ジャン・ジャック・ルソーの『社会契約論 Du contrat social』は、さまざまな謎を含んでいる。現代人にとっては縁遠い伝統的な諸観念のために生ずる謎であることが、しばしばある。
たとえば、彼の言うloiはしばしば法律と訳される。しかし、現代国家における法律とは全く違うものである。
loiを提案する立法者(législateur)の具体例として、リュクルゴス、モーセ、ムハンマド、カルヴァンが挙げられていることからも分かるように(『社会契約論』第Ⅱ篇第7章、以下II.7等と略記する)、彼の言うloiは社会生活の基本法にあたるもので、あえて日本語に直すなら、憲法ということになるだろうが、日常の私生活のあり方まで定めるきわめて中身の濃厚な憲法である。リベラル・デモクラシーにおける憲法とは様相を異にする。
肝心な点は、後述する、一国の統治形態を定める標準的な意味での憲法とは違うことである。
このloiによって統合される国家はpersonne morale つまり法人で、そのメンバーは人民である(Ⅰ.7; Ⅱ.4)。国家は人民によって構成される社団法人である。
ところでルソーは、この法人と人民と全人民集会について、いくつか不思議なことを述べている。彼によると(Ⅱ.1)、
主権とは一般意思の行使にほかならないのだから、これを譲り渡すことは決してできない。また、主権者とは集合的存在にほかならないから、この集合的存在そのものによってしか代表され得ない。
ルソーは、「主権は代表され得ない」(Ⅲ.15)と述べるとともに、人民が主権を行使するために集会したときは、「代表される当事者自身が現在している以上、それがさらに代表されることはあり得ない」ともいう(Ⅲ.14)。
もう少し筋の通るように言い直すと、「主権が存するのは人民の集合体であるが、全人民集会が招集されたとき、そこには主権者自身が立ち現れたのであるから、それに加えてさらに代表が存在することはあり得ない」ということになるであろうか。
しかし、ここには明らかな議論の混乱がある。
株主によって構成される株式会社にも、株主総会はあるが、株主総会はあくまで株式会社の機関(代表)であって、株式会社そのものではない。同じように、人民によって構成される法人である国家は、全人民集会によって代表されているのであって、全人民集会すなわち国家であるわけではない。
ルソーが言いたいのは、全人民集会こそが究極かつ最高の国家機関だということであろう。
つづきは、単行本『神と自然と憲法と』でごらんください。
憲法学の本道を外れ、気の向くまま杣道へ。そして周縁からこそ見える憲法学の領域という根本問題へ。新しい知的景色へ誘う挑発の書。
2021年11月15日発売
長谷部恭男 著 『神と自然と憲法と』
四六判上製・288頁 本体価格3000円(税込3300円)
ISBN:978-4-326-45126-5 →[書誌情報]
【内容紹介】 勁草書房編集部ウェブサイトでの連載エッセイ「憲法学の散歩道」20回分に書下ろし2篇を加えたもの。思考の根を深く広く伸ばすために、憲法学の思想的淵源を遡るだけでなく、その根本にある「神あるいは人民」は実在するのか、それとも説明の道具として措定されているだけなのかといった憲法学の領域に関わる本質的な問いへ誘う。
【目次】
第Ⅰ部 現実感覚から「どちらでもよいこと」へ
1 現実感覚
2 戦わない立憲主義
3 通信の秘密
4 ルソー『社会契約論』における伝統的諸要素について
5 宗教上の教義に関する紛争と占有の訴え
6 二重効果理論の末裔
7 自然法と呼ばれるものについて
8 「どちらでもよいこと」に関するトマジウスの闘争
第Ⅱ部 退去する神
9 神の存在の証明と措定
10 スピノザから逃れて――ライプニッツから何を学ぶか
11 スピノザと信仰――なぜ信教の自由を保障するのか
12 レオ・シュトラウスの歴史主義批判
13 アレクサンドル・コジェーヴ――承認を目指す闘争の終着点
14 シュトラウスの見たハイデガー
15 plenitudo potestatis について
16 消極的共有と私的所有の間
第Ⅲ部 多元的世界を生きる
17 『ペスト』について
18 若きジョン・メイナード・ケインズの闘争
19 ジェレミー・ベンサムの「高利」擁護論
20 共和国の諸法律により承認された基本原理
21 価値多元論の行方
22 『法の概念』が生まれるまで
あとがき
索引
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