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『フッサールの他者論から倫理学へ』

 
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鈴木崇志 著
『フッサールの他者論から倫理学へ』

「はしがき」「序章  間主観性の現象学への新たなアプローチ」(pdfファイルへのリンク)〉
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はしがき
 
 はじめに率直に述べておくと、本書は、ひねくれた著作である。第一に、本書は倫理学に強い関心を抱いているが、倫理学をメインに扱っているわけではない。むしろ表題に掲げた通り、本書の最終目的は、ドイツの哲学者エトムント・フッサール(一八五九〜一九三八)の他者論から倫理学への突破口を開くことである。それゆえ本書の議論は、一般的な意味での倫理学の内部で展開されるのではなく、むしろその手前へと遡行し、その基礎を突き止めることを目指しているのである。そして第二に、本書はフッサールの公刊著作の中で常に目立たない位置に置かれていた「伝達(コミュニケーション)」という概念に焦点を当てている。詳しくは本論の中で見ていくように、フッサールは、初期の大著『論理学研究』(一九〇〇/〇一)において、考察の範囲を言語の独白的側面だけに限定するために、その伝達的側面を度外視している。のみならず彼は、晩年の著作『デカルト的省察』(一九三一)で提示された他者論において、感情移入をめぐる議論に注力した結果、伝達の場面でなされる他者経験には触れられないままにとどまっている。したがって彼の初期から晩年に至るまで、少なくとも公刊著作の中では、「伝達」概念が表立って論じられることはなかったのである。このようにフッサールのテクストにおいて周縁的な「伝達」概念を用いて、倫理学の手前を論じようとする――これら二つの意味において、本書は搦め手から議論をしていると言わざるをえない。
 ただし、本書がそのような著述スタイルをとるのは、いたずらに混乱を招くためではない。このことを示すために、本書の問題意識や目論見について、さらに大局的な見地から説明しておきたい。
 倫理学とは倫理についての哲学的探究であり、倫理とは社会規範の一種である。それゆえ倫理学者は、倫理の正体を根底から明らかにしようとする過程で、社会とはそもそも何かという問いに突き当たらざるをえない。そしてこの問いに直面している私自身も、好むと好まざるとにかかわらず、社会的関係の中に巻き込まれているのである。この私の観点にとどまるかぎり、社会のほかの成員は、この私とは別の主体、すなわち「他者」として現れてくる。こうして倫理についての問いは社会についての問いへ、さらに社会についての問いは他者についての問いへと送り返されるのである。本書は、そのように私に現れている通りのものに立ち戻るという点で、フッサールの確立した現象学という方法論を範としている。よく知られている「事象そのものへ」という現象学のスローガンは、一人称の観点から経験される具体的な事柄を立脚点にするという姿勢を示している。そしてこうした方針は、倫理や社会というテーマを扱う際にも当てはまるはずである。このとき目を向けるべき事象とは、日常生活の中で出会われている通りの他者である。フッサールは、そのような他者について(あるいは他者とともに)なされる私の経験のことを、「他者経験(Fremderfahrung)」と呼んでいる。他者という事象は、他者経験という経験の中で――たとえ一面的で得体の知れない仕方であるとしても――与えられている。他者の意識に直接アクセスできるわけではないが、たしかに私は他者と出会っており、そのかぎりで他者を経験していると言える。だとすれば、ひとまず私が立ち戻るべきは、日々生じているこの他者経験なのである。
