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阿子島香・溝口孝司 監修
『ムカシのミライ プロセス考古学とポストプロセス考古学の対話』
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第1章 考古学理論との対峙(抜粋)
中尾 央
1 導入
プロセス考古学、そしてプロセス考古学に対する反動としてのポストプロセス考古学そのものの内容については、本書の中核をなす対談、そしてそれぞれの旗手たるルイス・R・ビンフォードとイアン・ホダーの文化的直系子孫である阿子島香・溝口孝司両氏によるさまざまな解説があり、それ以外にも優れた解説がいくつか挙げられる。さらに日本語以外の文献であれば山のようにそうした解説が存在し、また哲学的考察もいくつか散見される。したがって、本章でもわざわざその内容を解説したり、また哲学的分析を繰り返したりする必要はないだろう。もちろんまったくの説明なしに議論を進めるのは不親切でしかないので、それぞれについて簡単な概説を行おう。
本章の目的は、本書の中核をなす対談[第2章]の背景、そしてその対談の意図を明確にすることである。そのため、本章ではプロセス考古学、そしてポストプロセス考古学という二つの理論的アプローチが特に日本においてどのように受け止められ、またそのように受け止められてきたのはなぜかを考察する。具体的には、第2節でプロセス考古学、第3節でポストプロセス考古学のそれぞれに対し、日本考古学がどのようにかかわってきたかを概観し、第4節において対談の目的、すなわちなぜ今日本で、プロセス考古学とポストプロセス考古学の対談を行う必要があるのかについて、確認する。
2 プロセス考古学と日本考古学
プロセス考古学は、冒頭でも触れたようにルイス・R・ビンフォードを中心に展開され、文化の動的な変化プロセスをある種の科学的手法によって説明しようとする、考古学上の理論的・実践的アプローチである。このプロセス考古学が登場する以前は、考古遺物のパターンからの文化集団の同定や伝播過程の解明など、文化史の記述が主な目的になっており、その文化集団の形成過程や伝播過程についての説明はそれほど重視されていなかった。ビンフォードが「人類学としての考古学」(1962)で一つの主眼においたのが、この「説明」である。
また、文化そのものの見方も従来とは異なっていると言われる。プロセス考古学の登場以前、特に考古学においては、文化が外的環境に対する適応である、といった機能主義的見方はそれほど広まっていなかった。プロセス考古学においては、さまざまな文化が一つのシステムとして機能しながら、外的環境に対する適応として機能的な意義を持っていると考えられている(特にBinford 1965)。
このプロセス考古学は「科学的」なアプローチとみなされることが多く、ビンフォード自身、カール・ヘンペルという科学哲学者の議論に影響を受け、考古学における科学的な説明、特に仮説演繹法に基づく説明を目指していた。すなわち、考古学的事象の説明に対して何らかの普遍的な命題を立て、その命題からテスト可能な仮説を演繹する。次に、演繹された仮説を現実の事象に照らし合わせてテストし(このテストの際に統計的手法や後述する民族学的手法が採用される)、仮説が正しいかどうかが確かめられる。仮説が正しいことがわかれば、その背後にある普遍的な命題が正しい可能性も高くなる。ビンフォードはこうした一連の手続きを、考古学においても保証しようとしていたのである。
しかし、もちろんのことながら、人間の文化変化プロセス全般に関して普遍的命題を求めようとするのはかなり困難であり、ビンフォードのアイディアはさまざまなかたちで批判されてきた。ビンフォードもこうした批判を受け、高次の普遍的説明ではなく、各種の(静的な)考古学的記録が、過去の(動的な)人間行動からどのように形成されうるのかについての、ミドルレンジ・セオリー(中範囲理論)を探求することへと焦点を移していった。
このプロセス考古学が登場し、アメリカで大きな影響力を持ったのは一九六〇年代半ばから一九七〇年代のことである。阿子島がその影響力を的確に示す、次のような引用を行っている。「君はニューアーケオロジスト(=プロセス考古学者)か、オールドアーケオロジストか、でないなら何なんだ、決心をつけろ!」。このような表現が考古学の概説書に見られる程度には、プロセス考古学は強い影響力を誇っていたのである。
