Biblioscope 本占いと人生相談〈第1回〉ラヴ&ライフ@ティウィ

About the Author: 中村和恵

なかむら・かずえ  札幌出身、東京在住。詩、批評、エッセイ、翻訳等の書き手、英語圏ポストコロニアル文学を中心とする近現代文学の読み手。ちいさい「くに」(ネイション)と先住民族の土地を好んで旅し、書かれたことばと書かれていないことばの両方に関心がある。肩書きをひとことで、といわれ悩んだ末「ことばつかい」になった。主な作品に詩集『トカゲのラザロ』『天気予報』(ともに紫陽社)、エッセイ集『キミハドコニイルノ』(彩流社)、『降ります』『地上の飯』『dress after dress』(ともに平凡社)、『日本語に生まれて』(岩波書店)、編著に『世界中のアフリカへ行こう』(共著、岩波書店)、訳書にアール・ラヴレイス『ドラゴンは踊れない』(みすず書房)、トレイシー・K・スミス『火星の生命』(平凡社)、ジャッキー・ケイ『トランペット』(岩波書店)など。明治大学教授。
Published On: 2018/7/27By

 

人生、悩みがつきものですよね。この連載では、さまざまな悩みに対し、本の虫・中村和恵さんがホロスコープ(星占い)ならぬビブリオスコープ(本占い)をしてくださいます。[編集部]

 
 
第1回:ラヴ&ライフ@ティウィ
 

This world is beginning to end. So what? Give me that nut, will you?
――The Tale of Chipmunk in Topenitay

 
 
本と占い、という手書きの看板があの通りから姿を消したのは、随分前のことだ。一階は貸本屋で、旦那がはたきを手に本談義。二階では奥さんがそろばん占いという不思議なことをしていた。一度みてもらいたかったのに、気がついたらお店はなくなっていた。あとにはすぐ別の建物がたって、いまではどこにあったのかも、よくわからない。
 
ちょっと古い本が読みたい、とおもうことがある。つぎつぎ刊行される新刊書で本屋さんも書評者も手一杯。でも新旧関係なく、おもしろいものはおもしろい。古いからかえって、おもしろいということもある。自分が変われば、本も変わって見える。きちんと読んだわけでもないのに、ある一節がずっと気にかかっている、そんな本もある。
 
ちょっと前の本をいい感じに蒸し返すやり方を考えていて、あの貸本屋さんのことを思い出した。本と占いね。なんならひとつ、わたしも看板を出してみようか。人生相談本占い。ビブリオ+スコープ、本見者。
 
悩みつきない世の中である。こんな調子でつぎの氷河期まで人間はもつんだか、もったほうがいいんだか、それさえもうよくわからない世の中である。世界は終わりかけている、のかもしれない。しかし、だからといって、どうだというのだ。大きな悩みも小さな悩みも、目の前にあるものを、ひとつひとつ、なでくりまわして、磨き上げて、はい次、と前にでも後ろにでも横っちょにでも、進むなり、忘れるなりして、やり過ごしていくほかない。なんの因果か、生き物だからな。よりによって、人間なのだが。
今回の相談は先日の授業のあと、学生が訊いてきたことだ。
 
なんで結婚ってしなきゃならないんですか? いろんな人とつきあいたいって思うのはわるいことなんでしょうか。
 

結婚はしなきゃならないものではなくて、したい男女がしていいもの。それがいまの日本の法律。でも、しなきゃ、という圧力は実際ありますよね。でも質問はどっちかというと、ひとりの人と生涯連れ添うのが正しいという考え、結婚してそういう正しい生活を送るのが大人の義務という道徳観は、ほんとう? ということね。
 
まず、結婚やおつきあいに関する「正しい」に、絶対はない。これだけは絶対な事実。道徳は、時代や文化によって、ファッションみたいにくるくる変わる。ちょっと古い本をめくればすぐにわかること。なのでわたしは安易に不道徳とか堕落しているとか、きめつけたくないの。他人からみてどんなに変わっていて受け入れがたいようでも、人には人の事情がある。在るものを否定してはいけない。
 
じゃあなんでもあり? どんな欲望も許される?
 

