あとがきたちよみ
『ナッジ!?』

About the Author: 勁草書房編集部

哲学・思想、社会学、法学、経済学、美学・芸術学、医療・福祉等、人文科学・社会科学分野を中心とした出版活動を行っています。
Published On: 2020/5/28

 
あとがき、はしがき、はじめに、おわりに、解説などのページをご紹介します。気軽にページをめくる感覚で、ぜひ本の雰囲気を感じてください。目次などの概要は「書誌情報」からもご覧いただけます。
 
 
那須耕介・橋本 努 編著
『ナッジ!? 自由でおせっかいなリバタリアン・パターナリズム』

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*下記に「はじめに」と「おわりに」を掲載しましたが、上記リンク先のpdfファイルでは目次頁にくわえ、各章冒頭も公開しております。
また、編者の那須耕介さんが、一部本書執筆者への依頼時におこなった対談連載もあわせてぜひお読みください。→→【めんどうな自由、お仕着せの幸福─ サンスティーン先生、熟議のお時間です!】けいそうビブリオフィル(https://keisobiblio.com/author/nudgetalk/)



[はじめに] ナッジ!? 強制と放任のあいだで
 
那須耕介
 
 駅のホームからの転落事故を防ぐにはどうすればよいだろうか? たしかに、頑丈なホームドアを設ければほとんどの事故は防げるかもしれない。ただしその費用は一駅あたり四〜五億円はかかるそうだ。土台が弱い場合には補強工事も必要だし、複数の路線が乗り入れる駅なら車両そのものを改造、変更して車両ドアの位置をそろえなければならない。
 そんなわけでなかなか整備が進まないのが実情だが、このところ、関西の鉄道を皮切りにちょっとおもしろい試みが進められてきた。
 事故の実態について調べてみたところ、ある統計によると、線路への転落、電車との接触事故の七割以上が酔客によるもので、なおかつそのうちの六割が、座っていたベンチから線路にむかってふらふらと歩き始めた結果だったという─まさに「酔っ払いあるある」!
 そこでJR西日本をはじめ、いくつかの鉄道会社は、線路と水平に置くのが一般的だったベンチの向きを、線路と垂直に設置しなおしはじめた。詳細は不明だが、すでにはっきりと事故の数は減りはじめているという。あらゆる事故を一掃できるわけではないにせよ、圧倒的にわずかな費用で(一駅あたりの工費は数百万円だとか)、かなりの効果が見込めそうだ[SANKEI DIGITAL INC. 2017]。
 別の例をみてみよう。八王子市は、前年度の大腸ガン検診受診者全員に無料で便検査キットを送付してきた。ただ、このやり方では未受診者は減らない。そこで、未受診者に「今年度大腸ガン検診を受診しなければ、来年度は便検査キットが送付されません」という文面のはがきを送ってみた。すると、「今年度大腸ガン検診を受診すれば、来年度も便検査キットを送ります」というはがきよりも、受診率が七・二%高くなったという[大竹・平井2018, 109-110]。
 また、ある大阪の大学生は、バイト先のコンビニで毎日大量に廃棄されるおにぎりを減らす工夫を考えた。通常、コンビニの商品は賞味期限の近いものから棚の手前に並べられるが、これを知っている客は奥から先に取っていってしまうのだ。そこで、賞味期限に余裕のあるおにぎりと賞味期限の近いおにぎりとのあいだに鏡の仕切り板を置き、品薄感を抑えつつ新鮮な商品が先に売れてしまうのを防いでみた。その結果、それまで一日あたり二〇個あまり捨てられていたおにぎりは、日に三〜四個の廃棄ですむようになった[三松2018]。
 
