憲法学の散歩道 連載・読み物

憲法学の散歩道
第16回 レオ・シュトラウスの歴史主義批判

 
 
 レオ・シュトラウスは1899年に、プロイセンのヘッセン州キルヒハインで、穀物商を営むユダヤ人の子として生まれ、マールブルク大学とハンブルク大学で学んだ。ハンブルク大学では、エルンスト・カッシーラーの指導の下で博士論文を執筆している。
 
 1922年、シュトラウスはフライブルク大学で、エトムント・フッサールの下でポス・ドクの研究活動を続け、フッサールの助手であったマルティン・ハイデガーの講義にも出席している。当地でシュトラウスは、ハンス-ゲオルグ・ガダマー、カール・レーヴィット、ハンナ・アレント等と知己となった。
 
 1932年、ロックフェラー財団からの奨学金を得て*1、シュトラウスはパリに遊学し、アレクサンドル・コジェーヴと出会う。34-35年にはイギリスで研究を続け、37年にアメリカ合衆国に移る。いくつかの非常勤講師を務めた彼は38年、ニューヨークのthe New School for Social Research (NSSR)に常勤の職を得る*2。49年にはシカゴ大学政治学部の教授となり*3、67年まで同大学に務めた。逝去したのは73年である。
 

 
 シュトラウスは1941年11月26日、NSSRで歴史主義(historicism)をテーマとする講義を行っている*4
 
 シュトラウスによると、歴史主義は、歴史学およびその対象となる歴史自体の意義を過剰に強調する思想として通常、受け取られている。歴史主義者は、過去の歴史を構成する人々の活動、生産物、慣習、経験、制度、思想とその表現等の考察と理解に知的能力のすべてを捧げる(72)。
 
 抽象的かつ普遍的な理念を押し立てたフランス革命に対する反動として歴史主義は生まれた*5。過去の特定の地域・時点の歴史には、それぞれ固有の価値がある。あらゆる先入見を排除し、現在の観念を過去に投影することをやめ、それぞれの歴史をそれ自体に没入することを通じて理解する必要がある。
 
 こうした歴史主義は、ニーチェの『反時代的考察』によって徹底的に批判された。過去の特定の地域・時点の歴史は膨大な数量の事実によって構成されており、その考察と理解に知的能力を総動員したとしても、すべてを理解することは人の能力を超えており、その結果、現在および将来に向けた人の活動はあり得なくなる。この批判を受けて、現在(1941年当時)においては、過去の歴史研究はそれ自体が目的ではなく、現在および将来の生と活動のためのものであることは、常識となっている(72)。
 
 今日において検討対象とすべき歴史主義は、より広く捉える必要がある。歴史主義とは、歴史をより重要であるはずのもの──とりわけ、知の探究としての哲学──を犠牲として重視する思想であり、態度である。歴史主義は、哲学を歴史に置き換えようとする。典型的には、哲学と歴史との区分を否定して両者を同一視し、知の探究としての哲学を思想史に変換しようとする。永遠に変わらぬ真理ではなく、その時々で真理とされたものが何かを知ろうとする(73)。
 
 歴史主義によると、すべては歴史的である。変わるものと変わらぬものとの間に截然たる境界線はない。変わるものと変わらぬものとの境界線とされるものは、それ自体、境界線を引く研究者が置かれた歴史的状況を反映している。あらゆる知識、信念、規準、制度には限られた価値しかない。すべては歴史の変転に応じて変化する。科学的命題でさえそうである。現代の科学は、古代ギリシャ人にとっては意味がない。現代科学は、現代人にとってのみ意味がある。科学も知そのものではなく、1つの教説(doctrine)である。本質的には迷信と身分は変わらない(73-74)。
 
 人一般にとっての知はあり得ない。その時代、その地域に妥当する知のみが存在する。かくして知の探究としての哲学の身分は切り下げられ、すべては歴史的・相対的となる*6
 
 シュトラウスによると、歴史主義はわれわれの時代精神である。過去にも歴史研究は存在した。しかし、現代ほど重視されることはなかった。プラトン、アリストテレスの時代から16世紀にいたるまで、歴史学は第一級の学問ではなかった。歴史を重視したのは、哲学者ではなく、修辞学者である。アウグスティヌスもヴィーコも、本来の専門は修辞学である*7。マキャヴェッリやジャン・ボダン、フランシス・ベーコンにいたって、歴史に大きな比重が与えられるようになり、17世紀の終わりから、人々は「時代精神a spirit of a time」について語るようになる(74-75)。
 