同意がない性行為は暴力ですよ。だからレイプは関係ではないし、セクハラは恋じゃない。それがわかっていない御仁がまだまだおいでのようだけれど。相手がいやだということを強要すること、生命をつなぐ(食べる)必要もないのに生きているものを殺すこと、自分と同じ重みを異なる存在に認めず暴力や暴言で踏みにじること、つまり存在の否定、存在の軽侮。これは許されない。自分がされる側になったら、許せないでしょ。
 
それは大前提として、でも今回の質問を光源氏にしたら、多分びっくりね。明治の法律でもお妾さんが公的に認められていたことはご存じのとおり。経済力のある男性が別宅を持つことは男の甲斐性、といった、いわば準一夫多妻制的な結婚観が、ごく最近まで日本にはあった。いまは法的には、だめ。でも文化的には、完全には消えていない。
 
それは日本が遅れてるってことですか。
 

むしろそういう考え方を、しないっていうことかな。遅れてる、進んでる、じゃない。異なる文化がある。それぞれに善し悪しがある。大事なのはその文化が、どうあるべきか考えて選ばれているか、考え足らずで矛盾し混乱をよんでないか、じゃない? 文化は生き物、いま生きてる人が日々選んでつくっているもの。批判的分析は、判断材料として、よりよい未来のために必要なこと。
 
現在の日本では、結婚後は生涯ただ一人の人と連れ添うべき、という考えが、とくに女性たちの間では絶対視される一方で、準一夫多妻制的文化が、とくに男性たちの間に消え残っている。大きな矛盾に向き合わず、見ないふりしてる。また女を性的消費物とみなし性的魅力と若さだけで価値づけする前近代化の性産業文化の名残りが、男女問わず無意識に常識として共有されている。おばさん、ババア、と大人の女性をバカにする風潮は、老若男女、全国民の首を絞めてる。吐いた唾は自分の上、自分の大切な人の上に落ちる。いくらあらがっても、すべての人は老いるからね。なにが正しいのか理想なのか、まるでわからない。ちゃんと最初から、考え直したいよね。
 
この現状は、近代化をめざす日本が西洋文化の「こころ」(キリスト教倫理が大きくかかわる)を捨て、「かたち」だけ取り入れようとしたことと関係している。でも、いまそれはちょっと脇におこう。どっちがいいとか、わるいとかいう判断も。まず、世界には数多くの違う考え方、複数の倫理があるってことを納得してほしい。それで、今回の本ですが。
 


ジェーン・グッデール
『ティウィの妻 北オーストラリア・メルヴィル島の女性たちの研究』
Jane C. Goodale
Tiwi Wives: A Study of the Women of the Melville Island, North Australia.
Seattle and London: University of Washington Press, 1971

 
翻訳なし。基本、日本語で読める本を紹介したいけれど、今回はごめんなさい。

 
メルヴィル島はオーストラリア北端、港町ダーウィンの80キロ沖合いにあるティウィ諸島の島。本書でティウィ(より最近の研究ではトゥヌヴィヴィ)と呼ばれる島民は、対岸の本土北端・アーネムランドの人たちとは、言語も文化も大きく隔たっている。多様なオーストラリア先住民族を、アボリジニ、とまとめて呼ぶのは、やっぱり乱暴なのね。
 
ティウィの人々が西洋近代文化の影響を永続的に受けるようになったのは、19世紀末以降のこと。人類学者のジェーン・グッデールは1954年にメルヴィル島の先住民居留地に8ヵ月ほど滞在、1962年に再訪、調査結果を先行研究に照らし合わせこの本をまとめた。当時の島の人口は1000人ほど、現在は2500人ほどで、そのほとんどが先住民族だそう。
 
この本がおもしろいのは、研究書でありながら、伝統的なティウィ女性の人生を、生まれる前から死んだ後まで(それがティウィの生命観なのだ)追う筋立てになっているところ。初セックスは? 恋人は? 年をとったら? という興味にひっぱられ、複雑な婚姻システムや所属集団(母系、父系、土地権利所有集団等)の分析まで、つい熟読してしまう。今回はこの本から、おつきあいや結婚の話を拾い読みしてみます。
 
