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大橋英夫 著
『チャイナ・ショックの経済学 米中貿易戦争の検証』
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序 章 米中経済関係の構図
第1 節 「米中貿易戦争」[1]の背景
戦後の米中経済関係は冷戦体制のもとで再始動したために,中国が改革開放に転じた後も,米国は輸出規制を慎重に緩和しつつ,その人権状況を厳格に監視しながら経済関係の拡大に努めた[2](表序─1)。中国が輸出主導型成長の軌道に乗り,巨大市場の出現が見込めるようになると,米中経済関係はイデオロギー的な呪縛から脱し,「通常貿易関係」へと姿を変えた。中国の世界貿易機関(WTO)への加盟は,中国の対外開放にとってのみならず,戦後米中経済関係にとってもひとつの区切りをなす出来事となった[3]。
中国が対米輸出を梃子として急速な経済成長の道を歩み始めると,貿易不均衡の拡大,市場アクセスの改善,知的財産権の保護,過小評価された人民元など,貿易摩擦の緩和が米中関係全般における主要な争点となった。米国は中国との戦略対話(SED/S&ED)を重ねつつ,米国の価値観が強く反映された国際社会に中国を受け入れて,中長期的に中国の政治経済体制の変化を促そうとする関与政策を追求した。しかし中国が経済大国として台頭し,改革開放の「総設計師」・鄧小平氏の遺訓である「韜光養晦」(才能を隠して,内に力を蓄える)の対外姿勢に修正を加え,自らの「核心的利益」を主張し,「中国の特色ある大国外交」を展開するようになると,米国は大国化した中国を国際秩序の形成や安全保障上の「競争相手」と認識し始め,米中関係はグローバルな覇権を争う大国間関係へと変容した。
中国は2010 年には名目GDP で日本を抜いて,米国に次ぐ世界第2 位の経済大国となった。そして2030 年前後には,米国を上回って世界最大の経済大国になることが見込まれている。オバマ政権期の米国は,環太平洋パートナーシップ協定(TPP)を構築することにより,中国の「国家資本主義」の異質性を明確化すると同時に,二国間投資協定(BIT)の交渉を通して,中国経済の市場化推進を求めた。しかし中国はTPP やBIT に呼応した市場化に踏み切ることなく,自由貿易試験区の設置といった部分的改革に終始し,権威主義的志向の強い習近平体制の確立へと舵を切った。
「米国第一」を唱え,グローバリズムや多角主義に批判的なトランプ政権が誕生すると,それまでの対中関与政策は否定され,米中経済関係は新たな段階を迎えた。ブッシュ(子)政権末期からオバマ政権の時期になると,世界の成長センター=中国を重視して,経済摩擦の焦点であった貿易不均衡や人民元の過小評価をめぐる議論は,米中経済関係の構造的な変化もあり,もはや直接的な争点にはならなくなった。トランプ政権下では,2018 年3 月発表の1974 年通商法301 条調査報告が示しているように,中国による米国の技術・知的財産の移転・取得のあり方が主要な争点となった。その背景には,米国とは異質な中国の「国家資本主義」,また戦後米国が構築してきたリベラルな国際規範・秩序と一線を画すかのような習近平政権の対外姿勢,さらにトランプ政権下において急激に悪化した米国の対中認識の変化がある。
政権成立前から対中強硬路線を主張してきたトランプ政権は,米中経済関係を「技術覇権」をめぐる安全保障を包摂した競争として捉え,制裁措置を発動して中国との対決に臨んだ。その結果,米中関係は,台頭する新興国と既存の覇権国との衝突=「トゥキュディデスの罠」(Allison [2017])が指摘されるほど,世界でもっとも重要でありながら,きわめて不安定な二国間関係を形成するにいたった。
第2 節 課題と構成
米中経済関係は,相互依存を続けながらも,時として深刻な摩擦を引き起こし,世界経済に多大な影響を及ぼしてきた。2018 年に入ると,トランプ政権は中国による米国技術・知的財産の移転・窃取を理由として一連の対中制裁措置を発動した。これに対して,中国も報復措置を繰り返し発動した。この通商分野における米中両国の相互応酬を,本書では「貿易戦争」と呼ぶこととする。「貿易戦争」は米中両国のみならず,世界経済にも緊張と混迷をもたらした。そして米中両国は通商協議を繰り返すことにより,ようやく2020 年1 月に第一段階合意に達した。