1「ナッジ」、生まれる
 
 罰則を設け、コストを下げ(または利得を与え)、理を説いて合意を得れば、人の行動を変えることができる。しかしそのようなやり方が事実上不可能な場合や、あまり望ましくない場合、賢明とはいえない場合もあるだろう。「ナッジ(nudge)」─それとなくほのめかす、軽く誘導する、という意味の英語─は、そんなときにも人のふるまいを一定の方向に導くための手段につけられた名前だ。
 これを制度設計や政策構想の技法として役立てようとする企ては、つい最近はじまったばかりである。その皮切りとなったのは、法学者のキャス・サンスティーンと経済学者のリチャード・セイラーが二〇〇八年に著した『実践行動経済学』[Thaler and Sunstein 2008](原題はまさしく〝Nudge〟)だ。彼らはナッジを「どんな選択肢も閉ざさず、また人々の経済的インセンティブも大きく変えることなく、その行動を予測可能な方向に改める選択アーキテクチャの全様相」[Ibid., 6]と定義した。豊富な実例を示しながら、二人は、これを使えば人の生活上の選択の自由をほとんど狭めずにより賢明な方向に導ける、と説いたのだ。
 彼らの主張はこうである。行動経済学の知見によると、私たちの思考過程は反射的・習慣的な自動システム(「深く考えない自分」としてのシステム1)と反省的・理性的な熟慮システム(「よく考える自分」としてのシステム2)からなっており、日常の行動の大半は前者の産物である。そこにはいくつかの決まった傾向があって、その影響から私たちはしばしば同じような失敗をくり返してしまう。ナッジとはこの「深く考えない自分」の習性を利用するか、「よく考える自分」を目覚めさせる方法だ。適切な場面に適切なナッジを仕掛ければ、強制や金銭の力に頼ることも、理性的な説得に訴えることもなく、ありがちな失敗を防ぎ、合理的で望ましい行動をうながすことができるだろう。
 この着想はまもなく各国の政府に採用され、消費者保護、環境、健康、労働、金融・保険、治安・安全等々にかかわる法制度、公共政策のなかに組み込まれていった。
 米国ではオバマ政権がサンスティーン本人を迎え入れて「社会・行動科学チーム(SBST)」を結成し、この知見を健康や環境等のさまざまな政策に組み込んだ。英国では「行動インサイト・チーム(BIT)」が、フランスでは「ナッジ・フランス」が政府の肝煎りで組織された。デンマークのシンクタンク「アイナッジユー(iNudgeyou)」は、各国政府や企業などの民間組織にさまざまな課題へのナッジ的処方を提供し、またセミナーを開いてその技法を伝授している。日本では二〇一七年、環境省を軸に「日本版ナッジ・ユニット(BEST)連絡会議」が設置され、実施を見据えた検討が開始されたし、二〇一八年秋には、経済産業省もナッジによる「国民1人1人の『賢い選択(スマート・チヨイス)』」の支援を掲げる「二〇五〇経済社会構造部会」を設けている。
 
2 わきあがる不安と不信
 
 しかしその独創的で奇抜な着想ゆえに、ナッジは多くの実務家、研究者を魅了するいっぽうで、数々の懸念や批判をも招いてきた。
 矛先の一つはその有効性にむけられている。強制や経済的な動機づけ、理性的な合意に訴えずに、人の反射や習慣を利用するだけで多数の人びとの行動を改めるなどということがほんとうにできるのか。ナッジの効果はごく一時的だという報告もある。真に実現すべき目的ならもっと確実な方法をとるべきだし、そうでないなら余計なお節介は控えるのが自由社会の原則ではないのか。また、人の行動を「改善」するといっても、どんな尺度でそれをはかるのか。人びとのどんな行動に(自力では改善できない)非合理性、過誤、失敗を認めて、どんな方向に誘導を試みるのか。ナッジが前提にする合理性の基準とはなんだろう。それはだれが、どのようにして、何を根拠に選びとるのか。
 基準への疑いは、ナッジ的干渉の道徳性への疑いも呼びさます。それは結局のところ、人を機械仕掛けの人形とみなして陰から操ることになってしまわないか。そのようなやり口は、どんなに望ましい目的のためでも、許されないのではないだろうか。そもそも、ナッジが適切な目的のために役立てられる保証はどこにもない。もし当人に自覚されず、したがって批判も抵抗も被らずに他人を操れるというのなら、これを悪用して他人の上前をはね、私腹を肥やす者が現れても不思議ではないだろう。ナッジの設計者は、ほんとうに人びとのためになるナッジを考案してくれるのだろうか(それはむなしい期待なのだろうか)。
 たしかに、一見もっともな理由から採用されたナッジでも、見方によっては不安や反発を招きそうなものは少なくない。
 喫煙が本人や周囲の人に及ぼす害が力説されるようになって久しいが、これを全面的に禁止し、犯罪化しようという動きはまだあまり進んでいない。そのぶん、官民を問わず驚くほど多彩な規制策が試みられていることには、多くの人が気づいているだろう。職場や飲食店、宿泊施設、交通機関や繁華街などでは、たんに禁煙ルールが条例等で定められるだけでなく、販売機が減らされ、喫煙所が不便な場所に追いやられ、灰皿が撤去され、ブレスケアの励行が求められている。年齢や場所を制限するだけでなく、喫煙を控えさせるための手法にもあらゆる技巧が凝らされるようになっているのだ。
 これらおなじみの禁煙ナッジにくらべ、日本ではまだあまり進んでいないのがタバコのパッケージ上の警告だ。かつての控えめな「健康のため吸いすぎには気をつけましょう」の表記に比べると、たしかに表現もサイズも強調されるようになったものの、警告はまだ文字によるものにとどまっている。海外では真っ黒な肺や巨大な腫瘍、ぼろぼろの歯茎のカラー写真がパッケージ全体を覆うように示されていることもめずらしくないが、日本では検討の結果、あまりに不快で恐ろしい、という理由でこの種のグロテスクな画像の使用は見送られたという。強制しなければ押しつけがましさもなくなる、というわけではない。これは「やりすぎナッジ」の一例といえるかもしれない[朝日新聞2019]。
 
