憲法学の散歩道 連載・読み物

憲法学の散歩道
第6回 二重効果理論の末裔

 
 
 日本の最高裁の得意技の一つに、付随的制約の法理がある。表現の自由を典型とする精神的自由は、内容に基づいて制約される場合には、その正当化の成否は厳格審査に服するというのが、標準的な考え方である。表現内容に着目した制約は、背後に特定の思想を抑圧しようなどといった不当な動機が隠されている蓋然性が高いし、内容中立的な制約に比べて多様な情報の公正な流通を歪めるリスクも高いからである。
 
 しかし、見たところは内容に基づいて制約されているようであるにもかかわらず、厳格審査ではなく、中間審査でかまわないという考え方がある。それが、付随的制約の法理である。
 
 たとえば、公職選挙法は戸別訪問を禁止している。法文上は、「何人も、選挙に関し、投票を得若しくは得しめ又は得しめない目的をもつて戸別訪問をすることができない」とされ(同法138条1項)、この規定に違反して戸別訪問をした者は、1年以下の禁錮又は30万円以下の罰金に処せられる(同法239条1項)。
 
 「あの人に投票して下さい」とか、「この人には投票しないで下さい」と依頼するために戸別訪問をするなというのであるから、見るからに表現の内容に着目した制約である。厳格審査に服することになりそうである。
 
 しかし、判例はそうした立場はとっていない。理由として提示されているのは、戸別訪問の禁止は、選挙に関する意見表明そのものの制約を目的としてはいないというものである。①禁止の目的は、戸別訪問という意見表明の手段がもたらす弊害──典型は買収や生活の平穏の妨害──を防止し、選挙の公正を確保することであって、この目的は正当である。②戸別訪問の一律禁止と弊害の防止という目的との間には合理的関連性があり、しかも、③弊害の防止と選挙の公正の確保という得られる利益は、戸別訪問という手段の禁止が伴う、意見表明への「付随的」──「たまたまの contingent」という意味である──制約という失われる利益を上回る。したがって、この制約は正当であるとされる*1
 
 ここで示されているのは「合理的関連性基準」と呼ばれる正当化の成否の判断のものさしで、中間審査であると考えられている。「必要不可欠な」制約目的が要求されているわけではなく、目的達成手段として、他により制限的でない手段がないという補充性が要求されているわけでもないので、厳格審査とは言いがたい判断のものさしである。
 
 こうした最高裁の考え方は、アメリカ合衆国の連邦最高裁がときおり用いる「派生的効果 secondary effects」法理との類似性を指摘することができる。アメリカの派生的効果法理も、一見したところは内容に基づく表現活動の制約であるものの正当化の成否を中間審査で判断する考え方である。
 
 たとえば、閑静な住宅街には、アダルト映画を上映する映画館は建設しないようにというゾーニング規制をする市の条例があるとする。この条例は内容に着目した表現活動の制約であるように見えるが、実はそうではない。ゾーニング規制の目的は、アダルト映画館の営業がもたらしかねない性犯罪の増加や地価の低下という弊害を防止し、近隣住民の都市生活の質(the quality of urban life)を守ることだからである。アダルト映画を上映できなくなることは、この正当な目的による規制の付随的効果にすぎない。規制目的は重要であり、アダルト映画を伝達する他の手段は十分に残されているし、利益と失われる利益のバランスもとれている。だからこの規制は合憲だという理屈である*2
 
 こうした日米の考え方の説得力やその妥当範囲については、いろいろな議論がある*3。ここでお話しするのは、こうした議論の源泉をたどっていくと、どこまで行き着きそうかという話である。
 
 話題は変わって、戦争に関する法と倫理の問題になる。戦争を規律する法と倫理の問題領域は、大きく二つに分けることができる。どのような条件が揃ったときに開戦の決定が正当化されるかを論ずる jus ad bellum と、戦争の遂行にあたってどのような行為がどの程度、どの範囲まで認められるかを論ずる jus in bello である。後者に含まれる論点の一つとして、二重効果理論(the doctrine of double effect)がある。
 
 戦争遂行に際しては、戦闘員と非戦闘員は区別されるべきだという大原則がある。戦争において戦闘員を殺傷することは許される。非戦闘員を殺傷することは許されない。
 
 しかし、非戦闘員を「結果として」殺傷することになる行為がすべて禁止されるわけではない。たとえそうした結果が事前に予想される場合であっても。たとえば、正当な軍事目標である軍需工場を爆撃すると、その結果、周辺に居住する一般市民にも付随的に被害が及び、その殺傷を帰結することが十分に予想される。しかし、一般市民の殺傷が意図されているわけではなく、正当な攻撃目標に対する攻撃の派生的結果としてたまたま生ずるにすぎないものであれば、それが絶対に禁止されるわけではない。
 
 もちろん、さしたる生産量もない弾丸の工場を一つ破壊するために、周辺住民を1万人も殺傷することになるとすれば、バランスを欠いた攻撃として非難されるであろう。バランスのとれる範囲内の攻撃でなければならない*4
 
 ここでも絶対的な禁止や厳格な判断基準ではなく、バランスを考えた上での、より柔軟な判断基準が妥当することになる。
 
 こうした考え方は、カトリック神学の伝統に遡ることができる。後期スコラ学派の始祖として知られるヴィトリア*5に「戦争法論」という講義録がある*6。その中でヴィトリアは、戦争の遂行にあたって、ときには、非戦闘員を過失によってではなく、結果を十分に予測した上で殺傷することも、それが付随的な帰結である場合には、許される場合があると述べる。たとえば都市や城砦に非戦闘員が居住していることを知りつつも、彼らを殺傷することなしには、戦闘員を殺傷することもできない状況下で、それでも猛攻撃を仕掛ける場合がそうである*7
 