 ヘーゲルにいたって、哲学と歴史は完全に一体化した。コントの実証主義も、歴史的発展と無関係に語ることはできない。科学と科学哲学のみが歴史主義に対抗し、知の妥当性の問題と知の起源の問題とは別だと主張した。ところがエドムント・フッサールは、『ヨーロッパ諸科学の危機と超越論的現象学』において、認識上の解明と歴史的説明との根本的区分を否定した(75-76)。
 
 哲学と歴史とを一体化させる動きは、現象学にとどまらず、ヘーゲル主義もマルクス主義も知識社会学も、ディルタイの徒もシュペングラーの徒もデューイの徒をも支配し、すべてを覆い尽くしている。われわれはみな、歴史主義者になってしまった。すべての哲学は、読み始める前からすでに、その生まれた時代を反映していることが判明している。すべては変わり得る。人にも知にも本質はない。いかようにでも変化し得る。「変わらぬ」とされるものも、その具体的な意味や形態は、変転する歴史的状況に完全に依存している(76-77)。
 
 現代ほど、知性とエネルギーとが過去そのものの探究に注がれる時代はない。だとすると、過去に関するわれわれの理解は、かつてないほど深化していると言えるだろうか。シュトラウスによると、そうとは言えない。多くのことを知っているからといって、それだけ意味があるわけではない(77)。
 
 歴史主義の蔓延以前、18世紀末には、進歩への信念が行き渡っていた。自分たちの時代は以前のどの時代よりも優れており、将来はさらに進歩していくだろうという信念である。それは、進歩の程度を測定する普遍的な規準が存在するという信念と相応していた。
 
 この信念を掘りくずしたのが歴史主義である。多くの場合、近代が中世より進歩しているとの信念は、過去に対する理解の不十分さにもとづいている。過去に対する理解も、時代とともに進歩するはずである。しかし、過去より現在が、さらに未来が進歩しているはずだとすると、過去に対して深い関心を持つべき理由はない。そうした信念を抱く歴史家は、過去それ自体を理解しようとする十分な動機に欠けていることになる。歴史家は、過去の人々よりも自分たちの方が過去をよりよく理解していると、はじめから思い込んでいる。たとえば、プラトンよりも自分たちの方が、プラトンをより善く理解していると考える(77-78)。
 
 これに対して、歴史主義者は、過去のそれぞれの時代をそれ自体として理解しようとする。過去の1つ1つの事象をそれ自体として理解しようとするこの態度は、進歩というものの見方とも、また一定の類型の発展──たとえば「近代国家」の生成──というものの見方とも相容れない。歴史主義は、過去の特定の事象にそれぞれ固有の意味があると考える。その事象を経験し、それを生きた人々の視点から見た意味を理解し、彼ら自身の規準にもとづいて判断しようとする。それこそが、過去を理解するためのすぐれた視点である(78-79)。
 
 このため、厳密な歴史主義者は、もし過去のある思想家が「体系system」ということばを用いなかったのであれば、その思想家を理解する上で「体系」ということばを用いるべきではないと考える。プラトンが「倫理ethics」について語っていないのであれば、プラトンを倫理学の祖と呼ぶべきではない。聖書に「宗教religion」ということばがあらわれない以上、聖書に示された思想を宗教と呼ぶべきではない(79)。
 
 とはいえ、こうしたルールをその通りに遵守する歴史主義者は、実際には稀である。こうしたルールを遵守しようとする歴史家は、奇妙な問題に遭遇する。中世のアリストテレス研究者は、アリストテレスが生きた当時とは全く異なる時代状況を生き、ギリシャ語さえ知らなかったが、それにもかかわらず、現代の多くの歴史家よりもアリストテレスをより善く理解している。アヴェロエス*8やトマス・アクィナスは、歴史主義者ではなかった。つまり、過去をより善く理解するために、歴史主義者である必要はなく、歴史主義の哲学も不要である。過去の事象を理解するために必要なのは、それと真剣に関わり合い、自分の目と頭を使い、そこに真の知が示されているか否かを理解しようとすることである*9。歴史主義こそが過去の十分な理解の扉を開けるという主張の妥当性は疑わしい(80)。
 
