憲法学の散歩道 連載・読み物

憲法学の散歩道
第15回 神の存在の証明と措定

12月 22日, 2020 長谷部恭男

 
 
 神の存在に関する議論は、古来多い。スピノザの『エチカ』の冒頭部分に、神の存在証明がある。
 
 スピノザによれば、神は「絶対的に無限のもの、つまり無数の属性によって構成される実体であり、その各属性が永遠にして無限の本質をあらわすもの」として定義される(1def6)*1。実体として定義された神には、存在することが本質として帰属する。いかなる実体といえども、他のものから産出されることはない(1p6c)。存在が他のものに依存することは実体の本質に反する(1def3)。存在することは、実体の本質である*2。存在することが神の本質であるとすると、存在することは神の属性でもある。属性とは、知性が実体につき、その本質を構成するものとして理解するものだからである(1def4)。
 
 スピノザによるこの神の存在証明は、デカルトによる神の存在証明──神の存在と神の本質とは切り離すことができない──を継承したものである*3。しかしこれでは、神は実体であるとする定義によって、神が自動的に存在することになっただけで、出発点と結論の間が近すぎるのではなかろうか。火星人を「火星に棲む知性を持った実体」と定義すれば、火星人が存在することになるわけではないであろう。
 
 それとも、無数の属性によって構成されることの方が問題なのだろうか。備える属性が無数である以上、存在するという属性も含まれるということであろうか。しかし、存在することは、本当に実体の属性だろうか。たとえば英語で‘God exists’と述べたとき、そこにあらわれる‘exists’は、‘The sky is blue’の‘is blue’や‘God is omnipotent’と表現したときの‘is omnipotent’と同様に、神の属性を示しているのだろうか。そうではないと思われる*4
 
 青いことは空の属性であり、全能であることは、神と呼ばれる存在が本当に神であるために備えているべき属性である。しかし、存在すると述べることは属性を描写することではない。われわれの議論や思考の舞台に、その主体を登場させただけである。存在することが神の不可分一体の諸属性の1要素であると主張するのでは、やはり定義によって自動的に神の存在を結論づけようとしているだけである。
 
 分かりにくいことを記号で表現すると分かりやすくなることがある。今風の記号論理で ‘A substance composed of infinite attributes exists’を表現すると、(∃x)I(x) となる。∃は存在記号(existential quantifier)である。「ある実体が無数の属性を有する」という命題を完全な形で表現しようとすると、存在記号が付加されなければならない。つまりこの命題は、「無数の属性を有する実体(=神)、それが存在する」という命題である。 (∃x)I(x) は──それがもし、定義にもとづくトートロジーでないとすれば──常に成り立つとは限らない。
 
 神の存在は常に成り立つ当然の帰結ではない。デカルトは、神はもっとも完全なものであり、無数の属性を備えているがゆえに、神以外のものとは異なると考えたようである。存在しないものは、完全とは言えない、属性が無数であれば、そこには存在することも含まれるはずだということなのであろう。
 
 しかし、神の無数の属性の中に、存在することが当然に含まれると考えるべき理由はない。せいぜい、神の存在を措定したとき、神は無数の属性によって構成されることになるというだけである。神が存在しないとしたら、神はもっとも完全とは言えず、無数の属性も備えていない。それだけである。
 
 スピノザの(デカルトの)神の存在証明は成功していない。神が存在しないことが証明されたわけでもないが*5。神の存在は証明すべきものではなく、信ずるべきものなのであろう*6。「あなたが信じないならば、あなたが堅固となることはない」*7。信仰の対象を合理的に証明しようとすることは、信仰の権威を破壊する。スピノザの本当の狙いが何かを考える必要がある*8
 

 
 カントは『純粋理性批判』で、神の存在証明はあり得ないとしながら*9、『実践理性批判』では、神の存在が措定されるべきだと主張している*10
 
 カントによれば、自由で理性的な存在である人間は、自身で普遍的な道徳法則となり得る道徳格率を設定すべきであり、そうすることに関していかなる自己利益も関与すべきではない。道徳格率の設定にあたって自己利益が関与することは、その道徳格率を腐敗させる。
 
 他方、カントは最高善(summum bonum)も実現されるべきだとする。最高善には幸福も含まれる。徳と幸福とは相俟って人の最高善を構成する。道徳法則の遵守に相応して人に幸福が配分されたとき、最善の世界が実現する。
 