これだけでなく、アメリカでプロセス考古学がどれだけ広がったかは、各種文献を見れば明らかである。M・J・オブライエンらは一九九四年に行われたあるアンケートの結果を示しているが、このアンケートは自身がどの学派に属するかをアメリカの考古学者に問うたものである。その結果、二〇〜三〇代の考古学者は、四〇%近くが自身をプロセス学派と回答している。その他の学派としては文化史(Culture History)、文化生態学(Culture Ecology)、ポストプロセス学派(Postprocessual)が設定され、いずれもプロセス学派の半分程度、二〇%前後の研究者が自身をそれぞれ別のカテゴリーに分類する。また、B・G・トリガーによる次の文章も興味深い。「歴史的問題として問うべきなのは、アメリカの若き考古学者に対し、ビンフォードのアプローチはどうしてここまで力強くアピールしたのか」であるという。このように、プロセス考古学がアメリカである種支配的な立場にあったことは、もはや否定しようがない。
しかし、日本ではまったくちがった。たとえば、阿子島が日本でプロセス考古学に触れ始めたのは彼がビンフォードの元に留学した後の一九八〇年代前半以降だが、それよりも前に、プロセス考古学に正面から向き合った研究はほぼ皆無と言ってよい状態が続いていた。
このような中、プロセス考古学を正面から取り上げた初めての論考は、安斎(1990)が指摘するように、おそらく藤本(1976)である。藤本は旧石器時代の石器研究に関する方法論的考察において、批判的な検討を加味しつつも、一定の理解を示しながらビンフォードが展開していたアプローチ(特にムスティエ文化に属する石器群の因子分析)を紹介している。これは後年の藤本(1985)でも同様である。
しかし、藤本や阿子島の紹介を除けば、そして一九六〇年代後半から八〇年代前半までを振り返ってみれば、日本考古学はプロセス考古学を真正面から顧みることはほとんどなかったと言ってよいだろう。たとえば、日本考古学の代表的雑誌である『考古学雑誌』や『考古学研究』に掲載された一九六〇~一九八〇年頃の論文を見ても、(筆者の調査が正しければ)プロセス考古学、もしくはニュー・アーケオロジーといった言葉はまったく見つからない。この時期に日本語でプロセス考古学に触れているように見受けられるものは、新聞記事である田中(2015[1966])、『考古学ジャーナル』における井川(1972)、鈴木(1973)などの紹介記事や、また翻訳のあとがきで大貫(1979)が書いた簡単な紹介などである。これらの記事・紹介の年代からもわかるように、おそらくアメリカにおけるプロセス考古学の興隆については、日本の研究者も遅くとも七〇年代にはある程度意識していたと推測される。しかし、田中(2015[1966])は新聞記事という性格からか、プロセス考古学という名前に触れることなく、対岸の火事を見ているような文章でしかない。また井川(1972)や鈴木(1973)の紹介もあくまで「アメリカの動き」を紹介したものであるし、大貫(1979)もまた訳書の内容の解説であり、日本とのかかわりについてそこまで具体的に論じられているわけではない。
しかし一九八〇年代半ばになると、これも安斎(1990)が指摘するように、多くの研究者がプロセス考古学に対して、しかも批判的に言及するようになった。たとえば穴沢(1985)の論考はその最たるものであり、プロセス考古学を断罪する論文である。しかし実際のところ、多くの研究者は批判的ながらも、もう少しうまく、プロセス考古学を乗り越えよう、あるいは取り込もうとしていたように見える。たとえば横山は、プロセス考古学における「歴史」の理解が貧困であることを指摘し、歴史学としての考古学を強調する日本考古学において、目的とされる「歴史」はプロセス考古学が目指す「プロセス」と同義であると述べる。後藤(1984)もまた、プロセス考古学の手法や理論的背景に批判的な検討を加えつつも、その成果に対して一定の評価を行い、今後の可能性を見出している。こうした記述からは、この時点で、プロセス考古学はすでに乗り越えるべきものとみなされていた可能性が推測される。それはおそらく、八〇年代半ばとなれば、後述するポストプロセス考古学の動きが無視できない時期にさしかかっていたからだろう。