 過去を理解しようとすれば、過去を真剣に受け止める必要がある。過去の、たとえば紀元前5世紀の、あるいは紀元12世紀の思想家を理解しようとするとき、その思想家が「真理the truth」を伝えたか、それを確かめる必要がある。現代からの批判に、彼がいかに反論したかを検討する必要がある。しかし、歴史主義はそれを許さない。歴史主義からすれば、過去のいかなる思想家も確たる真理を述べたことはあり得ない。その時代状況に拘束された主張を述べ伝えただけである。現代の判断規準を過去の思想家に当てはめることも禁止される(81)。
 
 歴史主義は、進歩史観からわれわれを解放した。過去の理解をそれ以前に比べて進めたことも確かである。しかし今や、歴史主義は新たな桎梏となっている。歴史主義を真剣に受け止め、過去のすべてを十分に理解しようとするならば、われわれは歴史主義を捨て去る必要がある。過去を理解しようとするとき、われわれはそれを歴史状況に拘束されていない人間、「生のままの人間natural human beings」*10として理解しなければならない(81)。
 
 哲学と歴史との区別は、歴史主義者が主張するように捨て去られるべきなのだろうか。それとも哲学は非歴史的であるべきなのだろうか。いずれが正しい見方であるかは、歴史的問題ではなく、哲学的問題である。ただ、この哲学的問題を解決するには、歴史的考察が不可欠である。今や、歴史主義の影響から免れた哲学的立場は存在しない。非歴史的哲学が何かを知るには、過去に遡る必要がある(82)。
 
 18世紀の合理主義思想に対するロマン主義者の批判は、それが全く非歴史的であり、「歴史意識historical consciousness」が欠如しているということであった。合理主義思想は、永遠に変わらぬ「自然な正しさnatural right=自然法」があると考えただけでなく、歴史の根拠を欠く「自然状態state of nature」を手掛かりとしてそれを考察しようとしたというわけである。
 
 この批判は的外れである。歴史主義は、18世紀の合理主義思想が当時の歴史状況に拘束され、そのために歴史意識を欠いたと考えている。しかし、17世紀から18世紀の思想家たちは、ボダンやベーコン等の提唱により、16世紀に勃興した歴史への関心の高まりを受けて自分たちの理論を構築している。実際には、彼らの思想は、歴史主義の色に染まっている。非歴史的哲学のあり方を探るには、さらに以前に、古代や中世にまで遡る必要がある(82-83)。
 
 つまり、現代において根本的な哲学的問題に答えるには、哲学史家になるしかない。これは歴史研究の歴史学的正当化である。哲学的正当化ではない。歴史研究と哲学との間に本質的連関があるわけではない。非歴史的な哲学が、たまたま過去の一定時点で失われてしまったため*11、失われた哲学を歴史研究を通じて回復するしかなくなったからである(83)。
 
 シュトラウスにとって1世代前の思想家たち、ベルクソンやハイデガーやウィリアム・ジェームズは、デカルト等によって開始された前近代と近代との切断は不十分であり、より根源的に前近代から切断された新たな哲学が必要だと主張した。他方で、近代哲学が前近代哲学よりすぐれていると考えるべき理由はないとする立場──たとえばネオ・トミズム──もある。こうした潮流の代表的論者は、ニーチェである。近代哲学と前近代哲学のいずれが優れているのか──「古代人対近代人の闘争la querelle des anciens et des modernes」──が問われている。
 
 この問いに答えるには、そしてそれが何を意味するかを知るには、歴史研究が必要となる。古代人と近代人の「厳密なexact」対決が必要となる。厳密であるためには、古代人を現代から理解しようとするのではなく、古代人を古代人の視点から理解する必要がある。古代人を現代の視点から理解するのでは、すでに論点の先取りである。しかし、そうした歴史研究も、それ自体に意味があるのではない。それは、哲学的問題に決着をつけるための準備作業である(84)。
 
 古代の哲学は、すでに古典学者の手によって解明されているのではとの疑問があるかも知れない。それは違う。古典学者は古典学者であるがゆえに、古代の思想を理解することができない。古典学者は古代の思想家ではない。彼らは現代人である。現代人の偏見が古代の理解の妨げとなっている(84-85)。
 
