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『道徳的な運』

 
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バーナード・ウィリアムズ 著
伊勢田哲治 監訳
『道徳的な運 哲学論集一九七三~一九八〇』[双書現代倫理学]

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解説・各章解題
 
伊勢田哲治
 
 本書はBernard Williams (1981) Moral Luck: Philosophical Papers 1973-1980. Cambridge University Press の全訳である。以下、本書の位置づけについて概観したあと、各章の解題を行う。なお、本解説・解題の記述においては、Stanford Encyclopedia of Philosophy 内のS. G. Chappell によるBernard Williamsの項およびEncyclopedia Britannica オンライン版におけるThomas Nagel によるBernard Williamsの項などを参照している。
https://plato.stanford.edu/entries/williams-bernard/
https://www.britannica.com/biography/Bernard-Williams/
 
《1》
 まず著者のウィリアムズについて簡単な伝記的な紹介を行う。バーナード・ウィリアムズは一九二九年に生まれ、オックスフォード大学のベリオールカレッジで倫理学者のR・M・ヘアをチューターとしてギリシャ古典学や現代哲学を学んだ。ロンドン大学、ケンブリッジ大学、カリフォルニア大学バークレー校、オックスフォード大学等で教鞭をとった。一九七七年には「わいせつと映画検閲に関する内務省省内委員会」、通称ウィリアムズ委員会の座長に任ぜられ、一九七九年に報告書を提出した。この報告書は現在でもこのテーマの議論で必ず参照される、議論の一方の出発点となっている。一九九九年にはナイトの爵位を授与された。二〇〇三年に亡くなっている。
 本論文集は、ウィリアムズの論文集の中では一九七三年から一九八〇年までに書かれた論文を収録した第二論文集という位置づけになる。第一論文集Problems of the Self(Cambridge University Press, 1973)は五六年から七二年までの論文をカバーし、第三論文集Making Sense of Humanities and Other Philosophical Papers(Cambridge University Press, 1995)は八二年から九三年までをカバーしている。その他、死後出版された論文集として、哲学史についての論文をあつめたThe Sense of the Past(Princeton University Press,2006)、政治哲学についての未公刊論文をあつめたIn the Beginning Was the Deed: Realism and Moralism in Political Argument(Princeton University Press, 2005)、それまでの論文集から漏れた論文と未公刊論文をあつめたPhilosophy as a Humanistic Discipline(Princeton University Press, 2006)も出版されている。
 前後の論文集と比較したとき、本論文集の特徴は、ウィリアムズが独自の哲学的な視点を発展させつつあった時期にあたっていることにあるだろう。ウィリアムズの倫理学的議論の多くに通底するのが、功利主義やカント主義といった体系的倫理学理論に対する批判である。幸福や自律といった一元的価値を提示する倫理学理論に対し、ウィリアムズが提示するのは非常に陰影に富んだ我々の倫理的生活の姿である。ウィリアムズはそうした倫理の姿を描き出すのに「美徳」や「性格」といった徳倫理学と共通する用語を使い、ギリシャ哲学の考え方を援用するため、同じ特徴を持つ徳倫理学の一類型として分類されることもある。しかし、一般の徳倫理学において「美徳」を身につけることがある種客観的な要請として外から求められるのに対し、ウィリアムズが重視するのは、「我々が自分の人生をどう生きたいか」、という自分自身の価値基準やプランである。これはたとえば論文「道徳的な運」においては「よそから・・・・」でなく「ここから・・・・」の視点、という表現で表され、「人物・性格・道徳性」では「基盤的プロジェクト」という言葉で表されている。
