神の存在に関する議論は、古来多い。スピノザの『エチカ』の冒頭部分に、神の存在証明がある。
スピノザによれば、神は「絶対的に無限のもの、つまり無数の属性によって構成される実体であり、その各属性が永遠にして無限の本質をあらわすもの」として定義される(1def6)*1。実体として定義された神には、存在することが本質として帰属する。いかなる実体といえども、他のものから産出されることはない(1p6c)。存在が他のものに依存することは実体の本質に反する(1def3)。存在することは、実体の本質である*2。存在することが神の本質であるとすると、存在することは神の属性でもある。属性とは、知性が実体につき、その本質を構成するものとして理解するものだからである(1def4)。
スピノザによるこの神の存在証明は、デカルトによる神の存在証明──神の存在と神の本質とは切り離すことができない──を継承したものである*3。しかしこれでは、神は実体であるとする定義によって、神が自動的に存在することになっただけで、出発点と結論の間が近すぎるのではなかろうか。火星人を「火星に棲む知性を持った実体」と定義すれば、火星人が存在することになるわけではないであろう。
それとも、無数の属性によって構成されることの方が問題なのだろうか。備える属性が無数である以上、存在するという属性も含まれるということであろうか。しかし、存在することは、本当に実体の属性だろうか。たとえば英語で‘God exists’と述べたとき、そこにあらわれる‘exists’は、‘The sky is blue’の‘is blue’や‘God is omnipotent’と表現したときの‘is omnipotent’と同様に、神の属性を示しているのだろうか。そうではないと思われる*4。
青いことは空の属性であり、全能であることは、神と呼ばれる存在が本当に神であるために備えているべき属性である。しかし、存在すると述べることは属性を描写することではない。われわれの議論や思考の舞台に、その主体を登場させただけである。存在することが神の不可分一体の諸属性の1要素であると主張するのでは、やはり定義によって自動的に神の存在を結論づけようとしているだけである。
分かりにくいことを記号で表現すると分かりやすくなることがある。今風の記号論理で ‘A substance composed of infinite attributes exists’を表現すると、(∃x)I(x) となる。∃は存在記号(existential quantifier)である。「ある実体が無数の属性を有する」という命題を完全な形で表現しようとすると、存在記号が付加されなければならない。つまりこの命題は、「無数の属性を有する実体(=神)、それが存在する」という命題である。 (∃x)I(x) は──それがもし、定義にもとづくトートロジーでないとすれば──常に成り立つとは限らない。
神の存在は常に成り立つ当然の帰結ではない。デカルトは、神はもっとも完全なものであり、無数の属性を備えているがゆえに、神以外のものとは異なると考えたようである。存在しないものは、完全とは言えない、属性が無数であれば、そこには存在することも含まれるはずだということなのであろう。
しかし、神の無数の属性の中に、存在することが当然に含まれると考えるべき理由はない。せいぜい、神の存在を措定したとき、神は無数の属性によって構成されることになるというだけである。神が存在しないとしたら、神はもっとも完全とは言えず、無数の属性も備えていない。それだけである。
スピノザの(デカルトの)神の存在証明は成功していない。神が存在しないことが証明されたわけでもないが*5。神の存在は証明すべきものではなく、信ずるべきものなのであろう*6。「あなたが信じないならば、あなたが堅固となることはない」*7。信仰の対象を合理的に証明しようとすることは、信仰の権威を破壊する。スピノザの本当の狙いが何かを考える必要がある*8。
カントは『純粋理性批判』で、神の存在証明はあり得ないとしながら*9、『実践理性批判』では、神の存在が措定されるべきだと主張している*10。
つづきは、単行本『神と自然と憲法と』でごらんください。
憲法学の本道を外れ、気の向くまま杣道へ。そして周縁からこそ見える憲法学の領域という根本問題へ。新しい知的景色へ誘う挑発の書。
2021年11月15日発売
長谷部恭男 著 『神と自然と憲法と』
四六判上製・288頁 本体価格3000円(税込3300円)
ISBN:978-4-326-45126-5 →[書誌情報]
【内容紹介】 勁草書房編集部ウェブサイトでの連載エッセイ「憲法学の散歩道」20回分に書下ろし2篇を加えたもの。思考の根を深く広く伸ばすために、憲法学の思想的淵源を遡るだけでなく、その根本にある「神あるいは人民」は実在するのか、それとも説明の道具として措定されているだけなのかといった憲法学の領域に関わる本質的な問いへ誘う。
【目次】
第Ⅰ部 現実感覚から「どちらでもよいこと」へ
1 現実感覚
2 戦わない立憲主義
3 通信の秘密
4 ルソー『社会契約論』における伝統的諸要素について
5 宗教上の教義に関する紛争と占有の訴え
6 二重効果理論の末裔
7 自然法と呼ばれるものについて
8 「どちらでもよいこと」に関するトマジウスの闘争
第Ⅱ部 退去する神
9 神の存在の証明と措定
10 スピノザから逃れて――ライプニッツから何を学ぶか
11 スピノザと信仰――なぜ信教の自由を保障するのか
12 レオ・シュトラウスの歴史主義批判
13 アレクサンドル・コジェーヴ――承認を目指す闘争の終着点
14 シュトラウスの見たハイデガー
15 plenitudo potestatis について
16 消極的共有と私的所有の間
第Ⅲ部 多元的世界を生きる
17 『ペスト』について
18 若きジョン・メイナード・ケインズの闘争
19 ジェレミー・ベンサムの「高利」擁護論
20 共和国の諸法律により承認された基本原理
21 価値多元論の行方
22 『法の概念』が生まれるまで
あとがき
索引
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