 かくして、哲学研究の前提として、哲学の歴史の研究が求められる。こうした帰結をもたらしたのは、近代の進歩思想である。近代哲学の創始者たちは、哲学を頽廃させた。哲学はくもりのない目ですべてを理解しようとする。伝統的な思想それ自体に意味はない。伝統はたまたま哲学の正しい結論と合致するかも知れないが、それは偶然である。しかし、近代哲学の創始者たちは、それ以上の前提を取り入れた。自分の師と同じ知的能力を持ち、努力を積み重ねるならば、師を超える知を獲得することができるはずだという前提である。もちろん、師を超えるより広範な知を得ることはできるであろう。しかし、より深遠な知を得ることはできるであろうか。必ずしもそうではない(85)。
 
 近代哲学の創始者たちは、学習によって継承される知と、円熟した学者が自身で獲得し得る知との区別をし損なった。継承される知を偏見と区別することは容易ではない。現代の科学と哲学が、科学と哲学の歴史に依存しているのは、そのためである。継承された知を真の知へと変換するには、知が最初に獲得された地点まで立ち戻る必要がある。継承された知は、実は継承された誤りであることが判明するかも知れない(86)。
 
 古代と近代との対決を問うにあたっては、自然と区別された歴史なるものが存在すると決めてかかるべきではない。知的探究の対象としての歴史は近代以降の発明である。哲学研究者は、古代の人々にとって、われわれが歴史と呼んでいるものが何であったかを解明する必要がある。歴史の哲学なるものについても、歴史自体と同様、深刻な疑念が提起されることになる(86)。
 
 歴史主義の立場からすれば、過去を蘇らせることは不可能である。あらゆる哲学は、それが発生した時点特有のものであり、別の場所、別の時点に移植することはできない。ネオ・トミズムにも、そうした批判が加えられる。トマス・アクィナスの思想は、中世特有のもので、それを現代の状況に当てはめることはできない。そもそも、アクィナスの思想はアリストテレスの注釈であり、アリストテレスの哲学は現代科学によって反駁されている。
 
 そうであろうか。自然科学については分からない*12。しかし、社会科学に関してはどうであろうか。現代の社会科学は、そう主張されるように、価値判断や個人の意思決定から解放された客観的な学問に本当になり得ているだろうか(87)*13
 
 歴史主義は、ある教説の真偽とその発生の経緯とを混同しがちである。真偽を判断し得るのは哲学であり、歴史ではない。他方、歴史的に見れば、倫理的・形而上学的主張は多種多様であり、そのこと自体が、あらゆる倫理的・形而上学的主張は絶対的な真ではないことを示していると言われる。複数の主義主張が対立することはその通りである。しかし、そのいずれが真であり、いずれが偽であるかを判断するのは、哲学である。歴史学ではない(87-88)。
 
 歴史は、すべての哲学の歴史的相対性を論証することはない。せいぜい、われわれの知っている哲学のすべてが特定の時代状況に拘束されてきたことを示すにとどまる。歴史主義は、われわれは決して賢明であることはなく、真の知を得ることもない、すべての哲学は相対的なものだと教える。しかし、われわれが賢明でなく、真の知を獲得してはいないこと、しかしそれを求め続けるべきであること、それは歴史主義の助けを借りずとも、はじめから分かっていたことである。哲学とはそもそもそうしたものである*14
 
 歴史主義は、真の知を求める衝動に突き動かされることをはじめから拒否し、相対的真理に安穏と自己満足することを唱える。知的怠惰そのものである(88)。
 

 
 シュトラウスが、かなり危ない綱渡りをしていることが分かる。知を探究しようとする哲学者が哲学本来の姿を取り戻すには、歴史主義によって汚染される以前の非歴史的な哲学にまで歴史を遡る必要があるというのだが、しかし、古代の哲学が非歴史的な哲学であったことは、哲学史研究を経てはじめて判明するはずのことである*15
 
 そもそも哲学史研究が必要であることを理解するには、歴史主義が近代以降の流行の思想潮流にすぎないこと、そのことを歴史主義の偏見に妨げられることなく、生のままに見る視点が必要となるはずだが、その視点は──歴史主義抜きの生のままの哲学が存在した事実を含めて──哲学史研究抜きで得られるのであろうか。むしろ、知の探究は歴史主義の偏見から離れて真の知そのものを追求する、生のままのものであるべきだという出発点があって、すべてが始まっているのではないか。そもそも「生のままnatural」という修飾語自体、それこそがあらゆる理論的堆積物を取り去った、本来の姿であるという特定の結論を予め含意している*16
 