生まれて間もないティウィの女の子は「母」に面倒をみてもらう。これは生母だけでなく、一緒の集落で暮らしている親族の女性たちに、ひろく当てはまる言葉だ。母的存在が多くいる理由は、ティウィが元来一夫多妻制であったこととも関係している。一人の女性と一人の男性が契約を結び、その女性に娘が生まれたら、彼の妻にする習慣がつづいてきた。だから妻たちには姉妹が多い。
 
この義母-義理息子の関係は、アンブリヌア(ambrinua)と呼ばれる。グッデールの調査時には普通、妻は一人ないし二人、でも昔はこの契約を複数の女性と結び、多くの妻をもつ男性もいた。妻が多いのは男の甲斐性、だったようだ。なんだか不道徳、女を見下げている、と思われるだろうか? ところが実際はその反対といえるかもしれない!
 
義母は義理の息子に、とても大切にされる。義理の息子は義母の近くに住み、頼まれたことはとりあえずなんでもやる。食べ物ももってくる。義理の息子は義母に頭が上がらない。義母ってやつはほんとにもう、とお祭りで愚痴をぶちまける歌も歌われるらしい。
 
義理の息子、使える……でも娘が生まれなかったら契約は打ち切られるんでしょう?
 

それがそうじゃないのよ。約束の娘が結局生まれなかった場合も、契約は義母が死ぬまでつづく。飢えと隣り合わせの狩猟採集生活で、女性にとってこれは大きな安心。
 
思春期になると、お父さんが娘を契約上の夫に紹介する。義理の息子は義母と一緒に暮らしていることがのぞましい、つまり日本文化の表現を借りていえば、娘の「実家」近くに住む。なので夫が娘に乱暴する、面倒をみないといった場合は、ただちに娘の父親など親族が介入できる。また、義母との契約は娘が生まれる前になされる、つまり夫は娘より普通かなり年上で、ほかに妻がいることも多い。なので娘の最初の夫(そう、後にも夫は控えている!)は保護者のような存在で、娘に生活のやり方や、性的なレッスンを授ける。
 
初潮前の娘に性のレッスンなんて幼児虐待じゃないですか。
 

現代日本ではそう思われるでしょうね。でもティウィはそう考えてこなかったわけ。暴力的な行為で少女が傷つけばすぐ「実家」に知れるから、そうしたことは起こりにくい。しかもレッスンのやりかたは、とてもゆっくりなんだそう。徐々に「花を開かせ」(deflower 性器に指で触れ性的経験に慣れさせていく)、男性器挿入は一年ぐらい後、というゆっくりぶりだとグッデールは報告している。こうした体験教育なしに初潮後あるいはその前に結婚・即性交って社会も多いよね。それに比べティウィのほうが少女に対しずっと人間的な配慮があることは確か。オナニーが幼児にもひろく観察されている事実をみれば、合理的ともいえる。ティウィ社会ではこうした性的な経験が、少女の胸をふくらませ、初潮を招くのだと考えられているそう。最初の結婚は少女を女にする教育の場なのね。
 
最初のセックスは自分が選んだ人としたい、恋愛の結果そうなりたいけどなあ。
 

恋愛と性交は切り離せない、という考え方は、普遍ではないってことね。のちに恋人も出現するけど(そうなのだ!)、それとこれは別、みたい。ところで現代日本人はどんなふうにセックスについて学ぶだろう? ティウィよりも安全で信頼できて率直かつ実践的な学びの場があった、って方が大多数とは、おもえないんだけど(そのあたりはまたね)。
 
初潮を迎えた少女は女性だけのキャンプでさまざまなタブーを守り、大切に世話されて過ごす。その後、義理の息子を定めるムリンガレタ(muringaleta)の儀式が行われる。
 
子どももいない未来の母に、義理の息子ができる。彼女にとっては保険でも、娘には生まれる前から夫がきめられていることになる。それって不自由ですよね。
 

でもそのあたりにいくつかね、ティウィならではのしくみがあるのよ。たしかにティウィの女として生まれたならば、彼女が「結婚していない」ということは社会組織上ありえない。でも現実に夫がいないという現象は発生しうる。婚姻システム上は必ず夫がいるということ。ティウィにとって結婚っていうのはまず第一に社会構造のしくみなのよ。
 