3 この本のもくろみ
 
 とはいえ、やみくもに不信や不安を煽ることがこの本のねらいではない。
 むしろいま必要なのは、ナッジという道具の欠点を十分にわかったうえで、その実害を防ぎ、メリットを活かす道を探ることだろう。盲目的な楽観に浮かれるのも愚かだが、危うさに怯えるあまり安易に角を矯めて牛を殺すようであってはならない。
 理由は二つある。まず、ナッジという技法はすでに─その名が与えられるずっと前から─広く活用されており、今後しばらくはその普及と巧妙化が進むと予想されるからだ。おそらく、これまでもこれからも、ナッジのない世界はありえない。私たちに選べるのは、たちの悪いナッジがまかり通る世界か、比較的ましなナッジが生き残るように工夫された世界かのどちらかだ。すぐれた技術は道徳的な心構えだけで抑え込むことはできない。勘所をとらえて飼いならす必要がある。
 第二に、それが現代福祉国家の苦境に応えるものであるからだ。慢性的な財政難と社会的分断に苦しめられる現代国家は、それでもなお膨大な「社会問題」への対応を迫られ続けている。ナッジという安価で強権性のうすい政策手法は、より「スマートな」統治技術を模索する多くの政府にとって、格好の切り札に映るにちがいない。サンスティーンは、ナッジを彼のリバタリアン・パターナリズムを推し進めるための手段として構想してきたが、これが新自由主義からの福祉国家批判を念頭においていることは明らかだろう。そのかぎりでは、ナッジの可能性とその限界を見定めることは、福祉国家の未来を占うことにもつながるはずである。
 このような観点から、本書はナッジという技法とその背後にあるリバタリアン・パターナリズムの思想の意義と問題点を、批判的に、しかし悲観的になりすぎないように検討してみたいと考えている。そのために以下では、ナッジとリバタリアン・パターナリズムの思想史的な来歴と今日の理論的達成、そして将来への実践的展望という三つの柱を軸に考察を進めることにしよう。
 新しい旗印と用語を掲げて展開される思想は、しばしば、まるで過去の思想的文脈とは無縁の孤立した企てのように見えてしまうことがある。しかしどんな先端的な思想も、どこかでかならず従来からの理念や問題関心、概念を共有し、批判的に再利用しているはずだ。私たちはまず、サンスティーンのはじめた企てが、旧来の法思想や政治思想とどこでつながり、どこで真に新しい一歩を踏み出していたのかを見極めておく必要があるだろう。
 他方、ナッジをめぐる今日の議論は、すでにサンスティーン一人の関心や思惑をはるかに越えた広がりを示している。それはもはや、彼の視点を一部に含んだ、巨大な議論プラットフォームだ。そこでは、従来の法思想や政治思想だけでなく新旧の社会科学や哲学にかかわる多様な論争が繰り広げられており、その交錯のなかからは、これまで試みられてこなかった新たな理論的冒険の余地が大きく切り開かれつつあるのである。
 そして何よりも、ナッジの理論はたんなる机上の議論にとどまることをよしとしない、実践への強い関心を原動力としてきた。それは、これからの私たちの経済、政治、社会的な生活をどんなふうに塗り替え、広げていくのだろうか。またそれは、どんな価値理念、規範構想に導かれるときに、その本領を発揮するのだろうか。すでに実際に世界各国で膨大な実験が重ねられてきたことは前述のとおりだが、今後、私たちの構想力が最も試されることになるのはこの領域かもしれない。
 これまでナッジ論、リバタリアン・パターナリズム論は、国家の統治や企業のマーケティングといった文脈で語られ、批判されることが多かった。しかしその真価をとらえるには、そのような枠組みに縛られることなく、いっそう広い視野からこれを検討する必要があるだろう。だからこそ、政府や企業のなかで不特定多数の人びとを一方的に「ナッジする」ことをなりわいとする人だけでなく、「ナッジされる」側の人、顔の見えるもっと狭い範囲の人間関係─家族や地域、学校や職場など─のなかでたがいに「ナッジしあう」必要に迫られている人たちにも、本書を手にとっていただきたいと考えている。
 この本がナッジの世界へのささやかなナッジになりますように!
(文献は省略しました。pdfファイルでご覧ください)
 