もちろん、プロセス考古学がまったく好意的に扱われなかったわけでもない。実のところ民族考古学(ethnoarchaeology)というかたちで、プロセス考古学は日本考古学の中に根づいたと言えるかもしれない。民族考古学とは、ごく大雑把にいえば、民族誌のデータを参考に考古学的考察を行う分野である。たとえばビンフォードの弟子の一人であるW・A・ロングエーカーが行った、プエブロ族の土器に関する研究がよい例としてあげられるだろう。この民族考古学は日本考古学の中でも一定の地位を獲得し、さまざまな研究が行われてきている。それはたとえば『物質文化』という、民族考古学を一つの大きな柱に据えた雑誌が存在することからも明らかだろう。
こうした民族考古学は、たしかにプロセス考古学が発展する中で登場してきたアプローチである。先述したロングエーカーの研究は「プロセス考古学の方法による土器研究の代表例の一つとみなされて」いるし、後藤(2001)の序文において「民族考古学とニューアーケオロジーは同一視された時期もあった」と植木も述べているように、プロセス考古学が日本考古学の中にうまく導入されたケースとして、民族考古学を挙げることが可能かもしれない。
ただ注意すべきなのは、日本考古学におけるこうした民族考古学的アプローチは、ビンフォードよりも渡辺仁という別の先駆者からの影響がより強いという点である。安斎(1989, 1998a, 1998b)が指摘するように、東京大学理学部・文学部の助教授・教授であった渡辺仁は、プロセス考古学とは独立に、特にアイヌ民族のデータを用いながら、民族誌データを用いた考古学的考察を行うようになっていた。そして、現在日本考古学の中で民族考古学に携わる多くの研究者が、この渡辺仁の影響を強く受けている。赤澤威の研究などは、その早い例の一つだろう。
ここまでの議論を要約しておこう。プロセス考古学が日本考古学に導入され、また根づいたとすれば、それは民族考古学としての導入であり、一部を除けば、ビンフォードがムスティエ文化の石器で行っていたような数理的アプローチはほとんど定着せず、ヘンペル流の科学的説明の探求などといった目的はまったく共有されなかったのである。しかし、日本で広まった民族考古学の動きは、必ずしもプロセス考古学の影響を直接受けたものではなく、むしろ渡辺仁という別のルートからの影響が強かった可能性が指摘できる。すなわち、プロセス考古学が日本考古学に与えた影響は、(少なくとも現時点で)アメリカほどに根本的なものでなかったと考えてよいだろう。
3 ポストプロセス考古学と日本考古学
ではポストプロセス考古学はどのように受け止められたのだろうか。結論から言えば、おそらくプロセス考古学よりは好意的に受け止められた一方、それでもやはり、日本考古学の中でポストプロセス考古学の主張内容が浸透しているかと言えば、やはりそうとは言い切れない状況であると考えられる。(以下、続く)
あとがき
田村光平・有松唯
考古学は過去の世界、社会、人の営み全般を復元する。遠い過去の出来事なので、直接の観察も、当事者へのインタビューもできない。関連する現象を観る視座と、検証可能なかたちでの論理的復元の方法論が求められる。プロセス考古学とポストプロセス考古学は、その両面において、ともに一大潮流を成してきた。考古学の精度と範疇を更新する試みであり、考古学という学問領野を抜本的に革新する思考の体系だったからだ。しかし、日本国内では、個々への理解も相互の違いも、ひいてはこの革新性も長らく認識されてこなかった。知る専門家は一定数いたにもかかわらず、そして何より重要なことに、それぞれの体系を第一人者から直に習得した日本人研究者がいるにもかかわらず。
「突如として二人の対話が企画され実現したことに率直な驚きと疑問を抱いた」(第3章、126頁)という大西の所感は、多くの読者・関係者が共有するところかもしれない。内幕をさらせば、本対話の企画と実現は、主催者一同のシンプルな動機に基づいて実施された。すなわち、プロセス考古学とポストプロセス考古学の国内第一人者どうしの対話を一度この目で見てみたいという、動機というよりも欲求と称すべきような思いが第一にあった。他のどなたかが実施してくださるというのであれば、嬉々として聴衆となるのみであったが、その気配もなければ、前例すらない。それはなぜかを問う前に、誰も実現させてくれそうもないので自分たちで実現させるしかないと踏み切った結果が、この対話であり、本書である。