しかもティウィの妻の多くは、複数の人との結婚を経験する。いったように最初の夫は妻よりかなり年上だから、妻より先に亡くなる。多くの場合、兄の妻は弟が引き継ぐ。女性からみれば、夫が若くなるわけだ。女性の年齢が上がるにつれ、夫の年齢は若くなる傾向にある。逆からみれば、若い男の最初の妻は、年上であることが多い。つまり男女とも、若いときは年上の連れ合いに習い、年長になると年下の連れ合いに教える、こうして生涯に何人かの連れ合いを経験する、これがティウィにとって普通の結婚生活なのよ。
 
生涯に複数の伴侶が持てるとしても、好きな相手とじゃないのはいやだな。
 

結婚したいと思う人が定められた相手とは別に存在する場合、二人が黙って駆け落ちするのはよくない。でも正統な契約上の夫が妻を譲渡するのであれば、伝統的な方法によるものとみなされる。こうしてワンクッションいれれば、恋愛結婚も可能だそうよ。
 

譲渡、ってやっぱり男性中心なかんじがしますが。
 

でも実際、父と兄弟、夫、義理の息子、夫の弟と、女性の生涯をバックアップするシステムは整っているよね。とくに義理の息子は義母に頭が上がらないし。ティウィは母系か父系かって議論がずっとあったそうだけれど、経済システムからみれば母系的では。また、双子は忌み嫌われるそうだけど(これでわかるだろうけれどティウィ社会はべつに理想の社会ってわけじゃない。こんな世界観・結婚観もあるってことです)、男女の双子の場合、男のほうが殺されるという。
 
定められた夫と結婚している女性が、それとは別に、自分の選んだ相手と恋仲になることもある。とくに子どもができる前の若い妻が、恋人と叢林に出かけることがよくあるそう。どんな掟にも恋はとめられないらしい! 妻は恋歌をつくり恋人に贈る。二人だけの秘密のはずなのに有名になって後世に残る歌もあるそうで(きっと聞き耳立ててるんだ)、「わたしは悪い女の子」なんて歌が神話の中にもある。万葉集や平安貴族の世界みたいね。
 
悪いって自覚はあるんだ。じゃあ夫も嫉妬したり怒ったりするのでは?
 

愛人は目立たないよう妻の足跡に自分の足跡を重ねて歩くんですって。でもちいさな集落だし、どうやらたいていばれている。あまりに頻繁だと夫も怒る。そういう場合でも基本、妻に暴力はふるえない(妻の実家が怒る)。愛人とは喧嘩できるが、あまりひどいことにならないよう周囲が見守るのだとか。でも昔は駆け落ちが理由で親族を巻きこみ槍を持っての戦争になったこともあった、と三回駆け落ちした(なんと!)女性が語ったそう。グッデールが話を聞いた当時、解決策はすでにお金に変わっていたということです。
 
でもそんな調子じゃ、おれの子じゃない、なんて夫がいってもめたりしないのかな。
 

これはオーストラリア先住民族全般にみられる考え方ですが、妊娠はセックスだけでは成立しない。生物学上の父と社会的/精霊的な父の二者が、子どもを現世にもたらす。
 
かれらにとって存在とは、あらかじめそこにあるもの。未生の子は、婚姻システム上の(生物学的とは限らない)父が、父系同族で共有する土地の、神話的存在ゆかりの地(聖地)で、その子の「夢を見る」(霊的体験をする、あるいは実際に眠りの中で子どもや精霊を夢に見る)ことにより、社会的に/精霊的に「生まれる」(所属集団や関連づけられる神話を獲得する、社会的に認知される)ことになる。こうした意味では父系社会なのよね。
 
