱相制、中国強則兼並夷狄、夷狄強則侵陵中国、相与為無道而已。自西洋通商三十餘年、乃似以其有道攻中国之無道、故可危矣。)

郭は、古の三代には「有道」の中国が「無道」の夷狄を制していたのに対して、清末に至っては、西洋こそが「有道」を体現しているようであり、中国がその位置を次第に失いつつあると認識した。ここに示されているのは、清末中国が直面している危機を、単なる軍事的・国力的劣勢の問題としてではなく、より根源的な文明的課題として捉えた郭の問題意識である。
 また、郭は西洋における「文明・半開・野蛮」という文明の段階区分を踏まえ、中国の三代・漢以降・清末・西洋の関係を次のように位置づけている。

 西洋では、政教が修明な国をシビライズド(civilized)と称し、ヨーロッパ諸国は皆この名をもって呼ばれている。その他の中国、トルコやペルシャをハーフシビライズド(half-civilized)と言う。ハーフとは、半分得るという意味で、すなわち半分教化があり、半分教化がないということである。アフリカ、イスラム諸国をバーバリアン(barbarian)と称するが、中国における夷狄に相当し、西洋ではこれらを教化なき国という。三代以前には、中国のみが教化を備えたため、要服、荒服という称があり、いずれも中国から遠ざけさせ、夷狄と呼んだ。漢代以降、中国の教化は次第に衰え、政教風俗においては、むしろヨーロッパ諸国がその優位を独占するに至った。現在、彼らが中国を見る眼は、まさに三代の盛時に中国が夷狄を見たのと同じなのである。(一八七八年)
 (西洋言政教修明之国曰色維来意斯得、欧洲諸国皆名之。其餘中国及土耳其及波斯曰哈甫色維来意斯得。哈甫者、訳言得半也、意謂一半有教化、一半無之。其名阿非利加諸回国曰巴爾比里安、猶中国夷狄之称也、西洋謂之無教化。三代以前、独中国有教化耳、故有要服、荒服之名、一皆遠之于中国而名曰夷狄。自漢以来、中国教化日益微滅、而政教風俗、欧洲各国乃独擅其勝、其視中国、亦猶三代盛時之視夷狄也。)

郭によれば、「政教修明」の西洋諸文明国が教化の衰微した清末中国を見る眼差しは、かつて三代の盛時に中国が夷狄を見ていた視線と相似している。郭はこの対比を通じて、清末中国の文明的自己絶対視を相対化すると同時に、西洋の文明性を、従来理想とされてきた三代と比肩しうる水準に位置づけて評価したのである。
 さらに、郭は西洋の政治を三代聖人による政治と比較し、次のように述べている。

 聖人は自らの一身をもって天下のために労苦を負ったが、西洋ではこれを臣庶に公にしている。一身の聖徳は永続することができず、文王・武王・成王・康王の四聖が相継いでも百年と続かなかった。しかし、臣庶による展開と発展は尽きることがなく、時が経つほどに人文はいっそう盛んになる。三代の聖人による公天下も、この点においてはなお欠けるところがあったのではないかと疑われる。(一八七八年)
 (聖人以其一身為天下任労、而西洋以公之臣庶。一身之聖徳不能常也、文、武、成、康四聖、相承不及百年、而臣庶之推衍無窮、愈久而人文愈盛。頗疑三代聖人之公天下、于此猶有歉者。)

郭は、三代の政治が卓越した聖徳を備えた聖人の存在によって支えられていた一方で、それが聖人個人の徳性に依拠する以上、長期的な持続性を必ずしも保証しえないという構造的限界を指摘した。これに加えて彼は、西洋の政治が臣民に広く開かれることによって、継続的かつ発展的な政治運営を可能にしている点を高く評価した。こうして、郭は西洋における「公之臣庶」の政治との比較を通じて、従来理想視されてきた三代聖人による「公天下」の政治が有する限界をも明らかにしたのである。
 以上のように、洋務運動期における改革志向の士大夫たちと比較すれば、郭嵩燾は、自己完結的な伝統的文明観に拘束されることなく、文明の次元において西洋を正面から評価する立場に立っていた。郭は、清末中国が自らの絶対的な文明的優越性を先験的に主張し、西洋を一方的に「夷」と断じる態度を厳しく批判する一方で、西洋が清末中国を凌駕する文明的水準に到達していることを率直に認めた。さらに、郭は西洋を従来理想とされてきた三代にも比肩しうる文明的存在として捉え、その比較を通じて、三代聖人による政治が有する限界を指摘するに至ったのである。
 このような、同時代に類を見ない郭嵩燾の開かれた西洋認識と文明観は、すでに多くの研究者の注目を集めてきた。以下では、先行研究を踏まえつつ、郭嵩燾の西洋認識と文明観がいかに理解されてきたのかを整理し、本書の立場を明確にしていく。
(以下、本文つづく。注は割愛しました)
 
 
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