 
[おわりに] ナッジ論の初心とこれから
 
那須耕介・橋本 努
 
 二〇〇八年六月九日、「リバタリアン・パターナリズム」と題するセミナーが京都大学で開かれた。そうそうたる討論者たちの控えるなか、基調講演の壇上に立ったのはキャス・サンスティーン先生である。彼はこの日終始にこやかに、かつ手際よく、いまではおなじみとなったリバタリアン・パターナリズムの着想と可能性について持論を披露してくれたのだが、講演中、その顔がいっそうほころんだ瞬間があった。それは、まだ上梓されて間もない新著─いうまでもなく、[Thaler & Sunstein 2008]のことだ─に話が及んだときである。
 彼がそのとき切り出したのは、例のスキポール空港(オランダ)のトイレの話である。サンスティーン先生は、少し照れくさそうに、しかしとても愉快そうに、男性小便器に貼られたハエのステッカーが、どんなふうにトイレ清掃の手間を軽減してくれたのかについて、私たちに話してくれたのだった。
 いま本書を締めくくるにあたって思い出されるのは、あのときのサンスティーン先生のうきうきとした表情である。すぐれたナッジには、どこか人を浮き立たせるところがある。いいナッジを見つけた人、思いついた人は、どうしてあんなにうれしそうな顔をするのだろうか。
 もちろんそこに狡猾な支配欲のあらわれをみる人もいるだろう。本書収録の論考が各所で警告するとおり、ナッジには干渉者の思惑どおりに他人を籠絡し、弱みにつけ込んで判断や行動を操ろうとする、あやうい側面がある。その意味ではたしかに、ナッジには最初から周到な管理社会を支える仕掛けとしての側面が刻み込まれていたことは否定できない。
 しかしまた、この手品師めいた快感だけをナッジの魅力とみなすのは不公平にすぎるだろう。時にそれは、個人が自分自身をうまく律するための知恵、集団がみずからのふるまいを制御するための技術でもあったはずだ。ナッジの暗黒面に心を奪われる人は、ナッジする人とされる人とがはっきりと切り離され、入れ替え不可能なかたちで固定されてしまった社会のことしか考えていないのではないだろうか。
 そこでここではあえて、ナッジ論の初心に潜んでいたはずの(そしていつの間にか見失われそうになっている)もともとの動機に目をむけてみたい。これからのナッジ論を遠望するには、その正邪の予断を控えてその魅力の源に立ち返る必要がある。私たちはいったい何に惹かれて、ナッジの世界に足を踏み入れたのだろうか。
 するとそこには、いくつかの快い驚きと洞察がともなっていたことに気づかされる。
 いいナッジの発見にはいつも、「なんだ、そんなことでいいのか!」という拍子抜けにも似た感嘆がともなう。うまくしつらえられたナッジは、ほんのわずかな働きかけによってめざましい成果を収める。努力のうちに入らないようなささやかな工夫でも、うまくはまれば巨大な権力や財力、理にかなった説得にも動かせなかったものを動かしてしまう。その落差の大きさに、私たちは虚を突かれたような驚きを感じるのだ。
 また、このナッジの力がしばしば人の欠点を積極的に活かすことで発揮されることに意外な思いをする人もいるだろう。たとえば、大学入試などの際、受験生に小さな会場を提供することは、試験への集中力を高めさせるナッジとなる。小さな会場の受験生には、自分の競争相手が少数であるかのような勘違いが生じて、過度の緊張を強いられずにすむからだ。こんなふうに、いいナッジを求める人にとって、ナッジされる人の偏見や錯覚、怠惰さは、成果を上げるための資源、働きかけのための梃子の支点にほかならない。微弱な働きかけが相手の協力を誘い出すだけでなく、働きかけられる側の弱さ、愚かさが働きかける側の計略のだいじな構成要素に組み入れられる。ここでは人間の合理性の限界は否定されるべき阻害要因ではなく、歓迎すべきナッジの力の源なのである。