 ただしフッサールの現象学の特徴は、事象そのものが与えられる経験への遡行だけに尽きているわけではない。というのも、日常的な出来事は、まさにそれが日常的であるがゆえに普段は自明のことと見なされているのであって、その自明性をただ受け入れるだけでは哲学的な探究へと進展することがないからだ。そこでさらにフッサールは、この自明性を受け入れることを差し控えた上で、自らの意識へと反省の目を向け、一見自明な出来事を可能にしている仕組みが何であるかを問う。そのような問いは「超越論的な遡行的問い」(VI, 191)と呼ばれる。倫理や社会という目下のテーマに関して言えば、それを論じるためには、まずは他者経験への遡行がなされ、さらに他者経験を可能にしている意識の仕組みを解明するための超越論的な遡行がなされねばならない。そのような二重の遡行が必要となる以上、現象学の論述はどうしても遠回りにならざるをえない。もし「永遠の相」(III/1, 224)のもとで語ることができるなら、どこにも遡行せずに最短経路で目標に到達できるのかもしれない。しかし現象学はそのような語り口を拒否して、いかなるテーマについてもあえて迂回路を採ろうとする。フッサールの言葉を借りて言えば、現象学に「王者の道」(III/1, 223)は存在しないのである。
 そしてフッサールは、このような現象学者の歩みを「探検家」(III/1, 224)のそれになぞらえている。事象そのものに導かれるままに記述を行う際には、当初は思いもよらなかった方向に議論が進むことがありうる。それはあたかも、まだ地図のない未踏の地を探検家が自分なりの仕方で歩んでゆくかのようだ、というわけである。実際のところ、自らの手の内をすべて明かすという著述スタイルゆえに、フッサールのテクストにおいては、彼がどこで迷い、どこで躓いたかが如実に描き出されている。彼の遺した膨大な他者論も、もちろん例外ではない。本書がフッサールを主たる研究対象に選んだのは、そのような彼の悪戦苦闘の記録を、私たち自身が他者について考えるための手引きとするためである。
 とはいえ、フッサールの未完の他者論をそのままなぞるだけでは意味がないだろう。そこで本書は、『論理学研究』や『デカルト的省察』等の公刊著作との関連に注意を払いつつ、フッサールの生前には未公刊であった草稿を手がかりとして、彼の他者論の全体像を再構成することを試みる。あらかじめ見通しを述べておくと、この再構成は、『デカルト的省察』において公表された感情移入論に加えて、伝達に関する部門を補完することによって達成される。感情移入はあくまで他者経験の一種にすぎない以上、伝達の場面でなされる他者経験を考慮することによって初めて、他者との出会いの諸相を適切に記述することができるようになるはずである。そして本書においては、この伝達の場面でなされる他者経験についての考察を通じて、社会的関係、ひいては倫理的当為が問題になる場面にまで議論を進めてみたい。
 こうした文献研究の中で明らかになるのは、『論理学研究』の改版計画を境として、フッサールの思想の中で「伝達」概念が次第に重視されるようになるということである。「伝達」概念が公刊著作の中で周縁的な位置に置かれているのは、それがフッサールにとってどうでもよいものであったからではない。むしろ彼が伝達の理論を晩年に至るまで温めつづけていたという事実は、伝達をめぐる問題が彼にとっていかに困難であり、そしていかに重要であったかを示唆しているのである。
 したがって本書は、フッサールの他者論と倫理学の双方の側からトンネルを掘って両者をつなぐのではなく、むしろ彼の他者論を突き詰めることで倫理学に通じる道を探ることになる。その際には、突破口の先にある倫理学が、必ずしもフッサール自身の構想していた倫理学であるとは限らない。結論を先取りしておくと、本書の終章では、フッサールの他者論をフッサール自身の倫理学と接続するだけでなく、それをエマニュエル・レヴィナス(一九〇六〜九五)の現象学的倫理学と比較するための枠組みが提示される。すると『フッサールの他者論から倫理学へ』というタイトルは、フッサールの他者論が向かう倫理学をフッサール自身のものと捉えるか否かによって、二つの意味を持ちうるだろう。ただ、いずれにせよ本書が目指しているのは、「私」と倫理的関係を結びうる「君」について哲学的に論じるための場所なのである。
 