 こうした考え方の萌芽は、第一論文集におさめられた“Ethical consistency”(1965)や“A critique of utilitarianism”(J. J. C. Smart との共著Utilitarianism: For and Against. Cambridge University Press, 1973 の後半部。同書は『功利主義論争』のタイトルで本双書において翻訳予定)に表れている。特に、後者の著作は功利主義そのものについての入門書としてもよく参照される本であり、ウィリアムズの仕事の中でもとりわけ著名なものなので簡単に紹介しておこう。
 この本は、功利主義を擁護するスマートと批判するウィリアムズがそれぞれ半分を執筆し、功利主義の姿を両面から浮かび上がらせようという趣旨のものである。ウィリアムズの批判は多岐にわたるが、中でも有名なのが「インテグリティ」の概念を使った論点である。ウィリアムズは、功利主義と我々の直観がずれる事例として、「ジョージ」と「ジム」の例を挙げる(Smart and Williams 前掲書pp. 97-9)。
 化学者のジョージは家族を養うために職を探していて、BC兵器の開発の仕事を紹介される。BC兵器の開発は彼の信条に反するが、彼が断ればその仕事はもっと喜んで兵器開発をする他の化学者が引き受けることが予想でき、かえってひどい結果となると思われる。
 植物学者のジムは南米の旅行中に軍に誤って捕縛された。その部隊は最近の反政府運動への見せしめとして、ランダムに捕縛したネイティブ・アメリカン二〇人を処刑しようとしているところだった。ジムは部隊長から、ネイティブ・アメリカンのうちひとりを殺せばジム本人とあとの一九人のネイティブ・アメリカンを釈放しよう、という提案を受ける。断れば二〇人が殺されるし、反抗すればジム本人まで殺されることははっきりしている。
 結果だけを問題にする功利主義の考え方では、ジョージは兵器開発の職のオファーを受けるべきだし、ジムは自ら無実のネイティブ・アメリカンを殺すべきだという結論が出ると思われる。しかしウィリアムズは、前者についてはこの結論はおそらく間違いだし、後者についても、この結論自体は合っているとしても、功利主義的な思考では考慮に入れるべき要因を十分考慮したことにはならないと考える。ある人の行為や決定は、「彼自身が最も深く自分を同一化するようなプロジェクトや態度から流れ出る行為や決定として見られなくてはならない」(同pp. 116-7)のであり、それを無視するのは「彼のインテグリティへの攻撃である」(同p. 117)。このインテグリティという言葉は「全一性」「統合性」等と訳される。言い換えれば、自分がどう生きたいか、自分の人生をどう構想するかという、人生の選択に忠実に他の選択や行為を行うのがインテグリティであり、その観点から、単純に最善の結果にならないような選択をすることは許容されるとウィリアムズは考える。そして、功利主義はインテグリティの重要性を認識しない、というのがウィリアムズの功利主義への批判ということになる。(「統合性」等の日本語ではこのニュアンスを十分に救いきれないと考え、本訳書ではカタカナで「インテグリティ」と表記することとした。)
 一九七三年の段階では、インテグリティという概念は孤立した形で提示された。それがより大きな倫理観へと発展するのがEthics and the Limits of Philosophy(Harvard University Press, 1985, 邦訳ウィリアムズ『生き方について哲学は何が言えるか』森際康友・下川潔訳、産業図書、一九九三、以下『生き方』と略)である。この一九八五年の本では、近代の倫理学が構築してきたものとしての「道徳性」とより包括的な概念としての「倫理的なもの」が対比され、我々の倫理生活を捉えるイメージとして、「道徳性」は非常に特異で、それでカバーできないものが多くあるのだ、と論じられる。その際に、ギリシャ哲学の問題設定や諸概念が参照され、非常に入り組んだ独特の相対主義的立場が提示される(これについてより詳しくは以下の第一一章の解題を参照)。
 本論文集は、ちょうどこのふたつの大きな著作の間に書かれた諸論文をカバーしている。そこでは、初期のウィリアムズのアイデアが「運」や「正義」などさまざまな話題を巻き込みつつ発展していくさまを見て取ることができる。
