憲法学の散歩道 連載・読み物

憲法学の散歩道
第3回 通信の秘密

 
 モーシェ・ベン・マイモン(英語名:モーゼス・マイモニデス)は、著名なユダヤ神学者・哲学者である。
 
 1138年*1、イスラム支配下のスペイン・コルドバに生まれたマイモニデスは、1148年、同地がイスラムの過激な解釈を奉ずるアルモハッド派に奪取されたことを契機に、一族とともにコルドバを離れ、モロッコを経て地中海を船でパレスチナへと渡り、1166年にはファーティマ朝の支配するエジプトに居を移す。1171年にファーティマ朝はアイユーブ朝に取って替わられた。貿易商として一族の生計を支えた弟ダーヴィドがインド洋で水死したのち、マイモニデスは1204年に逝去するまで、アイユーブ朝の宮廷医として一族の生計を支え、そのかたわら、同地のユダヤ人コミュニティの指導者として活動した。
 
 哲学に関する著作としては、『迷える者のための導き』が知られている*2。本書冒頭の第Ⅰ部序(I: Introduction)における彼のことばは、迷える者でなくとも困惑させられる。

本書のあらゆる読者に、神の名にかけて厳命する。本書の内容については、私に先立つ著名な賢者によることばそのままによる律法の説明および論評を除くほか、他の誰にも論評したり説明したりしないように。私以外の著名な賢者による言明を除くほか、読者が本書から理解したことは、他の誰にも説明しないように。また、早まって私に反駁しようとしないように。私が何を言わんとしているかについての読者の理解は、私の意図に反しているかも知れないのだから。

つまり『導き』は秘儀であり、その内容は世に伏せられている。読者は、内容を正しく理解したか否か、常に自問するよう迫られている。かりに正しい理解を得られたとしても、読者は誓約に縛られて、それを他言することができない。『導き』は広く読まれることを意図した著作ではない。限られた、秘儀を伝えられるにふさわしい読者にのみ読まれるべき著作である。
 
 『導き』の当初の読者として想定されたのは、マイモニデスの弟子で、修学の中途でエジプトを離れざるを得なくなったジョゼフ・ベン・ジューダである。
 
 ジョゼフは、マイモニデスの指導の下、数学、論理学、天文学を修めたが、律法の秘儀については十分な理解がなく、困惑に陥っていた。『導き』の献辞が明らかにしているように、『導き』はもともと、迷いを解くために、マイモニデスからジョゼフへ、順次送られた書簡から構成されている。
 
 『導き』は「迷える者」、神の与えた律法と知を授ける哲学の双方を学んだ結果、困惑するに至った者のみを読者として想定している。自身の得た知に従って律法を捨て去るべきか、それとも律法を厳守して知に背を向けるべきか、苦悩を続ける者を読者として想定している。
 
 律法の隠された意味を明らかにし、「迷える者」を精神の危機から救うことが、『導き』の使命である。
 
 もしそうした使命を持つ著作が、想定された読者を超えて世に広く流布するなら、深遠な知を理解し得ないにもかかわらず、十分な叡知と理解力があると自負してやまない大多数の読者からは、いわれのない非難を受けることになるであろうし、さらには真の知を探求する哲学を不倶戴天の敵とみなす宗教的・政治的権威からの抑圧や攻撃を被ることになる。
 
 人類の歴史の長きにわたって、活動を秘匿することは、哲学の自由を守るための不可欠の手段であった。抑圧的体制の下では、あらゆる知の探究は「政治的」意義を押しつけられる。
 
 真の知を隠蔽することは、一般大衆を保護することでもある。
 
 世の人々の日々の生活は、真の知に裏付けられてはいない。紙幣の本当の価値から、原発や食品の本当の安全性に至るまで、真であるともないとも分からないが、ともかくほとんどの人々が信じている通念、それが人々の日々の生活を支えている。真の知を与えられることは、人々の社会生活の根本、遵法精神の基盤を破壊することとなりかねない。
 
 信仰については、とくにそうである。
 
 ユダヤ教は偶像崇拝を禁止する。しかし、マイモニデスによれば、禁止される偶像は、物理的に造形された偶像には限定されない。心の中で人の形として描かれるイメージ、擬人化された神のイメージを抱くことも禁じられる。それは、自分自身を理想化した姿を崇拝しているにすぎない。神に身体がない以上、神についてはいかなるイメージもあり得ない。
 