 さらに、ナッジの可能性に触れた人は、人や社会を動かす力の所在についての思い込みを改めざるをえない。たくさんの人びとのふるまいを変えるために、政府や大企業、マスメディア、ネット上で名の知られたインフルエンサーたちに頼る必要はない。財力や権力によらない働きかけの方法としてのナッジは、社会変革の担い手のなかに、これまで無力とされてきた一般の人びとを加えるだろう。「ブラジルの蝶の羽ばたきがテキサスで竜巻を引き起こす」というカオス理論の比喩に倣うなら、ナッジ論のなかでは私たちは皆、小さな羽ばたきで広い社会に影響を与える「ソーシャル・バタフライ」でありうるのだ[Sanders & Hume 2019]。
 たぶん私たちは、いいナッジの探求と発見を通じて、自他の行動や習慣を変えてその問題解決をはかるための「力」についての固定観念を覆されてきたのだ。それは時に、社会変革の原動力についての価値転倒であり、あるがままの自分たちにもその可能性が開かれているという力能付与(エンパワメント)の自覚でありうる。嬉々として男子小便器のステッカーの話をするサンスティーン先生の口調には、
「私たちにはまだまだできることがあったんじゃないかな!?」という発見とその共有のよろこび─そして大きな困難の克服にはかならず大きな艱難辛苦がともなうはず、という硬直した精神にむけた愛嬌ある批判─が込められていたように思えるのである。
 ここから、これからのナッジ論がとりくまざるをえないいくつかの問いがみえてくる。
 まず、ナッジという手法の特性をどうとらえ、どう活かしていくのか、という問題がある。それが強制や経済的誘因、説得と合意とは異なる仕方で、しかも当人の選択の余地を広く残すかたちで人の行動や習慣を変えるというとき、私たちはこれをナッジする者による誘導や操作としてとらえるのがいいのか、ナッジされる者への援助や力能付与ととらえるのがいいのか、あるいは両者の一種の共同作業ととらえるべきなのか。一方的な働きかけとも純粋な自発性とも異なる、そのあわいでの行動の変化を導く方法としてナッジをとらえるなら、それは私たちの社会のどんな側面に光をあてることになるのだろう[那須 2019a]。私たちを取り囲むナッジの網の目は、万人がひそかにたがいを道具として利用しあうエゴイストの楽園なのだろうか。それとも否応なく影響を及ぼしあう者たちの相互扶助の実験場なのだろうか。
 他方、ナッジが人に対する働きかけの道具である以上、私たちはその目的を問わないわけにいかない。「いい」ナッジを求める人は、ナッジする者、される者、あるいはそれを含めたより広い社会にとって望ましい状態、目指すべき方向にむけて人の行動を導こうとしているのだから、そこにはつねに広い意味での卓越主義的な関心がともなうはずだ。純粋なセルフ・コミットメント(自分ただ一人のための「選択アーキテクチャ」の設計)に自足するのでないかぎり、ナッジの構想は、自己決定権や合意形成といった、いわゆるリベラルな社会の枠組みを踏み越えざるをえない。
 たとえば先の「ハエのステッカー」の例は、空港のトイレを利用する男性たちの広範な合意を得てから導入するというのでは不可能だろう。ナッジは合意形成が難しい場合に、当局の判断で上から導入されることがある。あるいは別の例として、労働者の年金の積み立てを企業側がデフォルトで天引きする(あわせてオプトアウトも設ける)というナッジは、雇われる労働者たちがその都度自己決定する負担を減らして、好ましい積み立てを導こうとするものである。これは、人びとの主体的な判断を支援するよりも、あまり自律的に考えなくても人生がうまくいく(最悪の状態を回避する)ように配慮するものだろう。ナッジはこのように、合意形成や自己決定の負担を減らして、個人と社会の関係がうまくいく可能性を模索している。
