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ジョエル・カッパーマン 著
藤井翔太 訳
『アジア哲学入門』
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訳者解説
はじめに
本書は、Joel J. Kupperman, Classic Asian Philosophy : A Guide to the Essential Texts, 2nd ed. (New York : Oxford University Press, 2006) の全訳である。原著のタイトル「古代アジア哲学:重要なテクスト群への一つのガイド」が示しているように、インド、中国、そして日本の知的・宗教的伝統において中心的な役割を果たしてきた八つの古典と、イスラム哲学から一つの古典を取り上げ、それらを徹頭徹尾「哲学書」として─それも、英米圏で主流となっている分析哲学の議論に接続可能なものとして─読解することを試みた作品である。
著者について
著者のジョエル・カッパーマンは、アメリカ合衆国出身の哲学者である。ただし、同国の少なくとも特定の世代にとっては、学者としての顔ではなく、「天才少年」としてお茶の間で親しまれた人物という側面の方が広く認識されていたようである。一九三六年にユダヤ系の家庭に生まれたカッパーマンは、幼少期にラジオ・テレビ番組「Quiz Kids」にレギュラー出演し、一時期は全米に知らぬ者がいないほどその名を轟かせていたという。もはや「Kids」とは呼び難い年齢に達したときに彼は番組から離れ、弱冠一六歳で名門シカゴ大学に入学し、わずか二年で学士号(A.B.)を、その翌年には二つ目の学士号(S.B.)を、そしてその次の年には修士号(A.M.)を得ている。当時の専門は数学だったが、在学中に同大学で教鞭をとっていた中国学者のH・G・クリールの授業を通じてアジア哲学に出会い、心を惹かれたようである。ただしカッパーマンは、その知名度と同級生よりも年齢が下だったこともあいまってか、シカゴ大学では周囲の学生から壮絶ないじめにあってしまう。彼の境遇を懸念した教員から与えられた、米国を離れるべきだという勧めに従い、博士課程からはイギリスのケンブリッジ大学に転じ、一九六三年には同大学から哲学博士号を授与される(学位論文題目は“Evaluations of Works of Art”)。職歴としては、一九六〇年にコネティカット大学哲学科に着任してから、二〇一三年に定年退職するまで、同大学で長く教鞭をとった。二〇二〇年、新型コロナウイルス合併症により死去。
カッパーマンの生前の仕事がまとまった業績リストには、「倫理学」「形而上学・心の哲学」「アジア・比較哲学」「応用哲学」「美学」というカテゴリーがあり、それぞれの領域で数多くの論文を発表していることが分かる。英語圏の倫理学者の間では、彼はとりわけ、人柄・性格(character)を重視した徳倫理学的な主張、そして価値論(axiology)の仕事によってよく知られている。日本で彼の学説がまとまった形で紹介された事例は管見の限り見当たらない。しかしながら、彼の議論の一部である「人柄・性格」論については、倫理学者や哲学者によって参照されている例が、僅かながら確認できる。ほかには、二〇〇五年にカナダ・トロントで開催された「渋沢北米セミナー」に登壇した際のカッパーマンの発言要旨が日本語訳されて文書の形で残ってはいる。
彼の業績リストから単著・共著だけ抜き出したものが、次である。
1.Fundamentals of Logic (with A.S. McGrade) (Garden City : Doubleday, 1966)
2.Ethical Knowledge (London : Geo. Allen & Unwin, Muirhead Library of Philosophy, 1970 ; reprint by Routledge, 2002)
3.Philosophy : The Fundamental Problems (New York : St. Martin’s Press, 1978)
4.The Foundations of Morality (London and Boston : Geo. Allen & Unwin, 1983)
5.Character (New York : Oxford University Press, 1991)
6.Value… And What Follows (New York : Oxford University Press, 1999)