本書では,トランプ政権の成立前後における米中経済関係の構造的変化を把握した後,相互制裁・報復の発動にいたった「貿易戦争」の主要な論点を検証し,今後の米中経済関係を展望するにあたっての含意を導出してみたい。
第1 章では,激しい中国批判を通して大統領の座を射止めたトランプ政権の成立にいたる過程に着目している。米新大統領が就任とともに大統領選で強調した中国批判を封印する従来のパターンとは異なり,トランプ大統領は大統領就任後も中国批判を続けた。ただし,それが実行に移されたのは,内外の課題が一段落してからであった。内政的には,最大の選挙公約であった税制改革の実現後,外交的には,米朝首脳会談後であった。トランプ政権成立直後は,核・ミサイル開発で挑発を繰り返す北朝鮮への対応もあり,中国との協力関係を模索した形跡がみられた。しかし北朝鮮との直接ルートの開設に伴い,トランプ政権は大統領選の時期を彷彿させるような対中強硬路線に基づく対中通商政策を展開し始めた。
第2 章では,中国からの輸入の増加と米国の労働市場の関係を,製造業就業者の雇用に焦点を当てた米国の先駆的な研究を通して考察している。米国における製造業就業者数の減少は,まず技術革新,次いで中国からの輸入急増に起因する。通常は貿易の利益のもとで部門間移動を伴いながら雇用調整がなされるはずであるが,中国製品の流入は大規模かつ急激であり,また製造業就業者の多くが技術革新に適合できないこともあり,中国製品と競合する一部産業の労働者・地域において失業が顕在化した。多くの先行研究では,貿易拡大が格差拡大をもたらすという深刻な問題提起がなされている。ここでは,2016 年の大統領選の焦点となったラストベルトのオハイオ州の事例を参照しながら考察がなされている。
第3 章では,1990 年代から米中経済関係の大きな争点とされてきた貿易不均衡を検証している。日米貿易摩擦の沈静後,米国では拡大を続ける対中貿易赤字が通商分野における最大の争点となった。しかし中国側からみると,中国の対米黒字は,米国の通関統計が示すほど大きくない。中国を原産地とする香港経由の対米輸出が,貿易統計の不整合の主な原因となった。その後,グローバル・バリュー・チェーン(GVC)が米中間に確立されるに伴い,米中貿易収支は東アジアの生産ネットワークの最終工程を担う中国と,その最終市場である米国とのバランスを示す指標となり,米中貿易不均衡はいわば構造化した。「貿易戦争」の最中に中国が発表した米国の主張に対する反論は,以上の経緯を的確に指摘している。
第4 章では,21 世紀に入り,「走出去」(対外進出)政策とともに本格化した中国の対米投資に焦点を当てている。当初は経済成長に不可欠な天然資源の確保を目的とする投資が多かった。しかし中国経済がイノベーション主導型の成長を志向し始めると,技術・知的財産,商標・ブランドといった戦略的資源の確保が対外投資の主要な目的となり,中国の対外投資先としてイノベーションに優位性をもつ米国に注目が集まるようになった。しかし「貿易戦争」に先立ち,中国の対米投資は安全保障,国有企業,政府補助金,裏口上場,透明性やディスクロージャーを求める米国の市場秩序などをめぐって軋轢を繰り返した。中国企業に対する対米投資規制強化の動きは,「貿易戦争」以前から始まっていたのである。
第5 章では,通商法301 条調査の焦点となった中国による米国技術・知的財産の移転・窃取の実態に迫っている。改革開放後続いた高成長の終焉を迎え,中国経済は高貯蓄・高投資に支えられた「粗放的発展」から,「技術進歩」に基づく「集約的発展」への転換を進めてきた。その初歩的な成果は,すでに研究開発(R&D)や特許出願にみられる。その鍵を握る技術・知的財産の取得のために,中国はあらゆる手段を行使してきた。サイバー利用の窃盗まがいの行為をはじめ,中国の技術移転促進策の根拠法も,技術と市場の交換,強制的ともいえる技術移転や技術情報の開示を通して,外資企業からの技術・知的財産の取得を進めてきた。「貿易戦争」は「技術覇権」をめぐる米中関係の前哨戦となった。
第6 章では,「貿易戦争」の展開過程の確認作業がなされている。中国からの輸入品の急増に対して,トランプ政権は歴代政権とは異なり,アンチダンピング・相殺関税に加えて,セーフガード措置,国家安全保障の理由による輸入規制,さらに通商法301 条調査を発動して対応した。これに対して中国も報復措置をとり,米中貿易摩擦は全面的な「貿易戦争」に進展した。ここでは301条調査に基づく追加関税をめぐる米中通商協議の経過に加えて,中国の米国技術・知的財産の移転・窃取の対応策である輸出管理と投資規制,中国企業のエンティティ・リストへの掲載,さらに中国人留学生の管理などの動きを整理し,米国の対中強硬策と米中通商協議の部分合意との関係を検証する。