 神が人と同様の姿形を持つ、人と同様に立ったり座ったりする、人と同様に怒ったり喜んだりすると考えること自体が神に背くことである。神の身体性を否定することによってのみ、信仰は統一される(I: 35)。神の無身体性とその唯一性とは、一体不可分である。神には部分も要素も属性もない。神は絶対的な完結性である(I: 53)。
 
 偶像を許容するとき、神の唯一性は破壊され、信仰は分裂し、無数の激烈な対立がもたらされる。
 
 神が感情を持つと考えることは、神がさまざまに変化を被ると考えることである。神が人と同様に姿形を持ち、怒ったり喜んだりするという聖書の記述は(「私の姿に似せて人を造ろう」『創世記』1: 26等)、したがって、比喩的にのみ受け取る必要がある。
 
 モーセが神の姿を見るという聖書の記述(『民数記』12: 8)は、彼が神の真実を悟ったことを意味している(I: 3-5)。神が嫉妬深く復讐心に燃えるという記述(『ナホム書』1: 2)は、人間の嫉妬や復讐心に基づく行為と同様の帰結が、応報として人々に降り掛かる(はずだ)と述べているにすぎない(I: 54)。
 
 真の意味を知るには、解釈が必要である。
 
 しかし、神には人と同様の身体もなければ思考や感情もないと言われれば、それが何を意味するか理解し得ない大部分の人々は、神は存在しないのだと思い込む危険がある。聖書があたかも神に姿形があり、ことばを発するかのように述べているのも、大部分の人々には抽象的な真実を理解する力が欠けているからである。
 
 神が存在することは、分析的・必然的な真である。何か先行する原因があって存在するわけではない。ここやそこ、あのときやこのときに神がたまたま存在するのではない。神とそれ以外のものとでは、存在のあり方そのものが異なっている(I: 35)。神が唯一であるとか、永遠である等の形容も、人の使うあいまいなことばでは、そうとしか言えないだけのことで、神の真実を伝えるものではない(I: 57)。
 
 神は完全なる他者であって、われわれのことばを通じた理解を超えている。われわれに言い得ることは、神が何ではないかだけである。
 
 「何ごとかを肯定的に神に帰するとき、あなたはそれだけ神に関する真の知から遠ざかる」(I: 59)。神はかくかくしかじかであると述べるとき、神に属性を帰するとき、神は分裂し、唯一性を失う。したがって、最も適切な叙述は、『詩篇』65: 2が述べるように、「沈黙こそあなたにふさわしき讃歌」である(I: 59)。
 
 しかし、そのことを理解し得る人はごくわずかである。理解し得ないことを伝えて人々を徒に動揺させるべきではない。哲学者には、日々の社会生活、人々の社会通念を破壊すべきではないという社会的責任がある。
 
 真の知ではないが、人々の社会生活を支えるもの、それはプラトンが『国家篇』414A-415Dで例示する「高貴な嘘」である。
 
 マイモニデスは、同じものを「必要な信念」と呼ぶ。マイモニデスは、律法が世に伝える信念を「正しい信念」、つまり人をより卓越した段階に導く信念と、「必要な信念」、つまり社会生活が適切に機能するために必要な信念とに区分する(III: 28)。
 
 不正義を行う者に対して神が激しく怒るという信念、他人から害悪を被り、祈りを捧げる者を神がただちに救うという信念は、必要な信念である。必要な信念は、繰り返し、詳細に、ときには寓話の形をとって分かりやすく伝えられる。
 
 真なる信念はそうではない。
 
 きわめて簡潔に、ほとんど気づかれない形で、伝えられる。たとえば、「主を愛するよう」(『申命記』11: 13)というように。秘儀を理解する者のみが、寓話の背後にある真の意味に気づく。
 
 秘儀は口伝されることが通常である。書物として著されたとき、秘儀であり続けることは至難である。マイモニデスはそこで、本書には意図的に矛盾が埋め込まれていると言う。意図的に理解は困難とされている。的確に解釈した者のみが正しい理解へと至ることができる。真実は矛盾するもろもろの言明のかなたに、ほのかに、漠然とした形で指し示される。
 
 しかし、そもそもなぜマイモニデスは、秘儀を書物として著したのであろうか。
 
 口伝のみによる秘儀の伝承は、卓越した伝承者と被伝承者の存在、そして彼らの地理的・物理的な近接性を前提条件とする。しかし、イスラエルの国家が失われ、地上にユダヤ人が拡散したとき、その前提条件は失われた。その結果、秘儀は正しく伝えられず、聖書にあらわれる手掛かりも、イスラムやキリスト教の諸派によりさまざまに解釈されるに至った(I: 71)。
 