7.Learning From Asian Philosophy (New York : Oxford University Press, 1999)
8.Classic Asian Philosophy : A Guide to the Essential Texts (New York : Oxford University Press, 2001 ; second edition, 2006)〔本書〕
9.Six Myths About the Good Life : Thinking About What Has Value (Indianapolis : Hackett, 2006)
10.Ethics and Qualities of Life (New York : Oxford University Press, 2007)
11.Theories of Human Nature (Indianapolis : Hackett, 2010)
(1)と(3)は、大学生向けの哲学入門書、(2)、(4)、(5)、(6)、(9)、(1
0)、(11)は倫理学・価値論に関する研究書、そして(7)と(8)はアジア哲学に関する作品である(ただし、倫理学・価値論に関する研究書でも、インド哲学や中国哲学の文献が西洋哲学の議論と分け隔てなく参照されている)。中でも(5)は、彼の作品の中で最もよく引用されているものであり、また(6)は、価値論の研究者として強い影響力をもつロジャー・クリスプやトマス・ハーカらがレビュー論考を発表していることから、それぞれ倫理学・価値論におけるカッパーマンの代表作とみなせるだろう。
カッパーマンは、本書のような啓蒙的著作をいくつも執筆していることからも察せられるように、研究のみならず教育にも注力していたようで、一九七三年にはコネティカット大学から優秀教員賞(Faculty Excellence in Teaching award)を授与されている。加えて、「近年、非西洋の哲学的諸伝統に対して研究者たちの注目が集まっているが、そのはるか以前から」東洋の哲学・思想に多大なる関心を向けていた人物としても知られており、大学院でアジア哲学のセミナーも開いていた彼のもとには、こうしたテーマを研究することを欲する学生が国内外から集い、結果としてアジア哲学の専門家を幾人も育てることになった。彼の指導を受けた研究者をはじめ、アジア哲学・比較哲学を専門とする多数の研究者らが、カッパーマンの哲学を多角的に論じた、次の記念論文集も編まれている。
Chenyang Li and Peimin Ni, eds. Moral Cultivation and Confucian Character : Engaging Joel J. Kupperman. (Albany : State University of New York Press, 2014 )
本書の特徴
本書では、アジアの知的伝統を規定してきた主要な文献が九冊取り上げられ、それぞれの核心に次のようなトピックが見出され、探究されていく。インド哲学における自己/非自己の存在論(ウパニシャッド、『ダンマパダ』)、没我的行為の様相(『バガヴァッド・ギーター』);イスラム哲学における神との合一(『叡智の台座』);中国哲学における徳倫理学と人間形成論(『論語』)、人間本性論(『孟子』)、言語の限界と自律の問題(『老子道徳経』)、反実在論と生成変化(『荘子』);日本哲学における空の思想(『禅肉・禅骨』)。最終章では、これら九冊を振り返り、その共通点を探りつつ、それぞれが人の生を変容させうる魅力的な世界観を提示していることが確認される。テクストの選定は概ね標準的であり、またそこで示される解釈も全体的に教科書的な理解に沿ったものではある。
本書をユニークなものにしている要素の一つは、カッパーマンがそれぞれのテクストの中に、「暗黙の論証構造(an implicit structure of argument)」を見出そうと試みている点にある。たとえば、本書で取り上げられている『カタ・ウパニシャッド』は少年と死神の対話篇、『論語』は孔子の言行録、そして『老子道徳経』は詩という形式で表現されており、今日の学術論文に見られるような明示的な論証のフォーマット(明確な主張と、それを裏付ける根拠の秩序だった提示)とは似ても似つかないスタイルで書かれている。このように、いっけん、論証が見当たらないテクストに内在する論証を特定し、それを再構成しようというのが、彼の目論見の一つなのである。一例として、ウパニシャッドで語られるアートマンの存在様態について、カッパーマンは次のような議論として整理している。
・私たち一人ひとりには、持続的な「私」がある。