なるほど。「血」よりも「物語」が父と子の絆として重視される、だから生物学的父でなくても自分の子、ってことですか。
 

対岸のアーネムランドでの話だけれど、婚姻システム上の夫が外国をほっつき歩いている間に妻が別の男性と子どもを何人かもうけた。帰ってきた夫は彼女と彼女の子全員を引きとって、自分の子どもとして分けへだてなく育てている。そういう家庭をみたことがあるわ。ほんとうにおれの子か、なんて疑うのは夢見る力がない男、祖先伝来の地に関する知識と感性がないと自ら認めたにほかならないよね。種は別でもいい、おれの祖先の地の祖霊と結びついているんだからおれの子だ、というのが立派なティウィの父なのだ。
 
老年のティウィ女性はどうなるんですか。婚姻システムと子育て重視の社会じゃ、もう「女じゃない」とやっぱり男性にも若い子にも見下げられそうですが。
 

女性の閉経は性交が減ったため、と考えられるそうです。年上の夫は死に、若い夫も年齢を重ね若い妻を得て、自然と高齢女性の性交は減る。でもこれは彼女の社会的地位を下げないそうですよ。いまや第一夫人としてすべての妻に命令できる立場の彼女は、上げ膳据え膳、長老格として集落に君臨する。ただ、白人政府や教会は若くても男性である夫を彼女より重視するため、年長女性のこうした権力は相対的に衰えたらしいけれど。
 
20世紀後半以降のティウィ女性は、夫や義理の息子に頼らずとも、教育を受け働いて自分を支えていくことができるようになった。年老いた男たちも、義母から若い娘をもらって面倒をみてもらわなくても、年金に頼れることを喜ぶそう。しかし婚姻システムはティウィ社会の基盤にあると、グッデールは観察している。変化を受け入れつつ拡大解釈で伝統的な掟も維持していく、こうしたティウィの柔軟性を彼女は積極的に評価している。
 
昔のティウィの妻にとって、セックスや恋や結婚はたしかに重要だった。だがそれ以上に大切なのは、生き延びることだったはず。そう、コンビニも舗装道路も電気も水道も車もない世界は、とても厳しい。狩猟採集民の食の大部分は、男性の派手な獲物ではなく、女性の地味な採集や小動物の狩りに支えられている。義理の息子がもってくる食べ物には、大いに助けられたに違いない。だから結婚同様、アンブリヌア契約が大切なのだ。若い日の恋歌やセックスだけがおつきあいじゃないわ、生きていくには各種連れ合い全員を大切にしなきゃ、結婚って経済ユニットなのよ、とティウィの妻ならいうとおもう。
 
ティウィの妻、じつは波瀾のラヴ・ライフだったのか。でも自由と安全は両立しないのかな。いやある意味、してるのか。なんだかむしろ疑問が増えてしまったような。
 

思いこみを山と背負いこんでるからじゃない? もっといろいろ読んで脳みそを丸洗いしようよ。脳みそを揺るがす本を探そう。じゃあ、また!
 


 
本占い第1回はいかがでしたか? 月1回の更新予定です。次回をお楽しみに~[編集部]
 
《バックナンバー》
〈第1回〉ラヴ&ライフ@ティウィ
〈第2回〉レインボー金魚の選択
〈第3回〉やりすぎ――絶対平和主義愛国アナキストおばさんのクリティカル・リーディング

About the Author: 中村和恵

なかむら・かずえ  札幌出身、東京在住。詩、批評、エッセイ、翻訳等の書き手、英語圏ポストコロニアル文学を中心とする近現代文学の読み手。ちいさい「くに」(ネイション)と先住民族の土地を好んで旅し、書かれたことばと書かれていないことばの両方に関心がある。肩書きをひとことで、といわれ悩んだ末「ことばつかい」になった。主な作品に詩集『トカゲのラザロ』『天気予報』(ともに紫陽社)、エッセイ集『キミハドコニイルノ』(彩流社)、『降ります』『地上の飯』『dress after dress』(ともに平凡社)、『日本語に生まれて』(岩波書店)、編著に『世界中のアフリカへ行こう』(共著、岩波書店)、訳書にアール・ラヴレイス『ドラゴンは踊れない』(みすず書房)、トレイシー・K・スミス『火星の生命』(平凡社)、ジャッキー・ケイ『トランペット』(岩波書店)など。明治大学教授。
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