「名前のない家事」をめぐって始まった平山亮さんと山根純佳さんの往復書簡連載。前回からSAを社会的に分有する可能性をめぐり、議論が展開しています。今回は平山さんから山根さんへの応答です。[編集部]
山根純佳さま
新年度が始まりお忙しくされているなか、お手紙をありがとうございます。山根さんとの対話をわたしが中断させてしまったことをお詫び申し上げるとともに、こうして再開のきっかけをつくってくださったことに心から感謝します。
山根さんのお手紙を拝読しながら、わたしたちがsentient activity (SA) という概念になぜ心惹かれたのか、そして、ケア責任のジェンダー不均衡を「見える化」するためにこれをどのように再定式化してきたのかを振り返るとともに、その不均衡がなぜ生じている(と、わたしたちは考えている)のかについて、山根さんとわたしの合意点と相違点を改めて確認しました。また、山根さんはインフォーマルなケアの担い手(ケアラー)と、専門職としてケアを担うケアワーカーとのSAの分担に向け、議論を一歩先に進めてくださいましたが、今回はわたし自身のリハビリも兼ね、少し根本に立ち戻ったお話を交えてお返事をお送りしようと思っています。
それは第一に、なぜわたしが山根さんとSAの責任分配についてお話ししたかったかということ、第二に、SAを複数の人で担うことを考えるのはなぜこんなに厄介なのかということ、そして第三に(これは第二点目とつながっているのですが)そもそもケアの社会化とは、わたしたちが何をどうすることなのかということです。
『介護する息子たち』でわたしが言いたかったこと
前便で山根さんがご紹介してくださったように、わたしの『介護する息子たち――男性性の死角とケアのジェンダー分析』(勁草書房、2017年)は、「主たる介護者=息子」の増加の陰で残されるケア責任のジェンダー不均衡を指摘したものです。「介護」として名付けられた、いわば「名前のあるケア」が、高齢者の生活を支えるものとして機能するためには、種々の段取りが必要です。ケアとして機能するための段取りないし下支えの部分を「見える化」する上で、SAの概念は実に有用でした。男性が「名前のあるケア」を担っているときでも、下支えとしてのSAは、妻をはじめとする女性親族が一手に引き受けていることは少なくない。だとすればこの段取りは、男性が「名前のあるケア」を担えるようにするための段取りでもあり、こうした女性のお膳立ての上に成り立つのが「家庭における男性のケア参加」と呼ばれるものである、と言えます。
つづきは、単行本『ケアする私の「しんどい」は、どこからくるのか』でごらんください。