第3 節 米中経済関係とパンデミック
2020 年1 月の米中通商協議の第一段階合意が署名されるや否や,米中両国のみならず,世界各国・地域は新型コロナウィルス感染症(COVID─19)のパンデミックに見舞われた。その甚大な影響を受けて,各国・地域の経済は麻痺状態に陥り,経済成長がどれほど落ち込むのか,また経済危機はいつまで続くのか,いまだ予想がつかないほど,世界経済は重大な岐路に立たされた。米中関係では,通商協議の第一段階合意の成果が問われる前に,パンデミックへの対応が新たな対立軸となった。中国の新型コロナウィルスに対する初動のあり方や独善的な「マスク外交」,さらに威圧的かつ挑発的な「戦狼外交」の展開に加えて,すでに顕在化していた香港の民主化,中国少数民族の人権,南シナ海や係争地域をめぐる周辺諸国・地域との関係など,米中間に横たわる広範な争点が,パンデミックを契機に一気に火を噴き出した感がある。
新型コロナウィルス感染症による世界的なパンデミックは,たしかにわれわれの生活様式や働き方に劇的な変化をもたらした。しかし,それが今日の国際関係・世界経済にパラダイム転換を迫るような衝撃であるとはいい難い。現代国際関係・世界経済の基本的な趨勢は,次のように特徴づけられるからである。 第1 に,戦後の国際秩序を構築した米国は,多国間レジームにおけるリーダーシップを放棄することにより,国際場裏でのプレゼンスを段階的に後退させている。そして時には,自らが構築した国際秩序とは相容れないような単独行動主義的な動きを強めている。
第2 に,米国がグローバルなプレゼンスを後退させるに伴い,台頭著しい中国の影響力が相対的に強まっている。それは経済分野にとどまらず,中国の主張する「人類運命共同体」の構築に繋がる動きとして,「全球治理」,すなわちグローバル・ガバナンス全般に及びつつある。
第3 に,2 つの超大国・米中両国の不協和は増長を続けており,「トゥキュディデスの罠」の回避が主要な争点となるほどに米中対立の構図が鮮明となっている。
21 世紀の最初の20 年間を振り返っただけでも,国際関係・世界経済は何度かの危機・衝撃を経験してきた。たとえば,リーマンショック,「米中貿易戦争」,そしてパンデミックと続く世界的な危機・衝撃は,いずれも上述したような現代国際関係・世界経済の基本的な潮流を加速させる契機となった。またトランプ政権の誕生,大統領選に伴う政権交代や大幅な政策変更は,これをさらに増幅させる要因となっている。「米中貿易戦争」の検証は,パンデミック後の米中関係のみならず,現代国際関係・世界経済の基本的な趨勢を見極めるためにも欠かせない作業なのである。(表は省略しました。pdfでご覧ください)
[1]「貿易戦争」(trade war)とは,保護主義に起因する経済紛争を意味し,単なるモノの取引にとどまらず,サービス取引から資本取引までを含むより広範な概念である。本書では,米国の通商法301 条調査に基づく対中制裁措置,これに対する中国の対米報復措置の相互応酬を「貿易戦争」の主たる分析対象とする。
[2]米国の1974 年通商法(ジャクソン=バニック条項)では,米国が非市場経済国に対して最恵国待遇(MFN)を供与するには,毎年「移民の自由」や人権状況を評価することが義務づけられていた。1989 年の天安門事件後,米国では対中MFN の更新と中国の人権状況,大量破壊兵器の拡散,市場アクセスの改善などが関連づけられ,毎年激論が繰り返された。そのため米国が恒常的な「通常貿易関係」(PNTR:permanent normal trade relations)を認めることが,中国のWTO 加盟の事実上の前提条件となった。
[3]WTO 加盟前後の米中経済関係については,大橋[1998],[2007],中国のWTO 加盟については,大橋[2001],中逵[2011]などを参照。
あとがき
米通商代表部(USTR)の中国担当通商代表補として対中交渉にあたったT. ストラトフォード氏は,2018 年の夏季ダボス会議(天津)で「米中貿易戦争」を次のように譬えている。
「米中貿易戦争はワールドカップのチャンピオンとスーパーボウルの勝者の戦いのようなものである。同じフィールドで同じ『フットボール』をしているのに,一方はプロテクターで保護されており,両者のルールも戦略も異なる」。