・この「私」は、(直観的に捉えられる通り、)変化しないものであるはずだ。
・しかし、人柄や思考パターンなどは変化する。
・したがって、持続的な「私」には、そのような要素は含まれえない。(本書p. 15)
こうした論証構造を取り出すにあたり、西洋哲学の議論をふんだんに援用していることもまた、本書らしいアプローチだといえる。例として、ウパニシャッドがテーマとなっている先の章においては、人格の同一性(personal identity)について思索を深めたデイヴィッド・ヒューム、イマヌエル・カント、デレク・パーフィット、ロデリック・チザムらの議論が補助線として参照されている。
このような方針に対しては、「別の伝統に属するテクストを読む際に、そのテクストも自分が最も慣れ親しんでいる伝統と同じ問いを立て、同じような仕方で応答や答えを構成しているはずだと無意識に前提してしまう」という、比較哲学にありがちな過ちを犯すものではないか、という疑義を投げかける者もいるかもしれない。だが、ことカッパーマンに関しては、それは当てはまらないだろう。というのも、こういった危険性があり、それに陥らないよう注意を払うことについて、「序文」で明言されているからだ。いわく、「本書全体を通じた私の戦略とは、西洋に見られる対応物を適切な場合には利用することと、アジアのテクストにおける特徴的で、いわば翻訳不可能な要素を探ること、これらのバランスをとるというものだ」(p. vi)。
むしろカッパーマンは、言語による定式化を拒むような真理や価値があるという洞察と、それをなんとか言語という不完全なメディアを用いて示唆しようと試みている点に、アジア哲学の真価を見出しているように思われる。「~ではない何か」として示されるアートマンや、「道はある、しかしその道は未踏のままだ〔There are ways but the Way is uncharted〕」(p. 187)という詩によって仄めかされる超越的真理(『老子道徳経』)は、直接的・明示的に「これだ」と指し示されうるものではない。もしそれらを何とか伝達しようとするのであれば、それは言語を通常とは異なる仕方で用いるほかにはないだろう。『論語』が無秩序ともいえるエピソードの集積として著されている背景には、徳が有限の原理やルールを内在化することには還元されえず、ただ優れた有徳な人物の有り様から学び取りうるものでしかないというメッセージを、パフォーマティブに示すという意図ないしは効果があると、カッパーマンは解釈する。このように、叙述のスタイルにはその哲学の内容と必然的な関連性があるという解釈方針は、「メディアはメッセージである」と説いたマーシャル・マクルーハンを意識したものだと思われる(p. 219)。
そして何より、アジア哲学には、今日の専門分化が進んだアカデミックな哲学・倫理学から失われて久しい、日常をいかに生きるのが望ましいかというヴィジョンを提示してくれていると、カッパーマンは評価している(第10章)。彼は、「過去二五〇年に展開されてきた西洋の倫理学説の多く」は、列車が暴走したときにどのレールにいる人を轢くべきかという思考実験に代表されるような、「『重大な瞬間』の倫理学(“big-moment” ethics)」にばかり注目してきたことを懸念している(p. 137)。確かに、私たちの人生においても、このようなドラマティックな瞬間が訪れ、そこで重大な決断を迫られることは、ありうる。しかし、ではそういった稀にしか訪れない瞬間とその次の同様の瞬間の隙間にある日常生活について、倫理学は何を語りうるのか、という問題が生じるだろう。これに対して、たとえば孔子の倫理学は、「個人が持つ人間関係のあり方や、より一般的には生の狭間、つまり大きな選択の間の瞬間に、より大きな注意を払う」(p. 137)。そして『論語』だけではなく、本書で取り上げられているどの古典にも、真剣な読者の生の質を変容させうるポテンシャルが備わっている。フランスの哲学史家ピエール・アドは、古代ギリシアの哲学実践を「生き方としての哲学」と呼称したが、カッパーマンはまさにそのような哲学的プロジェクトを、アジアの知的伝統において見出しているのである。
本書の意義