 マイモニデス自身も、誰かに秘儀を伝えられたわけではない。彼は失われた秘儀を自身の知的努力で再構築した。彼の知的成果は、世にも稀な僥倖であり、人に到達可能な最高度の知的卓越性のあらわれである。それを書物の形で残さなければ、彼の死後、秘儀は再び失われる。迷える者が救われる可能性も失われる(III: Introduction)。
 
 もっとも、ここに秘儀がある、それは隠されていると明言することは、秘儀を守る所以ではない。
 
 古において律法の意義が口伝とされ、文書とすることが禁じられたのも、書き残されたことの意味についての見解の対立、学派の論争、解釈の混乱が生ずることを防ぐためであった(I: 71)。マイモニデスの死後、『導き』はさまざまに解釈され、これこそが彼の真の意図だと主張し論争を構える人々が後を絶たない。
 
 ここでは、モーシェ・ハルバータル*3の解説を導きとして、『導き』のいくつかの解釈をたどることにする*4
 
 ハルバータルは、『導き』の4種の解釈を紹介する。懐疑的解釈、神秘的解釈、保守的解釈、哲学的解釈である。
 
 懐疑的解釈は、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』の末尾の命題「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」に関する次のような通常の理解に対応する。
 
 言語を通じてわれわれは、この世界の知識を形成する。したがって、言語の限界は、この世界に関する知の限界でもある。神に関する言語の限界を指摘するマイモニデスの言明は、こうした知の限界に関する議論の変奏である。知り得ないことについて語ろうとすることはやめて、知り得ることにわれわれは努力を傾注すべきである。言語によって形成し得るこの世界の知識、この世界の因果関係の総体、そしてわれわれが負うわれわれが生きるこの社会への責任、それこそがわれわれが神について知り得ることのすべてである。
 
 神について語り得ぬこと、それは知り得ないことの存在を示す。しかし、神に関して知り得ることを限定してしまうこの懐疑的解釈からすると、そもそも神が存在すること自体、あやふやとならないであろうか。
 
 ここで神秘的解釈が登場する。
 
 語り得ぬものはたしかにある。しかし、それは本当に知の限界を画しているのか。言語に頼ることなく得られる知があるのではないか。音楽が示す無数の音の調和のあり方、絵画が描く無数の形態と色彩の均衡、それらはことばで表すことはできないものの、それらを把握し、すぐれたものとそうでないものとを区別することはできる。
 
 この世界には、瑣末なものから抽象的なものまで、そもそも言語化もなし得ない膨大な知があり、それをわれわれは日常的に感じ取り、使いこなしている。肯定的な形容を排除する厳密な哲学的探究の道程を経て、ことばの限界に立ち至ったとしても、それを超えて神の測り知れない真実を把握し、人としての卓越性へと至ることがなぜあり得ないのか。
 
 ウィトゲンシュタインの真意も、語り得ないものをナンセンスとして背を向けよというものではない*5。宗教、道徳、芸術、それらは彼にとって語られるべきものではなく、沈黙の下に畏敬されるべきものであった。マイモニデスにとっても、神は語り得ぬものであり、沈黙こそがふさわしい讃歌であった(これは本当に神秘主義だろうか?)。
 
 他方、保守的解釈と哲学的解釈とは、神に意思はあるかという問いをめぐって交錯する。
 
 この問いは、この世に始まりはあったかという問いと直結している。神がその意思にもとづいてこの世を創造したという観念は、神に何らかの欠如があった──その欠如を癒すために神はこの世を創造したという想定へと行き着く。
 
 それは神の完全無欠性と両立しない。また神がなぜこの世を創造するよう意思するに至ったのか、彼をしてそうさせたのは何かという問いへと導く。つまり、神は第一原因ではなかったことになる。これもまた、神の完全無欠性と両立しない。神が完全無欠である以上、彼がその意思によってその世界を創造するはずはない。この世界は永遠の過去から永劫の未来まで、変わらず存在する。
 
 他方、神に意思があるという観念も、やはり神の完全無欠性から出発する。神は完全無欠である。したがって、神には意思もある。この世界を自由に創造し得る力も神にはやはりある。この世界は神が無から創造した。そもそも神に意思がないとすると、神による啓示─―預言もあり得ないこととなる。それは聖書の記述と真っ向から衝突する。
 