トランプ政権成立後,米中経済関係はこのような貿易摩擦の域を越えて「貿易戦争」に突入した。米国の批判は中国の国家資本主義・市場歪曲的政策・慣行にとどまらず,「覇権国」と「挑戦国」の対立,米中両国の地政学的利益やイデオロギー的価値観が衝突する次元に差し掛かっている。
本書は,中国の世界貿易機関(WTO)加盟にいたる期間を対象とした『米中経済摩擦』(勁草書房,1998 年)の続編である。米中経済関係に関しては,当時から自問し続けている点がいくつかある。
第1 に,米中関係から経済関係だけを取り出して考察することの意味である。安全保障がまず強調される米中関係において,当初は「経済の論理」の追求を目指していた。しかし,いまや経済と安全保障が複雑に交錯しており,本書では米中経済関係をもう少し包括的に取り上げてみた。
第2 に,そもそも貿易摩擦は経済学の分析対象なのかという本質的な疑問である。これは分析アプローチ次第であるといえなくもないが,いまだ明確な回答を見出していない。
第3 に,主に米国の資料に依拠した分析の有効性についてである。直截的な中国情報に容易に接することができない以上,米国の資料の利用はいまだやむを得ない選択である。中国内で発表されている関連研究の多くも,基本的には米国の資料・データに依拠しているのが現実である。
『米中経済摩擦』のための基礎調査を始めてから,早くも四半世紀が経過した。ちょうどWindows 95 が発売されて,インターネットが急速に普及し始めた時期であった。しかしウェブ上にアップされた情報の収集には明らかな限界があった。当時滞在していたジョージ・ワシントン大学は,日本でいえば霞が関に位置するような大学なので,資料やデータを求めて,隣接するIMF・世界銀行,さらには数ブロック先にあるUSTR のリーディング・ルームに通った。まず電話でアポをとって利用日が決まる。次にUSTR のあの大きな扉を開けてリーディング・ルームに向かうが,ファイル・キャビネットと事務机が並んでいるだけのオフィスなので,利用したい資料をかなり特定化し,申請後は資料が出て来るのをひたすら待つことになる。静寂な図書館の雰囲気とは異なり,何かと落ち着かないオフィスなので,利用したい資料は一刻も早くコピーして退出したい。しかしこれも申請が必要であり,資料を手渡してから,また仕上がりをひたすら待つことになる。しかも1 枚のコピーでも,支払いはチェック支払いに限られていた。短期の出張ベースの調査では,事前の下調べを十分にしておかないと,思い通りの資料収集はほぼ不可能であっただろう。
当時と比べると,隔世の感がある今日の情報収集である。とはいえ,誰もがインターネットで容易に情報源にアクセスできるとなると,今度はどの素材を使ってどのように調理するのか,料理人の腕が試されることになる。現状分析者としては,分析対象が時々刻々と変化するなか,時間をかけて,火加減やソースを工夫する余裕はほとんどない。したがって本書も,一定の時間内に課題をまとめたプロジェクト型のアウトプットである。
本書は2018~19 年の在外研究の成果でもある。私事で恐縮であるが,2016年春に少し大きな手術を経験した。暖地でのリハビリを兼ねて,ワシントンDC と北京の中間に位置するハワイで両国関係を観察することにした。アジア研究者にとってハワイといえば,かつてはアジア太平洋地域の経済発展・経済協力の基礎研究を担うセンターのひとつであった。近年では経済研究はやや細分化されすぎたかの感があるが,米太平洋艦隊司令部のあるハワイは,米中関係が緊迫の度合いを増すなか,安全保障研究ではいまなお最前線に位置する。そのような研究環境が,本書にも若干影響を及ぼしているかもしれない。
本書の出版に際しては,まず在外研究をご支援いただいた専修大学とイーストウエスト・センター(EWC)に感謝したい。ホノルルでは研究から生活面までお世話になったハワイ大学のE. ハーウィット教授・博子夫妻,またラストベルトの実情をご教示いただいたEWC の同僚でオハイオ州ジョン・キャロル大学のM. マックアンドリュー准教授に感謝したい。本書は著者にとって久々の単著である。この機会に先に旅立った友人達,とくに加藤弘之,清水美和,上村幸治の各氏に本書を捧げたい。また厳しい出版環境のなかで,再度出版を引き受けていただいた勁草書房の宮本詳三氏には重ねて御礼申し上げたい。
一緒にハワイに滞在した大橋(刀根)卓代とは,フィールドワークの面白さを共有することができた。また大橋貴良とは,本書のデザインで思いもかけずコラボが実現した。家族の日々の支援に感謝したい。
2020 年盛夏 コロナ禍の東京にて
大橋英夫