 
序章  間主観性の現象学への新たなアプローチ
 
 はしがきで述べた通り、本書の主な考察対象は、フッサールの他者論である。ところで本書が現代の現象学の一般的な語法にならって「他者論」と呼んでいるのは、フッサールの言葉遣いに忠実に従う場合には「間主観性の現象学」と呼ぶべきものである。そこでまずは、この間主観性の現象学に関する従来の研究動向を概観しておこう。
 
1 間主観性の問題はどう論じられてきたか
 

フッサールの批判者たちは、それぞれ別の論拠によってではあるにせよ、ほとんど例外なく次の点に関しては同じ意見を持っている。すなわち、フッサールは間主観性の問題を解決していなかったという、この一点に関しては。(Held 1972, S. 3)

 「間主観性の問題と現象学的な超越論哲学の理念」と題された一九七二年の論文の冒頭で、K・ヘルトはこのように述べていた。一九三一年にフッサールの『デカルト的省察』がフランスで出版されて以来、彼の現象学における「間主観性(Intersubjektivität)」の問題は徐々に衆目を集めつつあった。そして一九五〇年に『フッサール全集(Husserliana)』の第Ⅰ巻としてドイツ語版が公刊されたことにより、同書についての文献研究はさらに勢いづけられることになった。しかし、それからさらに二〇年余を経て蓄積された研究を踏まえて、ヘルトは当時の動向を右のように総括せざるをえなかった。つまり『デカルト的省察』において、フッサールは間主観性の問題を提起しつつも、それに適切な解答を与えることができていないというわけである。
 その理由は、主として、同書で設定された間主観性の問題と、それを解決するために提示された説明とのあいだの齟齬にある。詳しくは第六章第2節で述べるが、「間主観性」とは、単に私にとって存在するだけでなく「皆にとって(für jedermann)」存在する対象や世界に帰せられる性格である(I, 123)。そしてフッサールの主張によれば、いわゆる客観性とは、超越論的現象学の枠組みの中では間主観性にほかならない。このとき、間主観的に存在する世界の相関者である「皆(jedermann)」とは、世界内に客観として存在する人間ではなく、それらの客観が構成される場としての諸々の超越論的主観のことである。そしてフッサールは、この「皆」として個体化・複数化された超越論的主観のことを「モナド」(I, 102)と呼ぶ。だが私のモナドが唯一の中心ではないということを知るためには、私は、何らかの仕方で他のモナド(つまり超越論的な他者)について経験せねばならない。よって、間主観性の問題(いかにして世界が間主観的なものとして構成されるかという問題)は、「超越論的な他者経験の理論(eine transzendentale Theorie der Fremderfahrung)」(I, 124)によって解決されるはずである。
 なお、同書の第五省察で実際に提示された超越論的な他者経験の理論によれば、間主観的な世界の構成に資する他者経験とは「感情移入(Einfühlung)」であるとされる(I, 124, 173, et al.)。感情移入論の詳細には第三章以降で立ち入るが、さしあたりここで確認しておきたいのは、フッサールの言う感情移入とは、その字面に反して、喜びや悲しみなどの「感情」の移入に尽きるものではないということである。むしろ感情移入として想定されているのは、私が私の身体に似た物体を知覚し、それを私とは異なる諸感覚の担い手として、すなわち他の身体として把握するはたらきである。(なお、こうした事情からEinfühlung は「感情移入」ではなく「自己移入」と訳されることもあるが、本書では、後述する「思考移入」との対比のために、「感情移入」という訳語を選択した。)
 しかし一見すると、感情移入によって経験されるのは、世界内の客観としての他の身体でしかないように思われる。つまり、仮に感情移入という種の経験が可能であったとしても、それによって出会われるのは経験的他者であって、問題とされていた超越論的他者ではないのではないか――こうした懸念から、研究者のあいだで「フッサールは間主観性の問題を解決していない」という見解が共有されるに至ったのである。
 そこでフッサールの研究者(あるいは批判者)は、間主観性の問題を解決するために、次のいずれかのアプローチを採ることになった。第一は、『デカルト的省察』から離れて、フッサールの生前には未公刊であった草稿の中に間主観性の問題への解答を見出そうとする試みである。これはつまり、フッサール研究の枠内にとどまったアプローチである。先述のヘルトの論文はこの方途を採り、フッサールの時間論の中に、超越論的な自他関係の根源を見出そうとしている。そしてこの時間論による解決においては、感情移入という他者経験を手がかりとしつつも、むしろそれによって意識されるモナド間の関係についての理論(モナドロジー)が重視されることになる。
 しかし第二に、そもそもフッサールのテクストの解釈から離れて、間主観性の問題を独自の仕方で解決するという方法もありうる。これは、ヘルトの論文でも紹介されているトイニッセンの大著『他者』(一九六五)に端を発するアプローチである。そこにおいて彼は『デカルト的省察』への詳細な批判を行った上で、ハイデガー、サルトル、ブーバー等を援用しつつ、「対話(Dialog)」概念を中心に据えた新たな理論を作り上げようとしている。この場合には、フッサールの間主観性の現象学の基礎にモナドロジーがあることが踏まえられつつも、むしろ他者経験の理論の方に力点が置かれていると言える。つまりこのアプローチにおいては、感情移入しか扱っていない『デカルト的省察』の他者経験の理論を克服するために、「対話」や「伝達」という概念が導入されるのである。
 ヘルトとトイニッセンが確立したこれら二種のアプローチは、その後の間主観性についての研究を規定しつづけることになった。例えば一九七八年にトイニッセンの『他者』の抄訳を行った鷲田清一は、その「訳者付記」において、「現在のところトイニッセンとヘルトのこの二研究をもって、現象学的相互主観性〔=間主観性〕理論はその意義を隈なく計量されたといってよかろう」と評している。この鷲田の評価は、たしかに当時においては適切であった。実際、ヘルトの論文から一年後の一九七三年に『フッサール全集』第ⅩⅢ〜ⅩⅤ巻として公刊された『間主観性の現象学Ⅰ〜Ⅲ』も、研究者の見方を決定的に変えるには至っていなかった。むしろ合計一八〇〇頁を超えるそれらの草稿集を通して明らかになったのは、ヘルトとトイニッセンの洞察が大筋において正しかったということであった。これらの巻に収められた草稿によれば、たしかにフッサール自身は、モナドロジーと時間論を深化させることに多くの労力を割いていた。それゆえ『間主観性の現象学』、特にそこに収められた晩年の草稿は、同時期の彼の時間論と関連づけて論じられることが多かった(e.g. Rodemeyer 2006, 榊原2009, 田口2010)。他方で、他者経験の理論を言語的コミュニケーションの場面にまで拡張するための手がかりはこれらの草稿集の中にもほとんど見当たらなかった。それゆえ従来は、フッサールの間主観性の現象学の中では言語を介した自他関係はほとんど論じられていないという解釈が一般的であった。こうした解釈は、例えば野家の次の発言のうちに見出される。