 シュトラウスは、『僭主制について』の中で、アレクサンドル・コジェーヴの疑問に答えて次のように述べる*17

厳密で古典的な意味における哲学は、永遠の秩序、永遠の原因、そしてあらゆるものの原因を追求する。したがって、その内側で歴史が展開する永遠に変わらぬ秩序があり、歴史によって秩序自体が影響を受けないことは、前提とされている。

歴史主義が誤りであることは、論証されているわけではなく、前提とされている。永遠に変わらぬ秩序があると前提しない限り、真の知はあり得ず、ただ時とともに移り変わるさまざまな思想潮流があるにとどまる。この前提抜きに真の知を求める哲学的探究はあり得ない*18。不変の秩序の存在は、哲学的探究そのものを可能とする超越論的仮設である。もちろん、こうした循環論的性格自体から、シュトラウスの議論が成り立たないことになるわけではないが。
 
 1941年という、ナチス・ドイツの支配領域が最大化した時に行われたこの講演は、反知性的民族主義の勃興をもたらした壊滅的知的状況の背景は何かという、シュトラウスの歴史意識に強く彩られているように思われる*19。1954年から55年にかけてヘブライ大学で行った講演でシュトラウスは、およそ永遠なるものを全否定するもっともラディカルな歴史主義者が、1933年に、ドイツ国民のうちでももっとも思慮と穏当さに欠ける人々の判断を運命の配剤として喜び迎えたことを指摘している*20。名指しはされていないが、マルティン・ハイデガーのことである。
 
 シュトラウスの主張を素直に受け取ることには──それがあまりにも素直に、かつ簡潔に語られているためか──困難がある。それは、われわれが科学主義と歴史主義の洞窟に完璧に閉じ込められているあまり、洞窟の中にいること自体も意識し得ないでいるからかも知れない。われわれの前に立ちふさがっている理論的堆積物を取り払い、洞窟を出て過去に遡って、テクストと真剣に対話するとき、われわれの忘れかけた本当に重要な永遠の問題に直面することができるという意識なくしては、過去の思想を研究する意味は見失われる。それがシュトラウスのメッセージである*21
 
 

