2019年11月に刊行された『憲法判例百選〔第7版〕』*1は、宗教上の教義に関する紛争が問題とされた二つの事件を収録している。184事件と185事件である。
184事件でとり上げられた最高裁判決(最判昭和56・4・7民集35巻3号443頁)は、具体的権利義務ないし法律関係に関する紛争の形式をとる訴訟であっても、その訴訟を解決するために、宗教上の教義に関する判断をすることが必要不可欠である場合には、その訴訟は法令の適用による終局的な解決が不可能であり、したがって、裁判所法3条にいう法律上の争訟にあたらないとする。つまり、訴えは却下される。
この事件では、創価学会が、①本尊である「板まんだら」を安置するための「正本堂」を建立する、そして、②正本堂の建立は、教義にいう「広宣流布」達成の時期にあたる、という理由で寄付を募り、元会員である原告がそれに応じて寄付をしたところ、その後、①「板まんだら」は偽物であることが判明し、②正本堂の完成後に、創価学会は、「広宣流布」はいまだ達成されていないと言い出したとして、原告は、寄付(贈与)には錯誤があって無効であることを理由に寄付金の返還を求めた。
見たところは、旧民法95条にいう「要素の錯誤」*2があるので、寄付行為は無効であり、したがって、原告は不当利得返還請求ができるという、まっとうな法律上の争訟のようである。しかし、「要素の錯誤」があるか否かを判断するためには、宗教上の教義に関する判断が必要不可欠で、そんな判断は公権力である司法裁判所にはなし得ない。だから、訴訟は丸ごと門前払いだという理屈である。
同様の考え方は、185事件の平成5年9月7日の最高裁判決(民集47巻7号4667頁)でもとられている。この事件では、Xらは、日蓮正宗最大の信徒団体である創価学会に批判的な「正信会」を発足させ、その大会を開催したが、この大会開催は、現法主(Y)の「指南」に基づく宗務院の禁止命令を無視したものであった。そこでYはXらを罷免し、Xらが代表役員の地位にある末寺の建物を明け渡すよう要求した。
一方、Yは先代の法主の遷化(逝去)の後、先代法主の生前に、次期法主となるべき「血脈相承」を受けたと主張して法主の地位に就いていたが、XらはYへの「血脈相承」を否定し、Yが日蓮正宗の代表役員ではないことの確認を求める訴えを提起した。ちなみに、日蓮正宗では、代表役員は法主の職にある者をもってあてるとされている*3。
この訴訟でも最高裁は、Yが日蓮正宗の代表役員であるか否かを判断するには、Yが「血脈相承」を受けた法主であるか否かを判断する必要があるが、それは教義ないし信仰の内容に立ち入ることになり、結局、この訴訟は法律上の争訟にあたらないとして、門前払いとした。
つづきは、単行本『神と自然と憲法と』でごらんください。
憲法学の本道を外れ、気の向くまま杣道へ。そして周縁からこそ見える憲法学の領域という根本問題へ。新しい知的景色へ誘う挑発の書。
2021年11月15日発売
長谷部恭男 著 『神と自然と憲法と』
四六判上製・288頁 本体価格3000円(税込3300円)
ISBN:978-4-326-45126-5 →[書誌情報]
【内容紹介】 勁草書房編集部ウェブサイトでの連載エッセイ「憲法学の散歩道」20回分に書下ろし2篇を加えたもの。思考の根を深く広く伸ばすために、憲法学の思想的淵源を遡るだけでなく、その根本にある「神あるいは人民」は実在するのか、それとも説明の道具として措定されているだけなのかといった憲法学の領域に関わる本質的な問いへ誘う。
【目次】
第Ⅰ部 現実感覚から「どちらでもよいこと」へ
1 現実感覚
2 戦わない立憲主義
3 通信の秘密
4 ルソー『社会契約論』における伝統的諸要素について
5 宗教上の教義に関する紛争と占有の訴え
6 二重効果理論の末裔
7 自然法と呼ばれるものについて
8 「どちらでもよいこと」に関するトマジウスの闘争
第Ⅱ部 退去する神
9 神の存在の証明と措定
10 スピノザから逃れて――ライプニッツから何を学ぶか
11 スピノザと信仰――なぜ信教の自由を保障するのか
12 レオ・シュトラウスの歴史主義批判
13 アレクサンドル・コジェーヴ――承認を目指す闘争の終着点
14 シュトラウスの見たハイデガー
15 plenitudo potestatis について
16 消極的共有と私的所有の間
第Ⅲ部 多元的世界を生きる
17 『ペスト』について
18 若きジョン・メイナード・ケインズの闘争
19 ジェレミー・ベンサムの「高利」擁護論
20 共和国の諸法律により承認された基本原理
21 価値多元論の行方
22 『法の概念』が生まれるまで
あとがき
索引
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