フッサールの現象学の展開の中では、言語表現の機能は一貫して学問的認識あるいは真理の認識に従属させられており、それが爾余の一切の認識と表現の原型となっているように思われる。このようなフッサールの基本姿勢は、後期の間主観性の現象学、とりわけ他者構成の問題においても、言語の機能する次元を全く考察の外に置く、あるいは置かざるを得なかったという形で現われている。(野家 1993, p. 12)

同様の見解は、国内外で広く共有されていたと言ってよい。そのため他者経験の理論を言語的コミュニケーションの場面にまで拡張しようという試み(e.g. Zahavi 1996, Waldenfels 2007, Tengelyi 1998, 2007)は、トイニッセンとは違う仕方ではあるにせよ、やはりフッサールの文献研究の枠を越え出るしかなかったのである。
 
2 「伝達」という概念の重要性
 
 しかし前節でまとめたような研究動向は、近年になって変化しつつある。鷲田が慎重に述べていたように、上述の二研究が支配的であったのは「〔一九七八年という〕現在のところ」のことである。それから四〇年以上を経た今、新資料の公刊等によって、フッサールの間主観性の現象学に対する新たなアプロチが可能となった。それはすなわち、フッサールの文献研究の枠内で、伝達の場面における他者経験を論じるという方法である。このアプローチの特徴としては、以下の二点を挙げることができる。
 