こうした経緯であったため、主催者一同、「なぜ今」という問いかけ、そして「なぜこれまで実現されなかったのか」ということに対しても、確固たる考えや信念を申し上げられる立場にはない。代わって、本書中で、何人かが言及をしてくれている。そこからうかがえるのは、これまでこうした対話が実現しなかったこと自体が、プロセス考古学、ポストプロセス考古学双方の、考古学という学問体系の中での位置付けが、日本国内で適切に理解されていないこと、そしておそらくこのことは、日本における考古学のありようの何かしらを反映しているのではないかということである。何かしらが何であるのかは、本書の中でもたびたび触れられているため、ここでは指摘するに留めておこう。
本書では、プロセス考古学とポストプロセス考古学のいわば学史的な位置付けを中心に扱ってきた。一方で、両者はその後さまざまな派生形を生み出している。ここではその派生形を少し取り上げておこう。まずは、プロセス考古学の影響を受けて成立した研究プログラムとしての、進化考古学(ダーウィン考古学)である。プロセス考古学の後継とはいえ、進化考古学には、本書で多くとりあげられているルイス・ビンフォードよりも、デビッド・クラークからの思想的影響が色濃い。
進化考古学は、ダーウィンの進化理論を文化現象へより「直接的に」当てはめる。文化の情報システムとしての側面を強調し、文化の変化を、「変化を伴う由来」という継承プロセスの帰結として考える。こうした文化の捉え方は、一九七〇年代後半、人類学者や遺伝学者によって定式化され、「文化進化」とよばれている。本書で阿子島や大西が紹介した文化進化論とは、系譜的にも、内容的にも異なっていることに注意されたい。本書の執筆者のひとりでもある井原は、これを、「現代的な文化進化研究」とよんでいる。つまり、進化考古学は、「現代的な文化進化研究」を概念整理の核に据える。「現代的な文化進化研究」は、さまざまな文化伝達過程の数理モデルを構築し、文化伝達プロセスの違いが文化の変化パターンに及ぼす影響を検討してきた。進化考古学は、数理モデルに用いることで、データからのパターンの要約のみならず、プロセスの推定まで一貫した枠組の中で行っている。こうしたアプローチにより、数理モデルで仮定を明示するとともに、複数の対立する仮説の妥当性を量的に比較することも可能になる。
また、技術的発展による数理的手法の導入例として、三次元計測と幾何学的形態測定学についても触れておこう。近年、三次元計測が普及する一方で、データの解析方法が課題の一つとなった。その中で注目されている手法が幾何学的形態測定学である。もともとは生物の形態を分析する手法だが、考古学データへの応用が増えつつある。この手法により、個々の遺物の形態の類似度を量的に比較できる。幾何学的形態測定学そのものは、パターン認識の手法である。つまり、パターン認識としての幾何学的形態測定学それ自体は、ミドルレンジ・セオリーの代替にはなりえない。観察しているパターンを生み出したプロセスの特定は、今後、今以上に議論されるようになるだろう。
数理モデルや定量的なデータ解析が、プロセス考古学と親和的であったということは、歴史的には正しいだろう。しかし、ポストプロセス考古学が、このような手法と(原理的に)相容れないかといえばそうともいえない。たとえば、溝口は、社会学のネットワーク分析を援用し、古墳時代の集団間の関係性を定量的に分析している。対談中で、溝口と阿子島の両者に共通していたスタンスの一つは、パターンの認識とプロセスの推定(あるいは解釈)の分離である。であれば、定量的解析とポストプロセス的な発想・研究のゴールは、必ずしも相容れないものではない。パターン認識の方法が多様であれば、多様な情報をデータから汲み出し、多角的な視点からの分析が可能になる。上述した三次元計測も、資料が持つ情報をできるかぎり残してデータ化する試みの一環である。最終的には、これまで以上に多くの人間が、上質なデータにふれることで、多様な視点から多様な解釈を生むことにつながるはずである。結局、一口に数理的・定量的解析といっても、その役割は、研究プログラムやコミュニティごとにさまざまである。数理的・定量的解析について有益な議論を行うには、こうした多様性を考慮することが必要だろう。