*1 ロックフェラー財団から奨学金を得るに際しては、カール・シュミットが推薦状をしたためている。
*2 NSSRは、ジョン・デューイ等が中心となって、成人教育を行う機関として1918年に創設された。1930年代のNSSRは、イタリアのファシスト政権やドイツのナチス政権に追われ、亡命した多くの学者──エーリッヒ・フロム、ハンナ・アレント、ハンス・ヨナス、アルフレッド・シュッツ等──を受け入れた。NSSR在任中のシュトラウスの執筆論文は、Persecution and the Art of Writing (University of Chicago Press 1988 (1952))にまとめられている。
*3 シュトラウスがシカゴ大学に選考された際、競合する候補者には、ダントレーヴが含まれていた。シュトラウスをシカゴに迎えるについては、国際関係論の泰斗、ハンス・モーゲンソウが決定的な役割を果たしたと言われる(Kenneth Thompson, ‘Philosophy and Politics: The Two Commitments of Hans Morgenthau’, in Kenneth Thompson and Robert Myers (eds), Truth and Tragedy: A Tribute to Hans Morgenthau (Transaction Books 1984) 22)。
*4 Leo Strauss, ‘Historicism’ in Toward Natural Right and History: Lectures and Essays by Leo Strauss (J.A. Colen and Svetozar Minkov eds, University of Chicago Press 2018) 72-93. 本文中、丸括弧内の数字は、本書の頁数を指す。
*5 歴史主義の起源については、Leo Strauss, Natural Right and History (University of Chicago Press 1953) 12-16参照。
*6 しかし、歴史主義自体は絶対的な真であり、時とともに変転しないことが深刻な矛盾をはらんだ形で前提とされている(Strauss (n 5) 28-29)。
*7 もっとも、古代末期から中世にかけては、哲学ではなく修辞学こそが──プラトンではなくイソクラテスが──主流の学問とされていたことについては、Francis Oakley, The Watershed of Modern Politics: Law, Virtue, Kingship, and Consent (1300-1650) (Yale University Press 2015) 52-58 参照。
*8 Averroes (1126-1198) は、スペインのコルドバ生まれの哲学者、医学者。アリストテレスの注釈者として知られる。アラブ名はイヴン・ルシュッド(ibn rušd)。
*9 プラトンに関連して、シュトラウスは次のように述べる。「プラトンが何を探究していたか、つまり、至上の事柄に関する真実とは何かに関心を寄せることなくしては、したがって、プラトンがこれらの事柄について述べたことが真実であるか否かを問うことなくしては、プラトンの著作を1行たりとも、理解することは不可能である」(Leo Strauss, ‘On Collingwood’s Philosophy of History’, Review of Metaphysics, vol. 5, no. 4, 559, 584 (1952))。
*10 あるいは、「本性のままの人間」と訳すべきか。
*11 科学と歴史とが、真の知の探究を目指す哲学から現代人を遠ざける「洞窟」となっており、そこから脱出するためにこそ哲学の歴史研究が必要となることについては、Strauss (n 2) 155-57参照。
*12 シュトラウスは、フッサールに従って、科学が研究対象とする世界以前に、自然に理解される世界、常識の世界が存在するとしながら、現代では自然の世界自体が科学理論によって汚染されていることを指摘する(Strauss (n 5) 79)。この点に関しても、近代科学以前の「生のままの」世界理解に遡る必要がある。
*13 価値判断から切り離された社会科学は、それ自身の意義について回答することができない。マックス・ウェーバー流の価値中立的な社会科学なるものは、自己破壊的である(Strauss (n 5) 41)。
*14 シュトラウスは、『僭主制について』において、次のように述べる。「自分の回答に対する「主観的確信」が、それへの疑念を上回ったとき、哲学者は哲学者であることをやめる。そのとき、教派(sectarian)が生まれる」(Leo Strauss, On Tyranny (Victor Gourevitch and Michael S. Roth eds, University of Chicago Press 2000) 196)。
*15 Daniel Tanguay, ‘Breaking Free from the Spell of Historicism’, in J.A. Colen and Svetozar Minkov (eds), Toward Natural Right and History: Lectures and Essays by Leo Strauss (University of Chicago Press 2018) 64.
*16 Cf. Strauss (n 5) 79. 前注12とも関連するが、そこにはフッサールの現象学の影響を見てとることができる。
*17 Strauss (n 14) 212.
*18 Cf. Stanley Rosen, ‘Leo Strauss and the Problem of Modern’, in Steven Smith (ed), The Cambridge Companion to Leo Strauss (Cambridge University Press 2009) 124.
*19 Tanguay (n 15) 57.
*20 Leo Strauss, ‘What is Political Philosophy?’, in his What is Political Philosophy? And Other Studies (University of Chicago Press 1988 (1959)) 27.
*21 筆者がレオ・シュトラウスの著作にはじめて出会ったのは、2004年後半のニューヨーク滞在中、イースト・ヴィレッジのセント・マークス・ブックショップ(St Mark’s Bookshop)でのことであった。同書店は今はない。

 
 
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第1回 現実感覚
第2回 戦わない立憲主義
第3回 通信の秘密
第4回 ルソー『社会契約論』における伝統的諸要素について
第5回 宗教上の教義に関する紛争と占有の訴え
第6回 二重効果理論の末裔
第7回 自然法と呼ばれるものについて
第8回 『ペスト』について
第9回 「どちらでもよいこと」に関するトマジウスの闘争
第10回 若きジョン・メイナード・ケインズの闘争

長谷部恭男

About The Author

はせべ・やすお  早稲田大学法学学術院教授。1956年、広島生まれ。東京大学法学部卒業、東京大学教授等を経て、2014年より現職。専門は憲法学。主な著作に『権力への懐疑』(日本評論社、1991年)、『憲法学のフロンティア 岩波人文書セレクション』(岩波書店、2013年)、『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書、2004年)、『Interactive 憲法』(有斐閣、2006年)、『比較不能な価値の迷路 増補新装版』(東京大学出版会、2018年)、『憲法 第7版』(新世社、2018年)、『法とは何か 増補新版』(河出書房新社、2015年)、『憲法学の虫眼鏡』(羽鳥書店、2019年)ほか、共著編著多数。