 中世の科学は、いずれとも結論づけることができなかった(II: 24)。夜の星空は、大部分が永遠に変わらぬ規則的な同心円運動を示すものの、惑星のように不規則な運動をするものもある。周転円を想定して規則的運動の中にはめ込むことはできるものの、天空全体の中心と異なる中心を持つ付加的な円をいくつも措定することは、いかにもeccentricな説明のようにも見える。
 
 神の意思は働いているのかいないのか。
 
 マイモニデスはこの点につき、明確な立場をとらない。彼は、この世がある時点で創造されたことも、また、この世が永遠であることも、いずれも論証されてはいないと言う(II: 25)。むしろ、彼は、世界が創造されたものであろうと、過去から未来へと永遠に存在するものであろうと、神が存在し、唯一で身体がないことは、いずれにしても論証できることを指摘する(I: 71)。
 
 また、預言の存在も必ず神の意思による奇蹟として理解されねばならないわけではない。預言は卓越した知性と道徳と想像力を持つ人に備わる特性として説明することもできるからである(II: 32)。高い知性と道徳性を備えた人が必ず預言できるわけではないが。
 
 それでも『導き』をユダヤの伝統と整合的に解釈しようとする保守的な立場は、マイモニデスが神による世界の創造の可能性を認める点を強調する。神の「意思」は人の「意思」とは違う。神に「意思」があったからと言って、それが神の完全無欠性と矛盾するとは限らない。
 
 しかし、神に肯定的な性質を帰属させることに意味がないとすれば、やはり神に「意思」があると言うことはできないのではないか。神が何ごとかを「語る」ことにも、比喩的な意味しかないはずである。ここでも、懐疑主義的に、ただ沈黙のみがふさわしいと考えるべきではないか。
 
 他方、哲学的解釈は、議論全体の基軸を転換する。この世界が特定時点で神によって創造されたことは、真なる信念ではない。それは、必要な信念、法の権威と社会秩序を維持するために必要な信念である。聖書の描く通りの摂理と預言─啓示への信念、そこに示される神の意思への信仰なくしては、人々の日々の社会生活は成り立ち得ない。
 
 マイモニデスも、聖書にある世界創造の記述は、神が特定時点でこの世を創造したとの信念の決定的な証拠にはならないとする。神に人と同様の姿形があるという記述も、聖書にはあふれているからである。つまり、世界創造の記述についても、神の身体に関する記述と同様、比喩的な意味のみを持つと考えることもできる(II: 25)。
 
 もちろん、いずれかの解釈が妥当な解釈であるとの結論に到達することができたとしても、誓約に縛られた読者は、それを公にすることはできない。たとえ公にしたとしても、それを理解する者はわずかである。
 
 『導き』は次の章句で締めくくられている(Ⅲ: 54)。

神は心から、他事にかまけることなく呼びかける、すべての人のそばにおられる。
惑うことなく近づくならば、神を探究するすべての者は、彼を見出す。

 


*1 1135年との説もあり。
*2 Moses Maimonides, The Guide of the Perplexed, 2 vols. (Shlomo Pines trans, University of Chicago Press 1963).
*3 モーシェ・ハルバータル Moshe Halbertal(1958-) マイモニデス研究で知られるイスラエルの哲学者。ヘブルー大学およびニューヨーク大学教授。
*4 Moshe Halbertal, Maimonides: Life and Thought (Princeton University Press 2014), chapters 7 and 8.
*5 Jonathan Reé, ‘The Young Man One Hopes For’, London Review of Books, Volume 41, Number 22 (21 November 2019).

 
 
》》》バックナンバー
第1回 現実感覚
第2回 戦わない立憲主義
第3回 通信の秘密
第4回 ルソー『社会契約論』における伝統的諸要素について
第5回 宗教上の教義に関する紛争と占有の訴え
第6回 二重効果理論の末裔
第7回 自然法と呼ばれるものについて

長谷部恭男

About The Author

はせべ・やすお  早稲田大学法学学術院教授。1956年、広島生まれ。東京大学法学部卒業、東京大学教授等を経て、2014年より現職。専門は憲法学。主な著作に『権力への懐疑』(日本評論社、1991年)、『憲法学のフロンティア 岩波人文書セレクション』(岩波書店、2013年)、『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書、2004年)、『Interactive 憲法』(有斐閣、2006年)、『比較不能な価値の迷路 増補新装版』(東京大学出版会、2018年)、『憲法 第7版』(新世社、2018年)、『法とは何か 増補新版』(河出書房新社、2015年)、『憲法学の虫眼鏡』(羽鳥書店、2019年)ほか、共著編著多数。