 しかし「もっとうまくいく」という場合の社会の理想とは、どんなものなのか。あらためて問わなければならない。ナッジは、人びとを倫理的に「包摂」してあげるからいいのか、人びとの活動を「活性化」するからいいのか、あるいは人びとをより「健康」にするからいいのか、等々。ナッジのねらいは何か。その目的は、導入の前であれ後であれ、さまざまな機会を作って私たちが議論していかなければならない性質のものだろう。
 そして最後に、ナッジという手法に訴えるときに私たちが支払わされる代償のことも忘れるわけにはいかない。ナッジが強制と経済的誘因、説得と合意といった従来の働きかけの手法とは異なる「スマートな」手法であることは、さまざまな懸念と表裏の関係にある。干渉者が負うべき道徳的正当化の負担を軽くしてくれることは、ナッジの美徳であると同時に悪徳でもあるだろう。だまし討ち的な操作やパターナリスティックな管理社会化への懸念はもとより、説明責任の無用化や理にかなった合意形成の回避など、ナッジにはどうしてもその道徳的素性に対する嫌疑がつきまとう。私たちの社会が今後もっと行動科学的に啓蒙される必要があるとして、そこに適切な限界はあるのだろうか。いいナッジの探究もほどほどにして引き返すべき限界点を、私たちはうまく見出せるのだろうか。
 二〇〇八年の日本での講演の後、寄せられた批判に応えた短いコメントのなかで、サンスティーン先生は、彼の膨大な研究の中軸に「人間のまちがいやすさ(human fallibility)」への関心がおかれてきたことを率直に述べている[Sunstein 2008]。いうまでもなく、ナッジ論はその代表というべきだろう。本来、人間の弱さと愚かさは、克服することも無視することもできない不治の病のようなものだ。それならばむしろ、人間が個体単独では自足しえない不完全な生き物だという認識を出発点とし、それを(災厄ではなく)一種の恵みとしてとらえなおしてみてはどうか。そこから私たちは、どんな社会像を描けるだろうか。サンスティーン先生のいたずらっぽい笑顔のむこうにあった─それよりはもう少し真剣な─問いを、私たちはいま、そんなふうに受け止めることができるかもしれない。
 本書はこれらの問いに十分に答えるものではないが、少なくとも問われるべき問いにいくつかのかたちを与えることはできたのではないかと思う。学問の世界でナッジが論じられてまだ二十年にも満たないが、ナッジ的な実践そのものは人類史全体に及ぶ広がりをもつ。本書を一つの踏石として、多くの人がその魅力と意義に瞠目しながら、しかしそのあやうさに警戒を怠ることなく、ナッジ論の地平を開拓していかれることを期待したい。

 本書の企画は、二〇一七年の秋に編者の一人(那須)が得た着想をもとに、これをもう一人の編者(橋本)が批判的産婆役として育てるかたちではじめられた。当初は一年程度の短期間に仕上げる予定であったが、ついにここまでの時間を要してしまった。すべては編者の力不足ゆえである。構想時の要望をはるかに超える水準の論考を寄せてくださった執筆者諸兄に対しては、この場を借りて深くお詫びと御礼を申し述べさせていただきたい。
 また本書企画を進めるにあたり、執筆者の多くにはウェブ上での公開インタビューにも応えていただいた[那須 2019b]。本書の企画編集とあわせてこれらすべての作業を支えてくださったのは、勁草書房の鈴木クニエ氏である。茫漠とした思いつきがこうしてかたちをとるところまで伴走してくださったその驚異的な献身と辛抱強さに、あらためて感謝する次第である。
(文献は省略しました)
 


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