ポストプロセス考古学が拓いた物質文化研究についても、新たな地平が深化されている。物質文化の象徴的側面への着目は、ポストプロセス考古学が提起した視座である。ここでは、その中で、マテリアリティについて取り上げよう。物質の存在の仕方は社会や文化ごとに異なる。その意味で、物質は社会的な存在である。固有の意味に満ちた物質とのかかわりの中で社会が解釈され、存在する。こうしたマテリアリティ論の視点に立てば、人間と物質とのかかわり方の中で物質の意味を解釈することなしに、物質文化を通して過去の社会を理解することは不可能である。遺物の型式や交易圏自体に普遍的な意味はない。もしまったく同じ素材・形状の遺物、そして同様の交易圏があったとしても、当時のコンテキストが異なれば意味内容は変わる。過去の人々が物質文化とかかわる中、そして物質を介して他者とかかわる中で、型式や交易圏をどのように認識し、意味を見出したのかを解釈しなければ、適切な理解はできない。過去の人々が物質といかにかかわり合ったのか、物質をどのように認識していたのか、同時に、人間関係を規定あるいは醸成するものとしての物質の機能も研究の対象となっている。近年ではこうした見方を拡大し、もっぱら人に属すると考えられていた行為主体性(エージェンシー)を物質にも想定していく試みもなされるようになっている。
こうした視点は、過去社会における人々の認知やコミュニケーション、そして、個人とその日々の実践への着目を促した。そこでの個人は、意思と想像力を持ち、社会や文化、環境を変化させる行為の主体として現れる。社会は、先天的な構造としてあるのではない。個々人が他者との関係を、さまざまな物質を交えた実践を経て経験し、そのコンテキストを構成する人や物質との関連の中で理解することで築かれる。
物質、人、社会へのこうした見方は、過去社会に対する動的で、柔軟な研究視点をもたらした。それは、社会構造から個人レベルの活動へという、マクロからミクロへという照準の変化と捉えられがちであった。実際は、社会を再生産し、変化させる主体的で創造的な存在としての個人を過去社会にも見出し、ひいては、社会や文化の流動性を前提として、過去の事象を捉える視座を浮かび上がらせている。
この視座に則れば、普遍性や共通項よりも、地域ごとの文脈や、相違への着目が重要となる。かつ、社会のリーダーを中心に据えた、トップダウンの社会変化観を脱却し、名もなき個々人の、日常生活こそが、社会構造の構築と変革を左右する。従来の考古学で自明とされてきた視点を転換し、これまで看過されてきた側面への視点が確立されつつある。
考古学データから、こうした個々人のミクロレベルの活動や認知レベルにアプローチすることの方法論的限界は、いまだに払拭しきれてはいない。とはいえ、今では、民族学や人類学、社会学の知見やデータを組み合わせた分析手法はすでに定石となっている。認知心理や脳科学分野の知見との統合も早晩普及していくことになるだろう。考古学が過去の人間活動のあらゆる側面を復元し説明する学問分野である以上、人に関するあらゆる分野の知見を統合していくことは必然である。そして、多様な知見との統合をしうるよう、考古学自身が他分野と歩調を合わせて変容していくことも、また必然である。今後は、考古資料の測定、分類、分布範囲の抽出などにおいて、諸分野の知見と統合しうるようなかたちでのデータ化、そしてよりミクロなレベルでの精緻な分析が前提となる。多様なデータを複合した重層的・多角的な解析が必要となる中で、上述した数理的手法は、こうした文脈でも、いっそうの必要性をもって求められるようになっていくだろう。
他分野の変化に伴って、考古学も変化しなければならない。プロセス考古学とポストプロセス考古学はそのことを鮮やかに体現し、考古学を大局的に押し上げた。その功績のうえで考古学に携わる研究者の責務は、ただ単に双方の思考を受け継ぎ実践することではなく、さらなる革新を探求し、実現させ、考古学を変化させ続けていくことである。そして現に、上記のように、さまざまな試みがなされている。世界の見方は多様になり、考古学の範疇は拡大し続け、方法は日々刷新されている。自身の取り組みを研究と称するのであれば、多様なアプローチの中での自分の思考と方法の位置を認識できなければならないし、刷新の速度に足並みを揃えられなければならないし、何より、知の蓄積に貢献できなければならない。読者の多数を占めるであろう、日本で考古学やその関連分野に携わる専門家にとって、本書がその一助となれば幸いである。