 ただ、本論文集がこの双書に加えられた最大の理由は、ウィリアムズの思考の発展を追う上で重要だからということではない。本論文集の収録論文のうち、「道徳的な運」と「内的理由と外的理由」の二本は、それぞれ倫理学の中にひとつの研究分野を開くレベルでのインパクトを与えた重要な論文であり、それらを紹介することが眼目となっている。それぞれの論文の詳しい紹介はあとにまわすが、簡単にそれぞれのインパクトについて紹介する。
 「道徳的な運」はもともとアリストテレス協会のシンポジウムとしてウィリアムズとトマス・ネーゲルが登壇し、Proceedings of the Aristotelian Society のSupplementary Volume に収録された講演が基礎になっている。ネーゲル側の論文は、その後ネーゲルの論文集T. Nagel, Mortal Questions(Cambridge University Press, 1979, 邦訳ネーゲル『コウモリであるとはどのようなことか』永井均訳、勁草書房、一九八九)に収録されている(第三章「道徳における運の問題」)のであわせて参照されたい。ウィリアムズとネーゲルが指摘したのは、我々の日常的な道徳的直観の中に大きな亀裂が潜んでいるということである。一方で我々は、道徳的な非難や称賛の対象になるのはある人が自分の意図で行った行為であり、本人にコントロールできない事情によって非難したり称賛したりするのは筋が通らないと考える。しかし他方、我々の実際の非難や称賛においては、運の要素が非常に強く働いている(たとえば、本人にコントロールできる範囲でまったく同じ行動をとっていたふたりのドライバーがいて、一方が事故を起こし、他方が事故を起こさなかったとした場合、事故を起こした方に対する非難の方が大きくなる)。彼らの論考においてこの亀裂について十分な解消法が提示されているわけではないが、それゆえにこそこの問題はその後多くの論者をひきつけることとなった。代表的な論集としてはD. Statman ed., Moral Luck(State University of New York Press, 1993)があるので参照されたい。また、日本語でこの論争とウィリアムズの論文を解説した本として古田徹也『不道徳的倫理学講義――人生にとって運とは何か』(ちくま新書、二〇一九)がある。
 「内的理由と外的理由」は、現在まで続く倫理学の大きなテーマである「行為の理由」の概念分析の嚆矢となった論文である。背景となっているのは、道徳判断は事実判断(信念)に類するものか、欲求の表明に類するものかという、メタ倫理学における認知主義対非認知主義の論争である。前者の立場への批判として、道徳判断がただの事実判断だとすれば我々を行為に駆り立てる力を持たないではないか、という議論があり、それに対して信念も行為の理由を与えうる、という主張が一九七〇年代には登場していた。ウィリアムズの立場は、そうした議論に再反論する。後で詳しく紹介するように、彼は理由というものは広い意味での本人の動機に根拠を持つはずだ、という立場をとる。この立場は現在では「理由の内在主」と呼ばれており、ウィリアムズはこの立場の代表的論者とみなされている。
 この論文などがターニングポイントとなって、道徳判断とは何か、というもともとの論争からある程度独立の論争として、「理由」の概念そのものをめぐる論争が進行するようになった。そうした議論の一端はMichael Smith, The Moral Problem(Blackwell, 1994, 邦訳スミス『道徳の中心問題』樫則章監訳、ナカニシヤ出版、二〇〇六)の第四章や第五章で紹介されている。スミスはウィリアムズの議論をかなり丁寧に取り上げ、それを発展させる形で特有の内在主義の立場を定式化している(といっても、スミスの整理と本書を読み比べると、スミスがウィリアムズが実際に書いていることを大胆に整理して再利用していることが分かる)。二一世紀になってこのテーマは一種の流行の様相を呈し、それがウィリアムズの再評価ともつながっている。より近年の展開については、Stanford Encyclopedia of Philosophy におけるS. Finlay and M. Schroeder“Reasons for Action: Internal vs. External”の項(https://plato.stanford.edu/entries/reasons-internal-external/)が参考になる。
(以下本文つづく)
 
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