本書は、アジア哲学について知りたい・理解したいと望むあらゆる人にとって、優れたガイドとして機能するだろう。日本の中学校・高校に通った人であれば、本書で取り上げられたような中国の思想には漢文の授業において、あるいはインドの思想については倫理や世界史の授業において、すでにある程度触れているかもしれない。だが多くの人は、定期試験や受験のために表面的な知識や訓読技法を身につけるのに手一杯であり、そこで表現されている哲学・思想の内実や、それが自分の人生にとってどのような意義をもつものであるか、じっくり考える余裕などなかっただろう。それに、授業時間の都合上、原典を一冊丸ごと読むのではなく、その中の有名な箇所のみを断片的に読むにとどまっていたはずである。こうした制度的な制約に加え、日本語話者であれば、言語の特性上、漢字で書かれたアジア哲学の言葉や概念については、そのままの形でなんとなく理解できたという錯覚に陥りやすいため、腹落ちする水準でその意味について深く考えるというプロセスも、抜け落ちてしまいがちなのではないだろうか(たとえば、「梵我一如」「仁」「空」などの概念を漢語として学んだ人のうち、どれだけの数が自らの言葉でこれらを説明できるだろうか)。そうした読者─私を含む─にとって、本書は慣れ親しんでいたはずの古典に、フレッシュな哲学的出会い直しの機会を提供するものだといえる。
また本書は、たとえアジア哲学に対して格別の関心を持たない読者にとっても、オリジナルかつ魅力的な「生き方としての哲学」を提供してくれるものでもある。そもそも、本書で扱われる古典は、千年単位で読み返されてきた重厚かつ重要な作品であり、そのそれぞれについて膨大な量の注釈が積み重ねられてきている。著者のカッパーマンがそれら先行研究のすべてに目を通したはずはなく、それゆえ、専門家が本書を手に取ったならばただちに目に留まるような基礎的な誤解がなされている可能性は、大いにある。そして、まさにそうした誤解や誤読の余地があるからこそ、本書のような作品には加わる価値がありうる。本書でも言及されているイギリスの東洋学者アーサー・ウェイリーは、かつて日本の『源氏物語』をA Tale of Genji というタイトルで英訳し、この日本文学の古典を世界に紹介した。近年、毬矢まりえと森山恵の二人が、このウェイリー版『源氏物語』をあえて現代日本語に訳し直したことで、注目を集めた。彼女らは自らの営みを、単なる「戻し訳」にとどまらない「らせん訳」と名付けた。このプロセスを通じて生まれる異化効果によって、読者が作品に対して抱いている「固定観念を揺さぶり、新鮮な目で出会い直したい。それを読者と分かち合いたい」というのが彼女らの意図である。同様に、こうして日本語訳される本書も、ある種の「らせん訳」なのだと考えられないだろうか。文学研究者のデイヴィッド・ダムロッシュは「世界文学(world literature)」の定義の一つに、「翻訳を通じて新たな価値を獲得する書物(writing that gains in translation) 」を含めていた。これにならって、「世界哲学」を定義することも、あるいはできるかもしれない。すなわち、世界文学が言語的翻訳を通じて新たな価値をまとうものだとしたら、世界哲学は概念的翻訳を通じて新たな価値をまとうものである、と。カッパーマンが、どの程度サンスクリット語、パーリ語、アラビア語、中国語、そして日本語を理解していたかは定かではない。しかしながら彼は、英語圏で育ち、教育を受け、固有の人生を歩んで形成された自らの人柄・性格というプリズムを通して、アジア哲学の諸概念を見事に咀嚼し、自らの言葉で表現しえた。その成果の「らせん訳」としての本書がどれほど成功しているかについては、読者の判断を待ちたいと思う。
謝辞
本書の刊行にあたり、次の方々より重要なご支援とご助力を賜った。ここに厚く御礼申し上げる。本書の編集作業をご担当くださったのは、拙訳『アメリカ哲学入門』に引き続き、山田政弘氏である。当初の予定を大幅に超え、提出が遅れた原稿に対する「いつもながらのすばらしい訳文、ありがとうございます! 読みやすい!」というMicrosoft Teams 上でのリアクションに、大いに励まされた。同編集部の鈴木クニエ氏からは、適切な時期に適切なリマインダー(「ぼそっと、一〇月ですね…。」)をいただいた。おかげで、緊張感を失うことなくなんとか完成に漕ぎ着けることができた。表紙デザインについても、前作と同じく宮川和夫氏と梅村昇史氏のコンビに引き受けていただいた。今回も素晴らしい作品を仕上げてくださったことがとても嬉しい。本書の訳出にあたっては、「らせん訳」としての性格も踏まえ、あえて専門家に相談することはなかったが、禅宗について不安が残った箇所(具体的には第9章の注9)に関してのみ、中国哲学の専門家である陳佑真先生の御知恵を拝借した。それでも、本書の訳文・注釈に残る問題については、当然ながら訳者である私に責任があることを明記しておく。本書の帯推薦文は、納富信留先生にご執筆いただいた。ギリシア哲学研究の世界的大家でありながら、世界哲学という視座の重要性にいち早く注目し、日本でも精力的に紹介されている納富先生に本書の価値を見出していただけたことを、光栄に思う。