 もちろん、そうした場合も、悪しき帰結が目的である善い帰結を上回らないよう配慮する必要はある。戦争に勝利する上で当の城砦にさしたる重要性がなく、しかもきわめて多数の非戦闘員が居住していることが判明しているときに、あえて猛攻撃を仕掛けるべきではない。バランスは考える必要がある。非戦闘員の殺害は、それが付随的なものであり、意図せざるものであったとしても、正戦を完遂するために他に手段がないという場合に、はじめて許される*8
 
 ヴィトリアは、スペインのバスク地方の出身であるが、パリ大学で神学を学び、とりわけトマス・アクィナスの著作を研究した。彼は、教授を務めたサラマンカ大学における神学の教材を、それまでヨーロッパ各地で広く使われていたペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』から、アクィナスの『神学大全』に切り換えたことで知られる。
 
 『神学大全』の中では、正当防衛の成否を論ずる箇所で二重効果理論が議論されている。アクィナスによると、一つの行為が二つの帰結をもたらし、そのうち一つは意図されたものであり、いま一つは意図されていないということがある。正当防衛がその典型である。
 
 正当防衛の一つの帰結は、行為主体の生命を救うことである。もう一つの帰結は、暴力をふるって襲いかかった者を殺すことである。もし、行為主体の意図が自身の生命を救うことにあるのであれば、その行為は違法ではない。いかなる者にとっても、神から与えられた自身の生命を保とうとすることは当然であるから。
 
 しかし、相手に害悪を加えることが意図されているのであれば許されない。意図が何かが肝心である。さらに、防衛の意図はあったとしても、とられた行為が自身の生命を保つという目的に照らしてバランスを欠いたものであれば、やはりそうした行為は許されない*9
 
 表現活動に対する付随的制約の法理の源泉を遡っていくと、カトリック神学の二重効果理論に行き着く。二重効果理論がキリスト教の伝統の中で一貫して支持されてきたわけではない。正当防衛が認められるか否かに関してアウグスティヌスの立場は揺れていたし、マルティン・ルターは二重効果理論を否定した*10。それでも、二重効果理論の末裔は、憲法だけでなく、姿形を変えて国際法にも刑法にも生息している。
 
 日本が明治以来、継受した西洋の法学には、それを支えている伝統がある。もちろん、伝統を墨守することが正しいわけではない。また、現代日本における付随的制約論の妥当性と──妥当性があるとして──妥当する範囲をカトリック神学の伝統と切り離して検討することができないというわけでもない。
 
 しかし、どのような伝統を継受しているかを理解することにも、意味はあるように思われる。諸外国の最先端の議論を追いかけ、それを切り取って日本に紹介するばかりで、根源にある思想が何かを知らないままでは、大事なことが見失われるおそれもある。なぜ合理的関連性基準で基本権制約の正当化の成否を審査するのかと問われて、最高裁の先例がそう言っているからという答だけで済ませることができるものだろうか。
 
 少なくともこうした伝統を弁えることなく、合理的関連性基準が厳格なのかそうでないのかを判断することは、できないであろう。
 

*1 最判昭和56年6月15日刑集35巻4号205頁。
*2 Cf. City of Renton v. Playtime Theatres, Inc., 475 U.S. 41 (1986).
*3 さしあたり、拙著『憲法の円環』(岩波書店、2013)第14章「表現活動の間接的・付随的制約」参照。アメリカでは、この法理はもっぱら性表現の規制に関して用いられる。理屈と膏薬は何にでもつくものであるから、こうした法理をあちらこちらで使い始めると、表現活動の内容に基づく制約は厳格審査に服するという大原則が揺るがされることになりかねない。
*4 See, for example, Joseph Boyle, ‘Just War Thinking in Catholic Natural Law’, in Terry Nardin (ed), The Ethics of War and Peace: Religious and Secular Perspectives (Princeton University Press 1996) 44-45.
*5 Francisco de Vitoria (circa 1485-1546). ドミニコ会修道士。反宗教改革運動を思想面で支えた後期スコラ学派の始祖とされる。サラマンカ大学の神学講座の主任教授を務めた。
*6 ‘On the Law of War’, in Francisco de Vitoria, Political Writings (Anthony Pagden and Jeremy Lawrence eds, Cambridge University Press 1991) 293-327.
*7 Ibidem, 315.
*8 Ibidem, 316.
*9 Thomas Aquinas, Political Writings (R.W. Dyson ed, Cambridge University Press 2002) 263-64.
*10 Cf. David D. Corey and J. Daryl Charles, The Just War Tradition: An Introduction (ISI Books 2012) 91-92.

 
 
》》》バックナンバー
第1回 現実感覚
第2回 戦わない立憲主義
第3回 通信の秘密
第4回 ルソー『社会契約論』における伝統的諸要素について
第5回 宗教上の教義に関する紛争と占有の訴え
第6回 二重効果理論の末裔
第7回 自然法と呼ばれるものについて

長谷部恭男

About The Author

はせべ・やすお  早稲田大学法学学術院教授。1956年、広島生まれ。東京大学法学部卒業、東京大学教授等を経て、2014年より現職。専門は憲法学。主な著作に『権力への懐疑』(日本評論社、1991年)、『憲法学のフロンティア 岩波人文書セレクション』(岩波書店、2013年)、『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書、2004年)、『Interactive 憲法』(有斐閣、2006年)、『比較不能な価値の迷路 増補新装版』(東京大学出版会、2018年)、『憲法 第7版』(新世社、2018年)、『法とは何か 増補新版』(河出書房新社、2015年)、『憲法学の虫眼鏡』(羽鳥書店、2019年)ほか、共著編著多数。