 ところで、道徳法則の遵守と幸福の配分とは因果的に独立している。両者が相応し、比例するという保証は何もない。人がこの世で道徳法則となり得る道徳格率をまじめに遵守したからといって、当人がこの世で幸福になるとは限らない。
 
 しかし、人は最高善を目指すべきであり、そうである以上、それは可能のはずである──oughtはcanを含意する。とすると、道徳的な生と幸福との合致を保証する最高存在が措定されなければならない。つまり、神の存在が措定されるべきである。道徳的な生と最高善の実現と一致を目指すべきわれわれの義務は、神の存在を措定すべき義務を含意する。
 
 ところで、この世において、道徳的に生きることが幸福であることと相応しないことは、明らかである。したがって、人々はその死後、永遠に生きることも措定される必要がある。それは純粋実践理性の要請である。道徳法則と意思との合致は、決して完全に達成されることはなく、その達成を目指して永遠に努力されるべき目標である。そのことからしても、理性的な人格の永続性は措定される必要がある。
 
 かくして、魂の不死、そして道徳と幸福の合致を保証する神の存在が措定されるべきことになる。
 
 しかし、カントによれば、魂の不死と神の存在を措定することは、あくまで主観的な要請であって、客観的な義務ではない。何らかの存在を措定すべき客観的義務など存在しないからである。また、神の存在は道徳的な義務の一般的な根拠ではない。理論理性の観点からすれば、神の存在は仮設である。道徳法則および最高善の観点からすれば、それはわれわれの信念である。
 

 
 この複雑に屈曲したカントの議論は、神の存在証明ではない。神の存在を措定せざるを得ないという証明である。道徳法則との合致を目指すとともに最高善の実現をも目指す人間にとって、神の存在を措定することは、主観的には避けられないことだと述べているだけである。神の存在も魂の不死も、理論的に証明することはできない。ただ、実践理性の視点から首尾一貫してものごとを理解しようとすると、神の存在と魂の不死とは、必然的に措定せざるを得ない──行き着かざるを得ない──超越論的前提である*11
 
 道徳法則と自己の意思との合致を求めて永遠に努力すべき義務は、自己利益とは関係がないと言いつつ、最高善という看板の下に自己利益を裏口から招き入れているのではないか、との疑念を感じる人も多いのではないだろうか。次のカントの説明は、なかなか素直には受け取りにくい。

最高善の観念の中には、最大の幸福が最高度の道徳的完全性と厳密に相応した形で、私自身の幸福をも含めて、表象されているが、それでも私の幸福は、意思に最高善を促進するよう指示する決定的な根拠ではない。道徳法則こそがその決定的根拠である*12

しかも、この世で道徳的に生きる人が幸福であるとは限らないからという理由で、来世の存在と魂の不滅と神の存在をも信ずるべきことになる──それを信じないと帳尻が合ったことにならないから──と言われても、これまた納得する人がそう多いとは思えない。帳尻が合うと信ずることは、実際に帳尻が合うことと同じではない。それなのに信ずるべき理由はあるだろうか。それに、神の存在を信じてはいないが、道徳的に暮らしている人はたくさんいる。それらの人々のすべてが、道徳的に生きることが自己利益に合致すると考えているわけではないであろう。
 
 さらに、oughtはcanを含意するとは言いながら、最高善を目指すべきであるから、それは可能のはずだという議論の展開にも、無理が感じられる*13。医師はつねに患者の救命と完治を目指して努力すべきだとしても、だからといって、いついかなる場合においても患者の救命と完治が可能だと措定すべきだということにはならないであろう。目の前の特定の患者の救命が無理だと判明すれば、救命以外の目的を措定することもあり得るはずである。
 
 カントはどこまで本気なのであろうか。カント哲学の後継者と目されていた若きフィヒテが18世紀末年に惹起し、フィヒテがイェナ大学から追われる結果をもたらした「無神論論争Atheismusstreit」からも明らかなように*14、無神論者と見なされることは、当時においてきわめて危険であったことを考慮する必要がある。
 
 もっとも、神の存在の措定に関するカントの議論の成否にかかわらず、何かをなすべき義務があるとする思考の背景を首尾一貫して突き詰めるならば、理性の限界を超えてまでも、それを究極的に支えているはずの前提へと行き着かざるを得ないという「理屈の立て方」自体は、道徳というものが成り立つための超越論的諸前提──たとえば「意思の自由」──の理解に役立つだけでなく、ハンス・ケルゼンの根本規範の仮設をはじめとする19世紀ドイツの実証主義法理論を理解する上でも、参考となる。成功した議論にだけ意義や影響力があるわけではない。そのように思われる。
 