⑴フッサール自身の「伝達」概念を研究する
 フッサール自身が「伝達」という概念を用いていることは、デリダやヴァルデンフェルスによる紹介を通じて、たしかに以前から知られていた。例えば、『間主観性の現象学』所収の諸草稿の中には「伝達(Mitteilung)」への言及がいくつかあり、特に一九三二年には「伝達の共同体の現象学」と題された草稿が書かれてもいる。また、この「伝達の共同体」という概念が、フッサールの最晩年の論考「志向的歴史の問題としての幾何学の起源についての問い」(一九三九、以下「幾何学の起源」)において登場することも周知の事実であった。しかしこれらの散発的な記述だけから、伝達に関するフッサールの体系的な思想を読み取ることは困難であった。
 こうした事情は、そもそも彼が『論理学研究』(一九〇〇/〇一、以下『論研』)において「独白的な語り(einsame Rede)」に注目するために「伝達的な語り(mitteilende Rede)」を考察の埒外に置いたことに端を発している(XIX/1, A36, 32)。それ以降の彼は、少なくとも公刊著作の中では、伝達について主題的に論じてはいない。それゆえ、最初期の著作である『論研』の中で表舞台から退けられた「伝達」概念が、最晩年の論文「幾何学の起源」の中に再登場するまでの経緯は、長らく隠されたままだったのである。
 しかし近年、新資料の公刊によって、「伝達」概念がフッサールの思索の中で重要な地位を占めていたことが明らかになりつつある。特に決定的であったのは、二〇〇二年と二〇〇五年に出版された『論理学研究の補巻』(全集ⅩⅩ/1、ⅩⅩ/2巻)である。そこにおいては、『論研』第二版のためにフッサールが準備しつつも、公刊された第二版には反映されなかった諸草稿が収められている。そして興味深いことに、その中には、第一版で度外視されたはずの「伝達」についての大量の記述が見出されるのである。ただしこの『論研』書き換えのための草稿については、同巻の編者でもあるU・メレによるものをはじめとした若干の論文(Kern 2019, Sinigaglia 1998, Melle 1999, 2008, 佐藤2016)を除けば、現在でもあまり研究が進んでいない。そこで本書は、これまで研究が手薄であった『論研』の改版プログラムについて一定の解釈を提示した上で、なぜそこにおいて「伝達」概念が取り上げられるに至ったのかを考えてみたい。完成に至らなかったとはいえ、フッサールの出版計画の中で「伝達」に関する理論が重要な地位を占めていたということは、それが単なる一時の思いつきではなかったことの証左となるだろう。
 
⑵伝達の場面での他者経験に注目する
 しかし『論研』改版プログラムの中で準備されていた「伝達」に関する論述は、公刊された『論研』第二版の中にはほとんど反映されることがなかった。論理学というテーマに限定された同書の中にそれを取り込む余裕がなかったことは、ある意味では当然のこととも言える。そして「伝達」概念は、『論研』の全面的な書き換え計画が頓挫したのちには、他者論の中で、とりわけ一九二〇年代以降の「共同体」をめぐる考察の中に登場するようになる。こうした経緯を踏まえ、本書は、フッサールの他者経験の理論の全体像を「感情移入」のみならず「伝達」に関する部門を含むようなかたちで再構成してみたい。
 このようにして「伝達」を「感情移入」と並べるという方針は、『デカルト的省察』に関連する資料によって文献的な裏づけを得る。それはすなわち、一九三二年に当時フッサールの助手であったE・フィンクが委嘱されて執筆した『第六デカルト的省察』である。同書が『フッサール全集』の記録集の第二巻として公刊されたのは一九八八年のことであり、これによって『デカルト的省察』を新たな観点から読解することが可能になった。特に本書が注目するのは、フィンクによる以下の発言である。

他者という観察者が私に与えられるのは、ただ感情移入(伝達)によってのみである。(Husserliana Dokumente, Bd. II/1, S. 60)