 
 神の存在よりも喫緊の問題があるのではないだろうか。この世、つまりこの世界の存在である。ケインズは、ウィトゲンシュタインを神になぞらえた*15

さて、神が到着した。5時15分の列車で、私は彼に会った。

ウィトゲンシュタインが書き上げたばかりの『論理哲学論考』の内容について、バートランド・ラッセルに説明しようとする場面が、レイ・モンクによる伝記に登場する*16
 
 ウィトゲンシュタインは、ことばで言い表し得ることと、言い表し得ないこととがあると言う。ことばで言い表し得ないことは、示されるのみである(6.522)*17。そして、世界全体に関しては、意味のあることは何も、ことばで言い表すことはできない。つまり、この世界があるか否かについて、意味のある形で言い表すことはできない。
 
 ラッセルは、紙を取り上げてインクの染みを3つ作り、ウィトゲンシュタインに突き出す。「この世界に、少なくとも3つのものが存在することは真であり、理解可能だ」。
 
 ウィトゲンシュタインは、「その紙の上にインクの染みが3つある」という命題は、真であり意味があることを認める。それは世界の中の1つの事態である。しかし、世界全体については、やはり何ごとも言い表すことができないと言う。
 
 ウィトゲンシュタインによると、意味のある命題、つまり真であり得る命題は、事実の描像(picture)である。描像が描写するものがその意味である(2.221)。描像=命題が現実と一致するとき、それは真である(2.21)*18
 
 ところで、『論理哲学論考』の冒頭の2つの命題(1, 1.1)によると、世界は成立している事実の総体である。そのとき、「この世界にはインクの染みが3つ存在する」という命題には、いかなる問題があるだろうか。なぜこの言明が意味をなさないかと言えば、ラッセル自身が発見したパラドックスが働き始めるからである*19
 
 もし、世界それ自体も事実であるとすると、事実全体からなる集合である世界自体も、世界の1要素だということになる。世界は事実という要素の総体から構成されると同時に、それ自体もその要素である。そんなことがあり得るだろうか。
 
 ラッセル自身が編み出したパラドックスの実例は、「自分自身を要素としない集合のすべてからなる集合」というものであった。この集合が自分自身を要素としているとすると、この集合は自分自身を要素としない集合の集合であるから、自分自身を要素とはしないはずである。この集合が自分自身を要素としていないとすると、この集合は自分自身を要素としない集合からなる集合であるから、自分自身を要素とするはずである。集合論の基礎を揺るがすパラドックスである。
 
 こうしたパラドックスが生じるのは集合自身を要素とする集合を観念するからであり、そうした集合の観念には意味がないと考えるのが、このパラドックスの1つの解消法である。したがって、世界全体に関する命題は、事実に関する意味のある命題ではあり得ないとウィトゲンシュタインは考えた。ことばで言い表しうることは、何らの矛盾もなく言い表すことが可能でなければならない。神がこの世の中に姿をあらわすこともない(6.432)。
 
 世界全体に関して意味のあることを言い表すことはできない。この世があるとも、ないとも、意味のある命題で表現することはできない。それは何も描写していない*20。人々は科学が提示する自然法則が自然現象の説明となっていると信じているが、それは誤解である(6.371)。ある自然現象が発生したからと言って、別の現象が必然的に発生することはない。論理的必然性のみが存在する(6.37)。
 
 何ごとかが自然現象の説明であり得るためには、この世界の外側にその根拠を求めざるを得ない。世界の意義は世界の外になければならない(6.41)。それを意味のある形で言い表すことはできない。つまり、説明はあり得ない。神の存在が説明であり得ないのと同様に(6.372)。
 
 『論理哲学論考』の末尾直前(penultimate)の命題(6.54)は、次のように語る。

私を理解する者は、私の命題に意味がないことをさとる……彼は、いわば、梯子を昇り切った後に、それを捨て去らねばならない。

回答を言い表すことができないのであれば、問いを言い表すこともできない(6.5)。この世があるのかないのか、それは意味のある形で言い表すことのできない問いである。
 

 
 意味のある形で言い表すことのできない問いであっても、それが肝心な問いでなくなるわけではない。その問いこそが肝心である。言い表し得ない世界はそれでも存在する。それは示される(6.522)。世界がいかにあるかではなく、世界が存在すること、自分自身がそれに直面していること、それこそが神秘である(6.44)。何の根拠も説明もあり得ない世界を人は生きていく*21
 
 人の魂の不死性は保証されていない。たとえ保証されていたとしても、それは役には立たない。それは何も説明しない(6.4321)。
 
 カントの超越論的説明は、説明ではない。
 
 

*1 略語の意味は次の通りである:「定義def」「定理p」「系c」。たとえば、1p6cは第1部定理6の系、1def4は第1部定義4を示す。
*2 簡単な整理として、拙稿「スピノザ国家論序説──『エチカ』から『神学・政治論』へ」『比較法学』53巻2号2-5頁(2019)がある。スピノザの「神」は自然法則の総体と等しいもので(Deus sive natura)、神ということばから普通想定される人格神ではない。
*3 デカルト『省察』第V章。
*4 Cf. J.L. Mackie, The Miracle of Theism: Arguments for and against the Existence of God (Clarendon Press 1982) 46.
*5 レオ・シュトラウスが指摘するように、全能の神の存在を学問的に反駁することはできない。学問にとって可能なのは、全能の神の存在を笑い飛ばすことのみである(Leo Strauss, Spinoza’s Critique of Religion (E.M. Sinclair trans, University of Chicago Press 1997) 143-44)。
*6 Cf. Steven B. Smith, Spinoza’s Book of Life: Freedom and Redemption in the ‘Ethics’ (Yale University Press 2003) 198-99.
*7 『イザヤ書』7: 9。
*8 拙著『憲法の境界』(羽鳥書店、2009)87頁参照。ジョナサン・イズラエルが指摘するように、スピノザは神の存在自体を否定してはいないことに留意する必要がある。スピノザが否定したのは、神が人事に意図的に介入し、歴史の方向性を決定するという観念──神の摂理──である(Jonathan Israel, ‘Leo Strauss and the Radical Enlightenment’, in Winfried Schröder (ed), Reading Between the Lines: Leo Strauss and the History of Early Modern Philosophy (Walter de Gruyter 2015) 21-23)。もっとも、レオ・シュトラウスにとって、神の摂理と啓示の否定は、神の存在の否定と同義なのであろう。
*9 『純粋理性批判』第2部門第3章第4節[A 592]以下。デカルト『省察』第V章における神の存在証明に対するカントの批判は、スピノザの存在証明に対する上述の疑義と重なっている(cf. Mackie (n 4) 43-46)。
*10 『実践理性批判』第1部第2篇第2章第4-6節[A 5: 122-133]。
*11 カント(n 10) 第1部第2篇第2章第6節[A 5: 133]。
*12 カント(n 10) 第1部第2篇第2章第5節[A 5: 129-130]。
*13 Mackie (n 4) 109.
*14 Jonathan Israel, The Enlightenment that Failed: Ideas, Revolution, and Democratic Defeat, 1748-1830 (Oxford University Press 2019) 616-23.
*15 Ray Monk, Ludwig Wittgenstein: The Duty of Genius (Vintage 1991) 255.
*16 Ibidem, 182.
*17 以下、丸括弧内の数字は『論理哲学論考』の命題番号を示す。
*18 命題が事実の描像であるというこの考え方は、ピエロ・スラッファの批判を受けて、その後、放棄されている(Monk (n 15) 260-61)。
*19 Wolfram Eilenberger, Time of the Magicians: The Invention of Modern Thought 1919-1929 (Shaun Whiteside trans, Allen Lane 2020) 72-78.
*20 See also Monk (n 15) 563 and 570-71.
*21 Monk (n 15) 277; Eilenberger (n 19) 161.

 
 
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第1回 現実感覚
第2回 戦わない立憲主義
第3回 通信の秘密
第4回 ルソー『社会契約論』における伝統的諸要素について
第5回 宗教上の教義に関する紛争と占有の訴え
第6回 二重効果理論の末裔
第7回 自然法と呼ばれるものについて
第8回 『ペスト』について
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長谷部恭男

About The Author

はせべ・やすお  早稲田大学法学学術院教授。1956年、広島生まれ。東京大学法学部卒業、東京大学教授等を経て、2014年より現職。専門は憲法学。主な著作に『権力への懐疑』(日本評論社、1991年)、『憲法学のフロンティア 岩波人文書セレクション』(岩波書店、2013年)、『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書、2004年)、『Interactive 憲法』(有斐閣、2006年)、『比較不能な価値の迷路 増補新装版』(東京大学出版会、2018年)、『憲法 第7版』(新世社、2018年)、『法とは何か 増補新版』(河出書房新社、2015年)、『憲法学の虫眼鏡』(羽鳥書店、2019年)ほか、共著編著多数。