同書がフッサールとフィンクの共著として出版される予定であったことを鑑みると、この主張をフッサール自身に帰すことも可能だろう。つまりフッサール自身が、他者経験の理論の中で「感情移入」のみならず「伝達」をも扱おうとしていたのである。
 ただし引用文中の「感情移入(伝達)」という語句にはさまざまな解釈の余地がある。そもそもここでの丸括弧は何を意味しているのか。感情移入と伝達が言い換え可能ということなのか、あるいは伝達が感情移入とは別種の他者経験であるということなのか――こうした問いに対する本書の見解をあらかじめ述べておこう。筆者の見るかぎり、伝達の場面においては感情移入とは別種の他者経験が起こりうる。ただし、伝達そのものが他者経験であるという言い方には語弊がある。後ほど論じるように、むしろフッサールによれば、「伝達」とは表現のやり取りを介してなされる諸々の相互作用を総称する語であり、その中で「他者経験」と呼ぶに相応しい作用は二種だけである。本書の解釈によれば、その二種とは「語りかけの受容(Aufnahme der Anrede)」と「思考移入(Einverstehen)」である。これらと感情移入を合わせると、結局フッサールの思想の中には三種の他者経験が見出されるのである。しかし彼の著作や草稿の中で明示的にこれらの区別がなされている箇所はごく僅かである。それゆえ「感情移入」と「伝達」という二分法に注目する先行研究はいくつかあったものの(e.g. Kozlowski 1991, 浜渦1995, Beyer 2013, Perreau 2013)、伝達の中にさらに二つの他者経験を区別するという試みは未だなされていない。したがって本書は、この点で従来にはなかった新たな他者経験の理論の枠組みを提示することになる。
 
3 伝達の場面での他者経験から倫理学へ
 
 第2節で示したように、本書は「フッサールの文献研究の枠内で、伝達の場面における他者経験を論じる」というアプローチを採る。しかし第1節でも確認した通り、フッサール研究という枠を外して現象学一般にまで視野を広げると、伝達の場面での他者経験はさまざまな仕方で論じられてきた。先に触れたトイニッセンのほかに、ここで新たに挙げておきたいのは、『デカルト的省察』の仏訳者の一人でもあったE・レヴィナスの諸著作である。特に彼の主著『全体性と無限』(一九六一)や『存在するとは別の仕方で、あるいは存在することの彼方へ』(一九七四、以下『存在するとは別の仕方で』)においては、対話の場面における他者経験の中に他者への責任の起源を見てとるという仕方で、現象学的な他者経験の理論を、独自の意味での倫理学として確立することが試みられている。よってそこでは、他者論はもはやフッサールの言う意味での間主観性の現象学ではなく、むしろ倫理学として展開されることになる。そしてレヴィナスの登場以降、現象学においては、他者論と倫理学の関連が強く意識されるようになる。例えばヴァルデンフェルスの「応答倫理学(responsive Ethik)」やテンゲイの「基礎倫理学(Elementarethik)」は、レヴィナスの問題提起に影響を受けつつ、フッサールの思想を下敷きとして構想された独自の倫理学である。本書はこれらの構想を参照しつつ、よりフッサールに内在的な仕方で、彼の他者論の倫理学的意義を考えてみたい。
 こうした本書の方針に対しては、「なぜフッサール自身の倫理学をそのまま利用しないのか」という疑問が寄せられるかもしれない。たしかにフッサールは、他者論と並行して、講義録や論文などを通じて独自の倫理学を展開している。すると、それをそのままのかたちで他者論に接続しさえすれば、他者論と倫理学の架橋が達成されるように思われる。しかし実際には、話はそれほど単純ではない。というのもフッサールの他者論と倫理学は、彼自身のテクストにおいても従来の研究においても、別個に論じられる傾向があったからである。
 フッサールの他者論については、それが従来の研究動向において倫理学と関係づけづらかったことは当然だろう。なぜなら『デカルト的省察』において提示された他者経験の理論は、専ら感情移入論だけだったからだ。第三章以降で詳しく述べるように、フッサールの言う「感情移入」とは相手の身体についての経験であり、知覚に類するものである。それゆえ感情移入の場面にとどまるかぎり、対他的な当為や実践について論じる余地はないのである。
 これに対しフッサールの倫理学は、ようやく近年になって本格的に研究されるようになった分野である。A・ロートの先駆的な研究(Roth 1960)を別にすれば、フッサールの倫理学は、関連する草稿が長らく未公刊であったこともあり、あまり注目されてこなかった。しかし全集ⅩⅩⅧ巻(一九八八)、ⅩⅩⅩⅦ巻(二〇〇四)、ⅩLⅡ巻(二〇一四)の出版によって、フッサールの倫理学に関する講義原稿やメモの大半が公開されたことにより、その全体像を捉えようとする試みが活発になりつつある(e.g. Melle 2002, 2004, 吉川2011, 八重樫2017)。しかし、それらの研究によっていみじくも明らかになったように、フッサール自身の倫理学の中に「他者」に関する言及は驚くほど乏しい。第二章および終章で見るように、彼の倫理学は個人の選択や人生全体について論じるものではあるが、それらの選択や人生が他者との関係の中で形成されるという点については、ほとんど顧みられていない。つまり彼は、他者論(間主観性の現象学)の枠内で他者に関する膨大な草稿を残しつつも、倫理学の中にそれを反映させようとはしていないのである。
 このようにフッサールの思想の内部においては、一見すると他者論と倫理学のあいだに断絶があるように見える。そこで本書は、まず第Ⅰ部においてこの断絶が生じている原因を解明した上で、第Ⅱ部で、それを埋めるための方途を彼の他者論のうちに求めていく。各部の章構成は次の通りである。
 まず、第Ⅰ部「フッサールの他者論と倫理学の断絶の原因」においては、先述のような断絶が実際にどのような仕方で起きているかを確認し、その原因を探ることが試みられる。そこでまず第一章では、『論研』において、伝達のために重要な役割を果たす種類の表現(非客観化作用の表現)と、表現の機能(告知機能)が度外視されていることが確認される。つづく第二章と第三章において示されるのは、このような制限が課されている状態で形成された倫理学と他者論が互いに没交渉であるということだ。するとこれにより、そもそも『論研』で行われていた伝達に関わる諸要素の度外視こそが、フッサールの他者論と倫理学の断絶をもたらした原因であることが判明するだろう。
 そこで、第Ⅱ部「フッサールの他者論の展開とその到達点」においては、この断絶をフッサールの文献解釈の範囲内で解消することを試みる。そのためにまず第四章で確認されるのは、『論研』で度外視された上述の諸要素が、ほかならぬ『論研』書き換えのための諸草稿において回収されていることである。これによりフッサールの現象学の中で伝達を体系的に論じることが可能となる。そして同じく第四章では、伝達における相互理解の過程において感情移入とは別の二種の他者経験が析出され、それぞれがフッサール自身の言葉遣いにならって「語りかけの受容」と「思考移入」と名づけられる。その上で第五章では、一九二一年前後の他者経験の理論の展開を追うことによって、それが感情移入論と語りかけの受容の理論と思考移入論の三つの部門からなるものとして提示される。このとき、それぞれの理論の内実は、それぞれの他者経験によって形成される共同体が何であり、その相関者としての世界がどのように現れるかという観点から説明されることになる。さらに第六章では、このような他者経験の理論の全体像を踏まえて、『デカルト的省察』前後のフッサールの他者論が再解釈される。それによって明らかとなるのは、自然的世界における感情移入と社会的世界における思考移入の中間にある「語りかけの受容」の理論こそが、とりわけ他者の異他的な(fremd)側面を扱うという意味で、彼の他者経験の理論の到達点と呼ぶべきものだということである。
 以上を踏まえて終章においては、この「語りかけの受容」の理論を介して、フッサールの他者論と彼自身の倫理学が接続される。そしてさらに、「語りかけの受容」の理論のポテンシャルを最大限引き出すべく、それが「基礎関係の現象学」という一般的なプログラムのうちに置き入れられ、その枠内でレヴィナスの倫理学と比較されることになる。
(傍点および注は省略しました)
 
 
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